第8話 努力

 轟家から帰宅した私は、自室にて決意を新たにする。

 私こと東雲杏里は、これまでの自分と決別する。とはいうものの、まだ高校生の身ではやれることなど高が知れている。

 だからといって何もしないのであれば、せっかくの決意が無駄になる。何のために大事な親友と喧嘩してまで、変わるという道を選んだのか。


 私はもう後に退けないんだ。何度もその言葉を心の中で繰り返しては、自分自身に気合を入れる。

 そんな私が部屋を出て、向かったのはリビングだった。和美の家へ行ったりしてる間に、早くもお昼になっていたのだ。


 どうしてキッチンと繋がっているリビングへ来たのかといえば、もちろんお昼ご飯を食べるためだ。

 空腹には勝てないので、食欲を満たす必要があった。けれどいつもの量を食べたりはしない。変化のための第一段階として、私はダイエットをするつもりだった。


 普通なら断食をしようと考えてもおかしくはない。最初は私もそう考えた。しかしよくよくダイエットの日々をシミュレートしてみると、とてもじゃないけれど食欲を我慢できそうにない事実に気づかされた。

 どうしようと慌てたところで、過食で拡張しきった胃袋が急激に縮小してくれるはずがなかった。そこで私は、根本から考え方を変える。


 食欲を我慢するのではなく、コントロールを試みる。満腹まで食べずに食事を終了する。あとは日々の運動で、無理なく少しずつ減量すべきだと判断した。

 その方が健康にもいいだろうし、なにより私の贅肉は一朝一夕で身についたものではない。となれば、楽に脂肪を落とそうというのは虫が良すぎる話だった。

 昼食を用意してくれた母親へ「ダイエットする」と宣言した上で、私は食事を開始する。


「……しばらく、学校を休んだら?」


 比較的穏やかな声で、母親が問いかけてきた。昨日の早退に引き続き、今日も出かけたかと思ったら、すぐに帰ってきている。学校で何かあったと考えるのは当たり前だった。

 小さい頃から、容姿関連ではずいぶんと周囲の人間にからかわれてきた。当然、母親もそうした問題は知っており、表情にこそ出さないが、心を痛めているのは明らかだった。


 以前に私が心ない言葉を発したのをきっかけに、母親は相談されるまでは優しく見守るというスタンスになった。心配をかけている現状が申し訳ないだけに、素直に好意へ甘えるのが躊躇われる。加えてこの程度で心ないクラスメートに臆していたら、とても自分が望む人間になれないという思考もあった。


「大丈夫よ。明日からは、きちんと登校するし」


 結果として私は、笑顔を作りながら母親の提案を断った。


「そう……。わかった」


 小さく頷いた母親が、そう言った。そのあとで「辛くなったら、すぐに相談してね」という言葉を付け足してくれたのだった。


   *


 私の孤独で、長くなるであろう戦いの日々が幕を開けた。

 ダイエッターとなった翌朝。いつもの場所に和美の姿はなかった。当たり前かと思う一方で、どことなく寂しさに似た感情も覚える。

 こんなにも私は和美に友人としての好意を抱いていたんだと、改め実感させられた。けれど悲しんだところで、現状は何も変わらない。


 変化を求めた私に対して、和美は逃げるという選択をした。どちらが正解とかではなく、単純に選んだ道が違うだけだ。進むか、後ろへ下がるか。悩んだ末に、お互いの出した結論は異なっていた。


 もう、この待ち合わせ場所を利用する事もないのだろう。悲しいけれど仕方がない。私は昨日、和美の部屋でしたように背を向けた。そのままゆっくりと足を動かし、在籍している高等学校を目指す。やがて見えてくる校門。通学路に増えてくる学生の数。見知った顔はなかったけれど、それも今だけだ。

 所属する教室へ近づくたびに、私を知っている人間と出会う確率は加速度的に上昇する。予想は早くも現実となり、教室へ辿り着く前にザワめきが発生していた。


「驚いたわ。まだ学校に来られたのね」


 反応をするから、面白がられる。私は無視をして教室へ入る。虐められるのは十分にわかっていた。決して楽しい展開ではないものの、最初からそれなりの覚悟をしていれば、ある程度までは耐えられる。忍耐の限界を超えたら、全力で逃げればいい。登校拒否だろうと、退学だろうとすればいいのだ。


 先日の会話で、母親もこちらの事情を大体わかっている。本気でお願いすれば、高校を辞めさせてくれるだろう。予め逃げ道が用意されてるだけで、こんなにも心の余裕が違ってくる。

 自分の席へ座るなり、様々な罵詈雑言を同級生から浴びせられる。

 なんとでも好きに言えばいいわ。心の中で呟いて、私はささやかな反撃を終えた。ムキになったところで、取り巻く環境が劇的に変化するわけでもない。流れに身を任せてみるのも、対処法のひとつとなる。


 ダイエットの他に、私に何がやれるか。考えてすぐ、勉強という答えに辿り着く。痩せると同時に、平均より下の成績を上昇させる。親友と大喧嘩してまで変わろうと決意したのだから、中途半端だけはするわけにいかなかった。


 授業中は必死になってノートをとり、休み時間になれば職員室へ行って、わからない部分を質問する。昼休みはひとり図書館でお弁当を食べて、これから学ぶであろう各教科の予習や復習を行う。他人にしてみれば勉強漬けのつまらない学校生活かもしれないが、他にやりたいこともないので、別に苦ではなかった。


