8 - 亡骸の上の泣き面
「あまり気にするな。彼の言う『青臭い』は当分死にそうにない、ぐらいの意味だから」
「褒め言葉には聞こえなかった」
「まあ、褒めてはないだろうが。あの鉈貸しは死んだ女にしか興味がない。生きた女は誰も彼も嫌いなんだ」
キィスはしばらく棺の蓋をあちこち触っていたが、やがて背負っていた笈の中から槌を取り出した。ティッサはキィスの言葉の意味を理解し、急な寒気を感じてぶるりと震えた。
「食うとか食わないとかって、そういう意味なの? 一緒に鍋でも囲むつもりかと思ったのに」
「言葉の難しいところだな。言葉の通じる相手こそ、最も誤解を生みやすく理解しがたいということだ」
異国からやってきた旅人は、何やら意味深長に呟いた。
彼は槌で棺の角を幾度か叩いた。蓋が僅かに浮いたところで隙間に指を差し入れ隙間を広げる。単純に力だけで持ち上がるようにはなっていない。四隅で同じ作業を繰り返してようやく完全に蓋が外れる。
棺の中には五日ぶりに見る母の顔があった。あの家の寝台で眠っていた時と何ら変わらない顔であった。元からの病でやつれてこそいるものの、死んで日が経っている割に肌が醜く変色したということもない。ただいまと声をかければ、いつものようにうっすらと目を開けておかえりと答えてくれそうだ。だが決して答えが返らないのが恐ろしくて、ついぞただいまとは言えなかった。この数日間、夢現を彷徨いながら何度もその事実を思い返してきたのに、こうして亡骸と相対するとやはり冷静ではいられない。
「ごめんなさい」
数えきれないほどの想いが頭の中を巡り、至らなかった一つひとつに謝りたいがそうもいかない。ティッサは心の中で謝罪の言葉を繰り返した。胸の中で響いて木霊のように繰り返す。体が焔に焼かれ灰となっても、この幾重に鳴り響く声は消えることがないだろう。
母の見た目で大きく変わったことと言えば、服だ。ティッサ同様彼女も新しい小綺麗な服に身を包んでいる。その上から毛布のようにかぶせられているのは、トゥレンではあまり見ない形の羽織もののようである。黒地に黒い刺繍。濃色の糸には高価なものも多いが、ここまではっきりと黒い糸はほとんど見たこともない。意匠は山葡萄。干葡萄が好物だった母には誂え向きだ。
ティッサはキィスの外套に視線を移した。どちらもトゥレン風ではなく、彼がトゥレンに来てから入手したとは考えづらい。どこか別の街に腕の良い針子がいたのだろう。ただ刺繍があるだけで同じ針子のものとは断定できないが、ティッサはなんとなく針を通したのはどちらも同じ人ではないかと思った。透明で掴むことのできない光の糸がそれらの間に揺蕩い、近かろうが遠かろうが切れることなく縁を繋いでいる、そのような心象がふと目に映る。目をしばたたくと消えている。自分には糸が繋がらなかった。このような白昼夢は、まだ母と別れがたい気持ちや、キィスに置いていかれないか不安に思う気持ちが見せるものだろうか。
母の額を撫ぜる。見た目には分かりにくいが、触れるとかさついている。かつて数少ない友達、あるいは近所の名も知らぬ子供をここへ葬りに来たことがあった。垂帛奥で鉈を借りる時、鉈貸しが預かるあれらの棺にはどんな金持ちが眠っているのかと思って見ていた。まさか初めて見るその人が、自分の母であろうとは。
もう一つの棺はただ安い板を人が入る大きさに貼り合わせただけの印象だが、こちらは板の色艶からして違う。蓋の四隅を中心に幾何学模様の彫刻があり、箱の方には目立つ彫刻はないが、木目自体にところどころ鈴なりの丸やさざなみのような模様が入り、奇妙な魅力を感じさせる。
ティッサは眦に浮いた涙をこすった。
「この棺もキィスが作ったの?」
「元は出来合いだよ。丁度良く栃材の良いものが手に入った。それで彼女がつまみ食いをされないように少し細工させてもらったんだ」
「蓋のところとか」
「そう。指物の要領で造りを知らぬ者には開けづらいように、だが後付けで強度が足りないから魔導で補った。開けるより閉めたくなるように」
言葉の意味をはかりかねてティッサが首を捻っていると、彼は
「鉈貸しが上に座っていただろう」
と掌を下に、腰を下ろす手振りをした。あれは弔い人のくせに配慮が足らないのではなく、この魔導師が仕向けたことなのだと。
「少々荒かったな。もう少し彼に寄せて魔導すべきだったか」
「もっと細かく操れるの?」
「やろうと思えばね。だがあまり一方的すぎるのも良くない」
ティッサは旅芸人が広場の真ん中で聴衆に囲まれながら自在に動かして見せる操り人形の踊りを思い出した。扱い慣れぬ者が触っても木偶人形以上にはならないが、玄人は世界一の踊り子を従えている。その踊り子は兎のように駆け白鳥のように羽ばたく。操る者がいることをしばし忘れてしまうほどに。
「それはわたしにもできること?」
「素質はあるはずだよ。死の淵から生還した者は大抵命の形が変わってしまっている。変わった分だけ世界との齟齬が大きくなり、それまで気にもとめなかった魔の力の在り方に自覚的になるんだ。気づいてしまえばいずれ扱い方も覚える」
「ええと、……分からない」
「たとえば、最近見えるはずのないものが見えたりはしないかい」
それなら覚えがある。というより、つい今しがた起きたことだった。
「糸が」
と口にした瞬間、キィスがやけに真剣な表情で食い気味にティッサを見る。ティッサが面食らって言葉をつまらせていると、キィスは表情を和らげて続きを促した。
「糸がどうした?」
「その黒い服と、あなたの上衣の間に糸のようなものが見えた気がして。同じ人が縫ったのかな、って。気のせいかと思ったんだけど」
キィスは黒衣の一端を持ち上げ、嬉しそうに、そしてどこか懐かしそうな目で微笑んだ。
「目が良いな、当たりだ」
「当たり?」
「どちらも私の魔導の師のような人が作ったんだ。師匠と呼ぶとあの人は不機嫌になるが」
衣擦れ、キィスはそのまま黒衣を母の体から引き剥がし、丸めてティッサの胸に押し付けた。
「やはりこれは君に持たせた方が良さそうだ」
「でも」
棺の中を見る。布一枚奪われた母は寒そうに見える。
「初めから火葬の前に取り出す予定でいた。この衣は身につける者が己を損なわぬよう守ってくれるものだ。これで骸が腐敗するのを遅らせていたが、彼女にはもう必要ない。焔が彼女をあたためる」
母の肌は冷たいのに、母に触れていた黒衣はまるで命があるようにあたたかみが感じられた。少し前であればこれはキィスの体温だと勘違いしたはずなのに。滑らかな繊維が右手の上を滑るととても心地がいい。
「ならせめて、干葡萄を一緒に入れてあげたい。母さん、すごく食べたがっていたから。今から買いに――」
買いにいったらだめか、と聞こうとして、相変わらず自分が
歯ぎしりせんばかりに奥歯を噛み締めた、ティッサのその心中を察してくれたか、キィスは次の言葉を求めることなく、棺を離れ、使い終わった槌を笈の中にしまった。
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