応援コメント

第1話 あなたの選択が全ての責任とは思わない」への応援コメント

  • 偶々見かけたので、自分なりの見解をば。

    メディアで騒がれる場合のそれは、要因がどうかと云うより、その行為によって予想される結果が有り、尚且つその結果が当事者個人では対処しきれない事が目に見えるレベルにある。その対処に多大なヒト・モノ・その他が動員される可能性があり、それらを天秤にかけた結果どうにもならない場合もある。それを当事者並びに関係者が助けてと言うのは虫がよすぎるのではないか?
    ならば何故、その行為に対して止めなかったのか、止めたとしても助けて貰えると高を括って結局実行させてしまったのか?
    当事者やその関係者がその行為を肯定的に捉えていても、反対する者がいればその者にとってその行為は不必要以外の何物でもなく、反対意見を聞いても尚、そこまでしてやりたいなら、『自分のけつは自分で拭け』となるのは当然なのではないかと。

    具体的に言ってしまうと、政情不安な国に渡航禁止すらされている地域にいち民間人が向かって結果、拘束された挙げ句身代金を要求された事がありました。
    その国その場所に向かわない様に何度も警告されていたにも関わらず海を渡った挙げ句拘束され身代金要求です。
    国としては、どんな形でその場所に行ったのかは置いておき邦人だという理由で救助を検討せねばなりません。どのような形になろうともヒト(自衛隊であったりする。救助に向かうとなると当然殉職の可能性もある)・カネ(国費=我々の税金も当然含まれる)・時間(国会審議時間。無くても良い検討時間が他の政策審議時間を圧迫します)が消費されます。
    行くな行くなと散々言われても、それを振り切って向かっているのですから、自らの責任の名の元に行為を行ったと言って良いのではないでしょうか?