5 - 白雨はいつも惨めで短い
「ところで、腹が空いているんじゃないか」
キィスはティッサに背を向け、地炉に積もった灰を火鋏でつついた。灰の布団を剥ぎ取られた熾は、深く息をするようにゆっくりと熱の勢いを増す。既に燃え進んで形が崩れてはいるが、どことなくティッサの手と似たような形の薪だった。失敗作だろうか。
少しして、炉にかけた鍋が煮立ち始めた。麦の粥だ。ティッサは臥せっている間、その上澄みだけを口にしていた。はっきりと塩味のあるだけでも久しぶりのことだったが、粥の実があるのを見ると泣きそうになった。
炉に近付こうと身じろぎすると、急激に下腹に違和感が起こった。久しぶりに体を起こしたせいか、体の中の水分が下の方に集まったらしい。催していた。
目の前にある美味そうな食事で一刻も早く腹を満たしたい気持ちと、その前に出すものを出すものを出して気分よく飯にありつきたい気持ちが戦った。ティッサが迷ううちに、もう粥が炊きあがろうとしている。先に一口、一口飲み込んだら椀の中身の冷めぬうちに用を足して戻ってこよう。ティッサは淑女がするように固く固く膝を閉じた。体中から冷や汗が滲み出る。
キィスはといえば、ティッサの苦悩も知らず鼻歌など歌いながら鍋をかき混ぜている。ティッサの知らない調べだったが、あまりそちらに注意を向ける余裕もない。今うっかり彼が大声を上げでもしたらまた恥を晒すことになるだろう。寝たきりでいた間のことは仕方ないとしても、起きて動けるようになったのに同じことをしては彼も呆れて見限るのではないか。
ティッサはできるだけ大きな動きをしないよう、寝台の端へにじり動いた。均一な速度でゆっくりと足を床に下ろし、体重をかける。自分でも己の時間だけ遅くなったと勘違いしそうなほどの慎重さでティッサはようやく立ち上がった。炉の前で胡座をかいて座っているキィスが、何気ない顔でティッサを見た。
「か……厠!」
ティッサは声を押し殺しながら叫び、叫んだ時にはもう駆け出していた。
玄関扉を乱暴に開ける。冷たい風がティッサの両肩をすり抜けていく。砂利を踏んだ。靴を履くのも忘れて出てきてしまった。身震いしながら目の前の角を曲がったところで、堪える間もなく温かいものが太腿を濡らした。ふくらはぎを滑り、踵に降りかかる。ティッサはもうあと五、六歩ほど進んだところで足を止め、壁にもたれかかった。足元の硬い土の上に、晴天に似合わぬ水たまりができていく。ついでに涙まで堰をきったように流れ出し、ティッサは袖口で洟を拭った。よく見ると、袖の擦り切れていないそれはティッサの服ではなかった。
いい年をして情けない、惨めだ、という気持ちで泣いていたはずだったが、案外吹っ切れるのも早かった。下履きも靴も履いておらず汚さずに済んだのだから幸いだ。ティッサは泣き止むと、点々と足跡を残しながら厠まで歩いた。広い裾を膝の上でつまみ上げ、濡らしてしまわぬよう気をつけながら。
糞壺からは相変わらず老若男女の糞尿入り混じる芳しい臭いが漂い、大小の蝿がしつこく飛び回っている。ティッサは糞壺の横に備えられた水瓶から、羽虫の死骸をできるだけよけながら水を汲み、股から爪先まで丁寧に洗い流した。もらったばかりの右手を濡らすのは気が引けて、左手だけで行う。雨が降ったばかりで、瓶の水そのものは新しく澄んでいた。
何もかもさっぱりとしてティッサが戻ると、キィスは煮詰まりすぎた粥に水を足しているところだった。水差しを置き、おかえりでも遅かったでもなく、
「あまり無理しないことだ」
と、全て見ていたような調子で言う。ティッサはほとんど落ち着いていた自分の顔がまた赤くなるのを感じた。何か言いたいが何を言って良いのか分からずにいると、キィスは神妙な顔つきでティッサを見た。
「痛みは?」
「大丈夫だよ。ほら」
ティッサは体の具合を聞かれているのだと思って両腕を広げてみせた。
少し捻ったりするとまだ痛みを感じるものの、本来の傷の具合を考えれば無いに等しい。が、キィスの表情は優れなかった。
「小便をする時、股の間は痛まなかったか?」
「なんでそんなこと聞くの!」
ティッサは思わず眉根を寄せた。体調を気遣ってくれていることは分かる。だが、少女の恥じらいという概念は頭にないのか。腕の調子はどうだとか、肋は痛まないかとか、歩くのに支障はないかとか、他にも問うことはあるだろうに何故わざわざそんな質問を――もちろんわたしが厠に行ったからだ、だけどそうじゃない。ティッサは今にも頭を掻きむしりそうに苛立った。
