6 - 不得手に触れて手も増えて

 ティッサが着替え終わると、彼は既に弔い泥の皿を手に用意していた。銀の川の中洲から採れる泥に黒百合の花の灰を混ぜ、榛の細枝を埋めて一晩以上寝かせたものだ。泥のついた枝を筆にして目から下へ線を引き、泣き跡をかたどる。仮に何らかの事情で涙が出ないとしても、心から悼む気持ちを表して見せるためのものだ。

 キィスの手で塗られた泥の線はやや途切れ途切れだった。泥を塗らず避けた部分には傷があるようだ。鏡がないので自分の顔が今どのような状態なのかよく分からない。ちゃんと治るだろうか。体の傷はまだしも、顔に目立つ傷跡が残れば娼婦としては生きづらくなる。

 ティッサは、自分で自分の顔に泥を塗るキィスの横顔にじっと視線を注いだ。母に望まれた通り彼女と違う生き方をするとして、何を選べば良いのかこれまでは思いもつかなかった。弟子入りや奉公を考えたとて、異国の血の濃いティッサではトゥレン中どこを訪ねても厄介扱いされるだけだ。母を置いてトゥレンを離れる気もなかった。

 だが今はキィスという手がかりがある。彼の指物師の技量や、あるいは魔導師とやらの不思議な業の一端でも学ぶことができたら、いつか一人で歩く日の飯の種になりはしないだろうか。トゥレンを出れば、ティッサのような者を快く受け入れてくれる街がどこかにあるかもしれない。

 靴は新しいものではないが、底は補強されていて穴がなくなっていた。ティッサはキィスに言われて外に出た。外から鍵をかけるのはいつ以来だろう。やけに回しづらく、鍵穴からは赤い錆がこぼれ出た。盗まれて困るようなものはほとんどないし、どうせあと少しで出ていくことになるだろうが、最後の最後に誰かに乗っ取られるのも癪だ。諦め悪く試みるうちに、ようやく鍵の閉まる手応えがあった。

 室内よりはいくらか明るい中で、改めてキィスの姿を観察してみる。目の前に立たれると、これまで以上に彼の上背を感じた。彼の顔を見て話すには随分体を反らねばならない。首を痛めそうだ。

 キィスの服は体に沿うように、布の余りは少ない。ただし至る所に衣嚢がついているため、その分重そうに見える。内に着ているそれは至って地味な薄墨色だが、背に引っ掛けた外套は鮮やかな刺繍が目を引く。鳥の羽根のよう細長い葉や、小さな赤い実の集まり――、見たことのあるような意匠だが、何の樹かティッサには思い出すことができなかった。膝まである長靴にも本物さながらに蔦が這う。概ね革のようだが、よく見ると靴底は木でできている。

 彼は長い杖を手にしていた。手頃な枝を拾って使ったような曲がった杖で、かなり黒ずんで見える。使い込まれたもののようで、握りやすそうな場所は艶があり、下へいくほど細かい傷が増える。杖全体に彫られた模様は彼が自分で施したものだろうか。これは刺繍とは違い、何を模しているのか見当もつかない。

 キィスが俯き加減になると、ティッサからはかえって彼の顔がよく見えた。彫りの深い顔立ちが、彼の生まれた土地を物語るようにくっきりと明暗をなしている。北方の民に多い顔だ。緩く一つにまとめた髪は、日陰ではほとんど黒に見えるが、陽が当たると僅かに赤く波打つ。ティッサよりもずっと、目立たぬ程度の赤。ティッサはそれを見て何故か少しだけがっかりした。しかし、いずれにせよ髪に赤みがあるのも川上から来る人々に多く見られる特徴で違いない。

 彼のような見た目の者は、商い人として富をもたらす限りは歓迎されるが、トゥレンに居着こうとすると激しく疎まれる。つまりその疎まれる側にいるのがティッサである。あるいは異国の血の混じるティッサが異国の男に連れていかれるのは生まれついた時からの定めであったかもしれない。

