第7話 決意

 私ひとりではとても学校へ行く気にはなれず、普段とは違う道を歩いていた。真っ直ぐ進んでいけば、親友の轟和美の家へ到着する。

 偶然ではなく、はっきりとした目的を持って向かっていた。どうせ学校はサボろうと決めたのだから、今さら時間を気にする必要はない。


 歩き続けること数分。私は親友の家の前までやってきた。表札には和美の名字である轟という字が書かれている。お父さんは結構大きな会社で何かの役職を務めているらしく、それなりの給料を貰っているみたいだった。

 かくいう私のお父さんもサラリーマンとはいえ、お母さんが主婦をしていられるのだから、貧乏という部類には入らない。もちろん、和美のお母さんも専業主婦だ。


 インターホンを押すと、すぐに「どちら様ですか」という落ち着いた女性の声が聞こえてくる。何度も遊びに来てるだけに、すぐ和美のお母さんだとわかった。

 私はいつもの調子で自分の名前を告げた。本来なら学校へ行ってる時間なだけに、怪しまれるのを覚悟していた。

 けれど、ドアを開けてくれた和美のお母さんは、怪訝そうな表情など一切見せずに迎え入れてくれる。


「いらっしゃい。よく来てくれたわね。あの子なら2階にいるから」


 轟家は2階建てで、和美の部屋は2階にある。親友のお母さんに見送られつつ、私はゆっくりと階段を上る。部屋の前でドアをノックする。室内からは何の反応もなく、鍵もかかっているみたいだ。そこで私は「和美ちゃん。私よ、杏里」とドア越しに親友へ話しかけた。


「待ち合わせ場所に来なかったから、心配になって……」


 そこまで言ったところで、目の前にあるドアが開いた。中から現れたのは、目を真っ赤に腫らしている和美だった。無言のまま数秒間見詰め合ったあと、私は部屋の中へ招き入れられる。カーテンは締め切られており、電灯も点いていない。よく晴れている朝にもかかわらず、室内は相当に薄暗くなっていた。


 パジャマ姿の和美はベッドに腰かけたあとで、私にも隣へ座るように勧めてきた。今回が初めてではなく、よくこうして一緒に座りながら、とりとめのない話をした。その頃の記憶が蘇るものの、当時みたいな楽しい気分にはとてもなれそうになかった。


「……どうして、制服なんて着てるの」


 わりと長めの沈黙のあと、ようやく和美が発した台詞だった。

 どうしてと聞かれても困ってしまう。制服を着る理由なんて、基本的にひとつしかないからだ。


「ねえ、どうしてよ! あんな目にあっても学校に行くつもりだったの!?」


 唐突に激昂した和美が、至近距離からさらに詰め寄ってきた。胸倉を掴まれ、私の身体が前後に揺らされる。とりあえず相手に落ち着いてもらおうと、抗わずにされるがままになる。やがて少しは冷静になったのか、肩を上下させながらも、和美は私の制服の襟から手を離してくれた。


「杏里ちゃん……私、もう耐えられないよ」


 悲痛な叫びが室内へ木霊した。

 溜まった鬱憤をぶつけてくる相手女性に対して、私は今回も渡してあげるべき言葉を所持していなかった。

 思いはこちらも同じだった。あれだけの目にあわされてなんとも思わないのなら、感情を司る回路がどこか故障してるに違いない。


「私たちは何なのかな……わかんないよ」


 怒ったと思ったら悲しむ。明らかに情緒不安定になっている。

 その気持ちも理解できる。実際に機能は、私も同様の状態だった。今日も和美から欠席の連絡があれば、部屋から一歩も外へ出ようとしなかっただろう。


「恋することも許されない家畜なのかな」


 気落ちしている親友に、私は「違うよ」と声をかける。


「あの人たちが何を言っても、私たちは人間だよ」


 どんなに酷い目にあわされたとしても、それだけは絶対に譲れない一線だった。和美も同じ思いを共有してくれていると信じていたのに、帰ってきたのは希望とまったく違う言葉だったのである。


「私たちがどう思ったって、関係ないよ!」


 怒鳴りつけるような相手の態度に、私は反射的にビクッとした。


「相手が家畜って言ったら、家畜になるしかないんだよ! どんなに理不尽でも、私たちみたいな人間はそうするしかないんだよ!」


 昨日の一件があって、すっかり和美の精神は打ちのめされていた。本音を言えば私も同様で、誰かと会って話をするような元気もなかった。けれどこうして親友に反論されると、怒りにも似た感情が芽生えてくる。


「私は、そうは思わない。人間は平等……ではないかもしれないけど、最低限の権利というのはあるはずよ」


 心を込めて話しても、相手の心は変えられなかった。ますます和美は、怒りで頬を紅潮させる。


「どうしてそんなことが言えるの!? 杏里ちゃん、あの牧田友行って人に、なんて言われたか覚えてないの!?」


「覚えてるわよ!」


 売り言葉に買い言葉と表現するべきか。相手へ合わせるかのごとく、自然に私も声を荒げていた。


 牧田友行――。

 私がひと目惚れをした男性であり、先日の惨劇を構成するひとかけらになった人物でもある。忘れたくても、簡単には忘れられない。それぐらいに、ショッキングな出来事だった。

 だからといって、いつまでも落ち込んでいていい理由にはならない。


 ……なんて強気になっているものの、ほんの少し前までは、私も他人のことをどうこう言えない有様だった。外へ出ずにひとりで自室にいたら、きっと今でもベッドで横になりながらうじうじしていたはずだ。


「覚えてるから、私は変わりたい」


 それは、偽らざる私の本当の気持ちだった。どんなに人間は平等なんだと叫んでみたところで、所詮は角砂糖のように甘い理想論でしかない。誰が何と言っても、この世界には確かな格差が存在する。

