第9話 別離と変化

 これまでは意識して反応しないように務めていた。けれど現在の私は、自分でも驚くぐらいの自然体だった。それが癪に障ったのだろう。ごくわずかではあるものの、北川希は不機嫌になっている。


「私の言葉が聞こえなかったの? さすがは家畜ね」


 上から侮蔑の言葉を浴びせてくる北川希の背後で、取り巻き連中が「貴女も学校に来なくなればいいのに」と、良心がある人間とは思えない発言をする。

 私が顔面を涙でグシャグシャにするのを期待してるのかもしれないけれど、応えるつもりは毛頭なかった。


 目的を手に入れて、一心不乱に走っているうちに、いつの間にか私のメンタルはずいぶん強化されていた。相手女性の発言をさらっと受け流し、我関せずといった態度で自主勉強を続ける。本気でこちらが何とも思ってないと理解した北川希が、いらついたように声を若干荒げた。


「少しは人の話を聞いたらどう!?」


 普段は決して見せない強い態度と口調。クラスで一番の美少女と認知されている女性の手は、私の制服の襟首にかけられている。誰も想定していなかったであろう事態に、クラス中の人間が緊張した面持ちで状況を見つめる。場を包む空気のピリピリ感は凄まじく、北川希の取り巻きたちでさえ息を飲んでいるぐらいだ。

 自分が極度の緊張感を発生させていると気づいたのか、北川希はハッとした様子を見せた。直後に私の制服から手を離し、何事もなかったかのように笑みを作る。


「人には役割があるの。貴女に相応しいのは何か、しっかり考えてみるといいわ」


 自分のイメージ悪化を恐れたのか、北川希はそれだけ言い残して自分の席へ戻った。もちろん取り巻きどもも一緒だ。

 ひたすらびくびくしている頃は、こんな展開になる兆しすらなかった。いじめを回避するためにはどうしたらいいのか。長年思い悩んできたテーマの答えらしきものを見つけたような気がした。


   *


 その後も私は普通に勉強し、放課後は図書館で課題をこなした。完成したら、その日のうちに担当の教員へチェックしてもらいに行く。最初は戸惑い気味だった教員たちも、最近では私が来るのを待っていてくれるようになった。必然的に先生方と会話をする機会が増え、多種多様な知識を獲得できた。


 本来なら親友と遊んでいたはずの時間が、今は勉強するためのものになっている。食べ歩きが趣味だった頃の私では、とても考えられない事態だった。自分自身、よもやこんな日がやってこようとは夢にも思っていなかった。


 このような経緯があって、成績は飛躍的に上昇した。しかも、まだ上へ向かう気配を見せている。結果の出る嬉しさが活力となり、私はダイエットと同様に勉強も頑張り続けた。


   *


 体重は順調に減少している。ただ、それより嬉しいのはテストの点数が劇的に増えたことだった。平均より下の部類だった私が、各教科でことごとく80点オーバーを記録した。懸命に勉強してきたかいがあったと、内心で小躍りする。

 この日の放課後に職員室へ行くと、毎日のように勉強を見てくれている数学担当の中年男性教諭が、とても嬉しそうな顔をして私を待っていた。


「担任の先生に各教科の点数を聞いたけど、凄いじゃないか」


 これまでは私なんかに見向きもしなかった先生方が、褒め言葉と一緒に拍手を送ってくれる。容姿はまだほとんど変わってないにもかかわらず、私を取り巻く環境は少しずつではあるものの、着実に変化を見せていた。


「最近はずいぶん頑張ってるからな。これなら、そこそこ良い大学を狙えるんじゃないか」


 通っている高校は進学校ではないけれど、大学へ行く人間は少なからず存在する。しかし、こと有名大学になると話は変わってくる。受験する生徒はごく稀にいても、合格するケースはほとんどない。ゆえに成績優秀者がいると、教師たちは揃って少しでも上の大学を受験するように勧める。


 有名大学に合格してもらえば、学校にも多少の箔がつく。名前が売れてくれば、高校へ入学したがる中学生も増える。そうして所属する生徒の質を上げていき、ゆくゆくは県内でも有数の進学校へ成長させる。教師たちの態度が、抱えている野望を透けさせる。


「またどこか、わからないところがあるのか?」


 職員室を訪ね始めた頃は、訝しげな視線を向けてくる人間ばかりだった。ところが、最近では我先にと教師たちが群がってくる。自分が教えるんだと目を輝かせている姿を見れば、こちらとしても悪い気はしない。どうせ誰かと遊ぶ予定はないのだ。時間が許す限り、私はじっくりとわからない問題について質問する。


 毎度のことながら、学校を出る頃には、外は薄暗くなっていた。私を襲う人間もいないだろうから、わりと街灯が少ない道でも平然と歩く。家に帰れば部屋へ戻って、着替えもせずに予習、復習をする。午後も8時を過ぎてから、ようやく少し遅めの夕食をとる。


 卵の黄身は食べず、肉も鶏だけ。ヘルシーなメニューで食欲を満たす。最初は物足りなさを覚えたけれど、今では十分満足できるようになっていた。母親もダイエットを手伝ってくれているので、かなりの成果が現時点であがっている。


 できることなら、体重を減らすのに成功しているこの姿を、大の親友だった轟和美に見せたかった。しかしあの日以来、連絡はとっておらず、友人の女性も電話をくれることはなかった。加えて学校もずっと休んでいるので、会話のしようがない。