 キィスが歩き出す。ティッサはその足跡を追いかけた。

 風に当たると、生乾きだった泥があっという間に乾いて肌に張りついた。先ほど粗相をした跡も既に目立たなくなっている。ティッサが横目で気にする一方、キィスはそちらには目もくれず路地を行った。複雑な岐路に惑わされることなく正確に裏通りへ向かう。指物道具の詰まった大きな笈を背負っているのに、壁にぶつけたりもしなかった。何のために持ってきたのか、杖の先は宙に浮いている。

「ここらにはよく来るの? 贔屓の人でもいた? うちに来たのは……初めてだよね」

 母はあまり頻繁には客を取らなかったので、ティッサは彼らの顔をそこそこ覚えている。キィスの顔は記憶にない。

 キィスはちらりとティッサを振り向いた。

「贔屓の女もいないし、この土地に親しみがあるわけでもない」

「嘘。慣れていない路は街の人でも迷うのに」

「私は魔導師だから」

「魔導師は道が分かるの?」

「人にもよるだろうけれど、どのような者がこの道を歩いたか探るのは私の得意とするところだ。君の家も、君のことも、そうして見つけた。逆に、道なき道を拓くのは苦手だね」

 魔導師は不可思議な力を操るが、万能ではないらしい。

 風向きが変わる。淀んだ空気が大きな風の流れに乗って霧散する。二人は裏通りへ躍り出た。人通りはあるが、表通りほど混雑してはいない。買ったばかりの菓子を頬張って歩く者もなければ、露店の前でしゃがみこんで延々と値切る者もいない。皆足早にどこかへ向かう途中だ。裏通りは同じ商いでも一見を断るような性格が強く、目的のない者がふらふらと店先を冷やかして回るような場所ではない。キィスとティッサも寄り道をする気はなかった。

 道幅が広くなったので、ティッサはキィスの横に並んで歩いた。キィスはゆったりと、ティッサは小走り気味に、互いの歩調を合わせるように。それでもティッサはキィスに置いていかれそうな気がして、右手で彼の腕に掴まった。指が曲がらないのでこちらから手を握ることはできないが、引っ掛けるだけなら右手でも十分だった。振り払われないことを確認してから、ティッサはさりげなく話を続けた。

「あなたにも苦手なことがあるんだ」

「無いように見える?」

「じゃあ、道なき道を拓く……の他には?」

「針仕事」

 キィスは答えた後、わずかの間ティッサから顔を背けた。恥ずかしがるほど不得手なのだろうか。彼が魔導師ということを抜きに考えても、あの指先でなんでも器用にこなしてしまいそうなものなのに、意外だ。ティッサの古い服を繕わずに新しい服を用意したのにはそういう理由もあったのか。彼の言うことが本当であれば、外套の刺繍も彼の手によるものでないのだろう。

 左手をめいっぱい握りしめてみる。驚くほど握力がない。

「繕いなら任せて、って言いたいところだけど。左手で慣れるには時間がかかりそう」

 ティッサは軽く左手を振ってみせた。キィスは黙って見ているかに思えたが、いつの間にかティッサの右手を取って持ち上げていた。

「そのうち右でも針を持てるようになる」

「この右手で?」

 彼はただ手を繋いでいるだけのつもりだろうが、身長差があるせいでティッサは強く手を引かれるように感じた。飛び跳ねて、もげる、もげる、と主張すると、キィスはようやく気づいて手を下ろした。

「別の右手を作るんだ。今の手は体の傷が落ち着くまでの一時しのぎ、壊れることが前提の仮縫いのようなものだ。だから同じ胡桃でも比較的頑丈な鬼胡桃より沢胡桃の方が向いている」

「胡桃って、さっき粥に入れて食べたのと同じ?」

「食べる胡桃は鬼胡桃。沢胡桃の実は食べられない」

「そうなんだ」

「沢胡桃は山の木だから、あまり街の近くでは見かけないのかもしれない。湿気に弱いから、川に流して運ぶにも向かない。白くて綺麗でやわらかい、加工のしやすい材だから、結構気に入っているんだが」

 キィスは顔を上げて遠くの青い山並みを見やった。

「濡らしたらだめなの?」

「腐りやすいからね」

 厠で水瓶に右手を浸さなくて良かったと、ティッサは胸をなでおろした。

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