 私のこれまでの人生は、文字どおり屈服の歴史だった。時には産んでくれた母を恨むという親不孝な感情も抱いた。負け犬と呼ばれても否定はできない。私がどう足掻いても、社会の仕組みは変えられないのだ。


 今までは、そこで思考が終わっていた。だが心がズタボロになった現在、やけくそというか、失うものは何もないという状態になっている。おかげで、普段では考えられないほどの度胸を発揮できた。

 社会の仕組みを変えられないのであれば、社会にあわせて私が変わればいい。ずっと諦めていたけれど、徹底的に追い込まれた状況に陥って初めて覚悟が決まった。


「和美も、私と一緒に変わろう」


 このままじゃ終わりたくない。そんな思いが、私を動かす。燃え上がる衝動をあえて抑えず、直情的に言葉を発する。いまだかつて見たことのない私の姿勢に、さすがの和美もやや躊躇っている。


「そんなの……無理だよ……」


 自信なさげな声だけが室内へ響いた。最初から諦めているような様子は、自分の姿とダブって見える。

 これでは駄目だ。己の境遇を憂いているだけでは、何も変わらない。

 というより、変えようがなかった。


 これが今までの私なのね。

 目の前にいるのは親友の和美なはずなのに、まるで鏡を見てるかのごとく、視界には私自身の姿が映っている。


「杏里ちゃんだって、本当はわかってるんでしょ」


 相手女性から話しかけられて、ようやく私は我に返る。確かに心のどこかでは、努力をしても無駄ではないのかと考えている自分もいる。けれど現在の私は、明らかにこれまでと違っていた。親友を見ているほどに、本気で変わる必要があると痛感させられる。


 私だって、最初からすべてを諦めていたわけではない。容姿をからかわれ始めた頃は、とにかく悔しくてたまらなかった。それこそ、何度シーツを涙で濡らしたかわからない。当時の気持ちが蘇ってきては、ここが重要な分岐点なのだと私の背中を押す。

 クラスメートからも同列扱いされるくらい似ている和美なだけに、きちんと説明すればわかってくれる。長年かけて築いてきた友情を信じて、私は親友の女性の説得を開始する。


「そうね。でも、愚痴を言っていても、何ひとつ現状は変わらないわ」


 奥に秘めた強い意志を示すかのごとく、座っていたベッドから勢いよく立ち上がる。そんな私を、隣にいる和美が口をポカンと開いて見上げてくる。


「ど、どうしちゃったの、杏里ちゃん」


 自分でも驚くぐらい、私の性格というか態度は急激に変化している。当人ではない和美の驚愕度は、こちらの想像以上なはずだった。


「どうもしないわ。ただ気づいただけなの。私は――いいえ、私たちは変わる必要があるって」


 同じ苦しみを味わってきた人間として、一緒に暖かな陽の当たる世界へ行きたかった。暗く澱んだ悲愴感の底から、なんとしても浮上したいと考えた。すぐに親友の和美も同意してくれて、情熱をもって共に戦う。そんな展開を想像していた。

 しかし現実は、思いどおりにいくほど甘くなかった。小さく左右へ首を振りながら、和美はか細い声で再び「無理だよ」と呟くだけだった。


 どのような言葉を使って説得を試みても、和美はなかなか頷いてくれなかった。弱気に支配されている相手女性の心は、浮上の兆しすら見せない。

 それどころか、こちらが乗り気になるほど、同じぐらいの勢いで引かれる。どれだけ私が悲しがっても、親友の態度は一向に変わらない。一緒に変わろうという誘いを、決して受け入れようとはしてくれなかった。


「どんなに頑張っても、結局は同じだよ」


「決めつけたら駄目よ。何事も、やってみないとわからないわ」


 幾度となく繰り返されるやりとり。延々と続くかのような雰囲気もあったけれど、他ならぬ和美自身が終止符を打った。


「そんなこと言われても、私は変われないよ!」


 泣きながら叫んだ親友の瞳には、拒絶の光が宿っていた。


「食べるのが大好きで、太っているだけのどこが悪いの!? 変わらないといけないものがあるのだとしたら、その偏見の方じゃない!!」


 和美の言いたいこともよくわかる。浴びせられた台詞自体、私が何度も思ってきたのとまったく同じ考えだったからだ。いつか世の中に受け入れてもらえる。かすかな希望を抱きながら、教室の片隅でひっそりとした生活を送ってきた。

 けれど運命の日に発生したひと目惚れにより、私は自分自身の大きな間違いに気づかされた。


 待つだけでは何も変わらず、延々と同じ日々を繰り返すしかないのだ。ゆえに前へ進もうと決心した。

 しかし和美は賛同してくれるどころか、真逆へ伸びている道を選択しようとしている。こちらが何を言っても聞き入れてくれず、長年の友達付き合いで見せたことのない目つきで私を睨んでくる。


 剥きだしにされた敵意は、私を悲しみのどん底へ突き落とした。だけどその一方で、退路を塞いでくれたようにも思える。


「わかった。それなら、私ひとりでやる」


 あそこまでコケにしてくれた連中を見返してやりたい。例えどんな手段を使ったとしても、私は必ずやり遂げてみせる。

 心の中で決意すると同時に、私は誰より仲の良かった友人へ背を向けた。退室する際に私は何も言わなかったし、和美もまた言葉を発したりはしなかった。決別の瞬間だとわかっているからこそ、私の両目からは大粒の涙が溢れた。


「杏里ちゃん……」


 階段を下りた先で、和美のお母さんと出くわした。かなり大きな声で言い合っていたため、もしかしたら何があったのか知っているのかもしれない。余計な言い訳は一切せず、私はただ頭を下げて、轟家をあとにした。

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