 そうやって日々を過ごし、私は少しずつ自分の計画を進行させていった。


   *


 高校3年生になって訪れた転機。

 平坦な道のりではないけれど、いつしかやりがいみたいなのを感じるようになっていた。その一方で大の親友だった女性――轟和美は学校へこなくなった。いわゆる登校拒否だった。


 実質的にクラスの仲間がひとり減ったというのに、誰も悲しんだりしない。何事もなかったかのように、学校生活を送っている。教師もさして気に留めず、いつしか見慣れた光景になっていた。


 悲しみを携えながらも、私は家での運動を軽めのメニューから始め、徐々に質も量も増やしていた。ジョギングできる体力はないので、ウォーキングを行う。ジャージを着用した上で首にタオルを巻き「はあはあ、ふうふう」言いながら、足を動かし続ける。


 ひと目でわかるほどに顔は汗まみれ。側を通り過ぎる人々には、私の姿はさぞかし醜く映ってることだろう。実際にウォーキングの最中、周囲から小さな笑い声が聞こえてくる。いくら懸命に押し殺していても、悪口ほどよく聞き取れるものだったりする。


 不愉快にはなるけど、いちいち気にしてはいられない。このような状況から脱したくて、私は変身を決意した。心の中で「変わるんだ」と何度も叫びながら、全力で自分が考えたダイエットメニューを消化する。

 もちろん1日や2日で、結果が出るほど生易しくはない。たった数日で、目に見えて変化がわかるのなら、ダイエゥトに成功する女性はもっと増えているはずだ。


 一生懸命頑張っても、上手くいってるかどうかわからないからこそ、途中で挫折してしまう人間が増える。かくいう私も、何度となくそれが原因でダイエットを失敗してきた。けれど今回は覚悟が違う。

 何が何でも成功させて、新たな自分への第一歩を踏み出してみせる。そうして繰り返す日々の中で、私の体重は着実に減少した。


   *


 外見でもわかるようになってきたある日、いつものように休憩時間を利用して勉強中の私に声がかけられた。いつかと同じく、教室にてクラスで一番の美少女が話しかけてきたのである。相変わらず、憎らしいほどの美人ぶりで、浮かべている笑顔が輝いて見える。


「……何か用ですか」


 毎度の文句ならともかく、直接の会話を申し込まれている以上、応じないわけにはいかなかった。


「東雲さん、もしかしてダイエットでもしているの?」


 私は何も答えない。下手に何かを言ったら、揚げ足を取られてからかわれるだけだ。北川希より成績は下でも、それぐらいは十分に予想できる。無言の私に代わって口を開いたのは、目の前にいる美少女だった。


「とぼけてもわかるわよ。努力をしているのね」


 台詞だけを聞けば褒められてるように思えるけれど、相手女性の目はまったく笑ってなかった。何が気に入らないのか、私を甚振るつもり満々なオーラを全身から放出させている。


 素直に「ダイエットをしています」と教えたところで、からかわれるのがオチだ。一番良い対処法はこの場から立ち去ることだが、残念ながら本日のカリキュラムがまだ終了していない。帰れば早退になってしまう。自分の知能を高めようとしている最中の私には、歓迎すべき事態ではなかった。


 結果的に無視を続ける形になっていても、相手女性はあまり気にしていない。あくまでも、自分の喋りたい内容だけを言葉にして吐き出してくる。


「謙遜しなくてもいいわよ。見ればすぐにわかるわ」


 普通ならこの種類の台詞を言われれば、ダイエットの成果が実感できて嬉しくなるのだけど、相手が北川希だけに素直に喜ぶのは不可能だった。


「徐々にでも、痩せてきてるじゃない」


 にこにこ笑顔の美少女の背後には、取り巻きたちが控えている。和美が学校へこなくなっているので、からかえる人間は私ぐらいしかいない。

 しかし常に勉強し、時間があれば教室へ質問しに行くという生活を繰り返していた。要するに、私を玩具にして遊ぶ暇を与えなかったのである。

 これまでは好影響をもたらしてくれていたが、ダイエットによる変化を察して、ここぞとばかりに北川希は声をかけてきた。


「もしかして、例のことを気にしているのかしら」


 わざと案件をぼかしておき、こちらに辛い出来事を思い出させようとする。言葉どおりの性格の悪さを発揮してるにもかかわらず、クラスでの人気は相変わらず高い。私からすればとても信じられないのだけれど、これも顔やスタイルの良さのなせる現象と半ば無理やり納得していた。

 私が何も言わないでいると、向こうが勝手に口を開く。どうやら会話を途中で切り上げるつもりはないみたいだった。


「痩せたら綺麗になれる。女性は全員、そう考えてダイエットに励むものね」


 一瞬「何が言いたいの!?」と怒鳴りかけたものの、慌てて飛び出しかけた言葉を喉元まで飲み込む。孤立無援の現状では、事を荒立てるだけ損をする。


「きっと東雲さんもそうなんでしょうけど、人間には可能なことと不可能なことがあるの」


 ここで北川希の取り巻き連中がクスクス笑う。何を考えているのか大体わかるだけに、平静を保とうとしても苛立ちがこみあげてくる。


「何が言いたいのかわかるでしょう? 家畜は痩せても家畜なの。ダイエットして綺麗になるどころか、余計に醜くなるだけだと思うわよ」


 一片の曇りもない笑顔を浮かべているわりには、台詞内容は相当にどぎつかった。

 しかし以前ならともかく、今の私はこの程度の悪口でへこたれるほど、やわではなくなっていた。表情を少しも崩さず、ひたすら教科書とにらめっこをする。

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