 そんなある日。

 私は学校でホームルーム中に、担任教師から衝撃の事実を知らされる。


「皆さんの同級生だった轟和美さんが、家庭の事情で学校を辞めました」


 稲妻に打たれたような衝撃が、私の全身を襲った。自分の目的に向かって突っ走ってる間に、信じたくない事態が進行していたのだ。けれどショックを受けているのは私ひとりだけで、他のクラスメートはろくに関心を示していなかった。

 口汚く「薄情者」と罵りそうになるも、すんでのところで理性が感情を制御する。結局、私は自分の椅子に座ったまま、他の生徒同様に担任教師の話を聞いているだけだった。


 一番の薄情者は誰よ――。


 心の中で呟いたあと、私は机の上に視線を落とす。そしてこの日、変わることを決意してから初めて、放課後の居残り勉強をしなかった。


   *


 学校終わりの帰り道。私はいつもと違うルートを歩いていた。自宅ではなく、かつて親友だった女性の家へ向かっている。少しでも話ができればと思ったのだけど、淡い期待は容赦なく破壊された。轟家は私の知ってる場所に存在しているのに、住人の気配がしないのだ。

 たまたま通りかかった近所の中年女性にその点を聞いてみると、またしても知らなかった衝撃の事実が突撃してきた。


「轟さんなら、家族で引っ越しましたけど」


 当たり前のように言われた直後、私は危うく気を失いそうになった。確かに喧嘩のせいで、絶縁したも同然の状態だった。

 しかしその一方で、いつか仲直りできるものだと思っていた。抱いていた期待の淡さとともに、私は轟という表札が外されている家の前で愕然とする。少しでも気を抜けば、この場にへたりこみそうになる。


 あれ……私、泣いてるの?

 頬を伝う熱い感触で、初めて自分の状態に気づく。ボロボロとこぼれ落ちる雫が、太陽に照らされている地面へ小さな染みを作る。


「う、うう……うええ……」


 こらえようと思っても、嗚咽を我慢できなかった。しばらくひとりで泣いたあと、私は目の前にあるかつて親友の住処だった家を見上げる。もう二度と来ることはないであろう建物を目に焼きつけて、決意を新たにする。


 もしかしたら、まだ携帯電話は通じるかもしれない。だけど、こちらから連絡はとらないと決めた。喧嘩別れになってしまったけど、それでも私は今でも和美を一番の親友だと思っている。

 だからこそ相手の幸せを願うと同時に、自分も頑張ろうという思いを強くする。大好きな友人に、嫌な思い出を作らせてしまったのだ。結果を出せなかったら、申し訳なさすぎる。


「和美……私、変わるよ。誰からも笑われない女になる。どんな手を使ってでも、絶対に……!」


 言葉に力が込められると、自然と私の手は握り拳を作っていた。


   *


 心の中にたまっていたショックを道路へ捨てたあと、帰宅した私はいつもどおりに自分の部屋で勉強をする。わいてくる余計な雑念を次から次に放り投げ、一心不乱に机の上にある教科書を攻略する。まだ習ってない部分も多いけれど、参考書を片手に勉強すれば意外になんとかなる。


 それでもわからなければ、例のごとく放課後等の空き時間を利用して担任の教員へ質問しに行けばいいのだ。気づけば私は、クラスメートよりずっと先の勉強をしていた。学校での授業は復習も同然になっている。そのため、より多くの参考書が必要になったけれど、費用は母親が面倒をみてくれた。


 おかげでとんとん拍子に成績は上昇した。本当はバイトなんかもしたかったけれど、高校在学中はとにかく勉学へ集中しようと決めた。

 食事のカロリーコントロールに加えて、自宅での運動。辛い時があっても、諦めるわけにいかないと自分へ鞭を入れて精神を奮い立たせた。歯を食いしばって、事前に考案していたメニューを消化する。


   *


 1ヶ月、2ヶ月と経過していき、私を取り巻く環境はさらなる変化を見せるようになった。


「東雲の勉強の邪魔だけはするんじゃないぞ」


 私が虐めにあってる場面へ遭遇しても、君子危うきに近寄らずとばかりに目を逸らしていた担任教師が、そのような注意をしてくれた。しかも相手はクラスで一番の美少女で、何かと私へ絡んでくるようになっていた北川希だった。


「え……そんなこと、しませんよ」


 慌てて笑顔を作って、注意してきた教師へ媚を売るような態度をとる。取り巻きをつれて歩くような女が、男性とはいえ教員を恐れるはずもない。

 怖がっているのは担任そのものではなく、内申書だ。下手に書かれたりすれば、後々まで影響する可能性が出てくる。


 これまでは比べるまでもなく、私より北川希の印象の方が良かった。ところが、ここへきて立場が逆転しつつあった。

 私の成績がグングン伸び、今では学年でトップをとるかどうかの位置まできている。有名大学への合格の目があると判断されたらしく、各教員の態度は驚くぐらいに変わっていた。あからさまなえこひいきがなくなっただけではなく、むしろこちらの肩を持ってくれるようになった。


 苦しかった学校生活に、平穏が戻りつつある。やがてかかわるよりも、無視をしようと北川希が決めたみたいだった。もとよりそれを望んでいただけに、ありがたいことこの上なかった。


 こうして、ますます私にとって頑張れる環境が整った。

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