「笑って」と「ありがとう」
『ヘレン?』
私は彼女に駆け寄って声をかけました。
彼女は弱弱しく笑いましたが、言葉はない。
ヘレンの顔色は青く、唇は白くなり、その身体はひんやりと冷たかった。
彼女が衣服を纏っていないせいではない。猟奇的な男に玩ばれた出血によるもので、それは避けられない死を知らせる温度でした。
『ヘレン、ヘレン!!こんなのあんまりだろ!?いつになったら俺にその声を聴かせてくれるんだよ……』
『そうだ、ヘレン!俺、お前の家に行ったよ。だからお前の名前が分かったんだ。お前の名前、ヘレンっていうんだ。良かったな!俺がいなきゃお前、名前も分んないままだったんだぜ……』
相変わらず彼女は薄い笑みを向けたまま焦点の合わない目を天にむけていて、まるで、今にも迎えにきた何かが見えているみたいで、それを認めたくなくて私は、必死に、声をかけ続けました。
しかし、しばらくして彼女の目が閉じ切った時、抱きかかえたまま、その寝顔を見つめて言いました。
『……ヘレン?もうわがままは言わないからさ……その、ゆっくり……休んでくれよ。お前の声はさ、聞きたかったけど気が向いた時、聞かせてくれればいいから……多分、そこでなら俺もお前もいつまでも話していられるから……さ……』
私は伝う涙をふき取り、彼女の身体を毛布でくるんでやりました。
・・・・・・
しばらくして姉が呼んだらしい大人が現れ、ヘレンを連れて行きました。
私はその一部始終を見届けてからその地を離れました。
それから数週間、私は未練から路地裏とヘレンの家を往復する日々を送り、その後の事を知りました。姉は最後までヘレンを嫌いましたがそれはヘレンの最期まででした。ヘレンの家には時折怒声が響いていました。
「洗濯しときなさいって言ったでしょ!!……なんで、いないのよ……」
彼女は毎日一人で叫ぶのです。
彼女はこの事件を切っ掛けに精神を病んだ様でした。彼女の書いた日記の一冊終わり、それが捨てられたのを拾った時、彼女の心境の多くを知りました。理解できない事も、許せない事も含めて、その全てを知れるほど、それは事細かにかかれた日記でした。
彼女が立ち直ることがあるのかは分かりません。
ただ、彼女にはヘレンが届けた言葉があります。
「お姉さん……笑おう」
「……なんで、あんな事言うのよ」
「……なんで、あんな事言えるのよ……私は、貴方に……!!」
姉の声はいつもその言葉で終わりました。
今の彼女にとってヘレンの言葉は呪縛と言ってよいものかもしれません。
しかし、私は思うのです。きっといつかその言葉は彼女を救うのだと。
なぜなら、ヘレンは恨みもなく、憎みもなく、ただ純粋に彼女に笑って欲しいという願いで口にした言葉だったのですから、きっといつかそれが届くと信じたいのです。
『俺も……ここにいる意味が無くなったな……』
そこまでを見届けた私は一人路地裏に戻りました。
ここに来るのも最後になるでしょう。ヘレンの事件以来、このあたりの警備は厳重になってしまい、窃盗での生活はまた困難なものになっていました。それでも私がここに残ったのは、ヘレン、その未練でした。
しかし、彼女は私が思うよりずっと近くにいたのです。
路地裏の奥、私はこの地への決別の意味を込めて私の特等席だったポリバケツを思いきり蹴飛ばしました。
「・・・・・・?」
空のはずのポリバケツの中からそんなものが出るとは思いもしていませんでした。だってそれは、ゴミ箱にはあまりに似合わないものでした。
『手紙?・・・・・・まさか』
それは手紙と呼ぶには短く、列も乱れた、何とか読める字で書かれた文字でした。まるで、つい最近言葉を覚え、初めて字を書いた様な・・・・・・
〔ありがとう〕
私はそれを何度か読み直し、くしゃくしゃに丸めてポケットへと押し込み呟きました。
『……お前にまだ教えてなかったな……この箱はな……手紙を入れるような場所なんかじゃないんだよ……』
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