しかし、キィスは察して引き下がるどころかかえって肩をいからせる。
「この数日一体誰が君の糞と小便を拭ったと思っている。小便に血が混じっていたから聞いているんだ」
ティッサの羞恥は最高潮に達し、つい手についたものを投げつけそうになった。が、思いとどまり首をひねる。肌の上で目立つほどの出血はなかったはずだ。目立つといえば、治りかけの痣があちこち黄色く変色しいていたくらいで。
「特に何も、なかったと思うけど……」
ティッサは口ごもった。何か悪い病だろうか。否、母と違って自分はまだ綺麗なはずだ。まだ誰にも体を開いてはいない。何も病をもらったりはしていない。だけど、もしかして。焦り、急に怒りがどこかへ行ってしまって、ティッサは肩をすぼませた。
しかし、キィスは反対に安堵した表情を浮かべ、
「なら良い」
と柔らかに笑みながら己の隣にティッサを招いた。ティッサはおろおろと迷い、少しだけ間を置いて彼の横に座る。
「あれは放っておいてもそのうち治るが冷やすと悪くなる。寝る時は腹を出さないように」
キィスの言葉にティッサは肩透かしを食らった気分だった。命に関わるものでなくて良かったといえばそうなのだが、一瞬でも死の病を覚悟したのだ。ティッサは呆れて溜息を漏らした。
「わたし、寝相悪くないよ」
「それは結構」
キィスは再び十分に温まった粥を椀によそい、匙とともにティッサに差し出した。ティッサは日頃の癖で右手を伸ばし、義手だけでは不安なので左手も添えた。やはり木でできた右手はじわりと粥の熱を伝える。不思議に思いながらティッサは椀の周りを右手でなぞった。
「全ての痛みを消したわけではないからね。その右手のある状態で耐え難く痛む時は全てを投げ出しても楽にしなさい」
「気をつける」
ティッサは小声で返事をしながら、やはりあれは飯を前に話すことではないと考えていた。肥取りでもあるまいし、厠の話で飯が美味くなるはずもない。ティッサは優しげだがどこか配慮の足らないこの男に段々とまた文句を言いたくなり、しかしそれ以上の大声で腹が鳴いたので、その瞬間椀の中身以外はどうでも良くなった。
キィスが炊いた粥は舌を火傷しそうなほど熱かった。冬の間も満足に薪を買えないことがあったのを思い出し、ティッサはそれらを同時に飲み下した。粥には大きな胡桃の塊も入っている。実をほじくり出した後の殻の割れたのを舐めて、どうにか餓えをしのごうとしたことが脳裏に浮かんだ。ティッサはそれらを噛み砕いた。気づくと手にした椀は空になっていて、ティッサが杓子に手を伸ばすより先にキィスの手でまたなみなみとつがれた。ティッサはそれも夢中で平らげた。味の良し悪しを考える暇はなかったが、とにかく味があった。
流石に三杯目は食い意地の張りすぎだと思い、ティッサは炉の縁に椀を置いた。まだ食べたりないと感じてしまうのは、空腹のためではなく空腹の習慣ができてしまったせいだろう。急いで食べなくとも鍋にはまだたっぷりと残りがある。まだ、あんなに沢山――。ティッサはどうにか視線を鍋から引きはがし、キィスに目を向けた。
キィスの椀は自前のものであろう。木の実のような飾り彫りがあり、ティッサのものよりいくらか大きい。だが、彼が自分のために取り分けた粥はティッサに寄越したよりも明らかに少なかった。大柄の割に少食なのかと思っていたら、匙に口を近づける度息を吹きかけていた。彼は猫舌なんだとはにかみ、すっかり冷めた粥を口にした。
彼が長くかけて食事を終える頃には、ちょうど炉の中の火が尽きかけていた。熾を散らして火が完全に消えるのを待つ間、ティッサはキィスが用意したまた別の服に着替えた。この調子では前に着ていた服は雑巾にでもされたかと思っていたら、律儀にたたんで長櫃の中にしまわれていた。
キィスがティッサのために選んだのは、トゥレンの民が好んで着るごく日常的な貫頭衣だ。ただし、ティッサの体よりも僅かに大きく、裾も詰めていない新しいものであるから、裾を引きずることはないまでも少々動きづらい気がする。それをキィスに訴えると、早く慣れろと言われてしまった。
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