第38話 「 time to say good bye 」




 そして一週間後の休日。


 俺は家から少し離れたとある公園に向かって歩いていた。


 なぜ俺がこんな場所を歩いているかというと、LINEで呼び出されたからだ。


 休日とあって、普段は閑散としているだろう住宅街も、子供の声や車の走行音などで活気があった。


 しばらく歩くと見覚えのある長い階段が現れ、俺はゆっくりとそこを登っていく。


 やがて登り切ると、そこには初夏のあの日初めて出会った彼女が立っていた。


 水瀬明日香だ。


 今日は薄手のワンピースに麦わら帽子といった出で立ちで、お嬢様然とした雰囲気だ。いつもの服装と趣が異なるな。


 明日香は俺を見つけると控えめに、だけど嬉しさは隠さずに、ニコッと微笑んだ。


 う……今日はツインテールじゃなくて髪も下ろしているし、なんだか深窓のご令嬢みたいな感じで、なんというか不覚にもドキッとしてしまった。いや、こいつは確かにいいとこのお嬢様らしいが、普段はこんな楚々としたムードは醸し出さない。絶対に!


 ていうか、本当にこいつ、どうしたんだ今日は……。


 怪訝な俺はとにかく、彼女に声を掛ける事にした。


「よ、よう。どうしたんだよ、こんなところに呼び出して。つーかこの一週間、LINE送っても返事よこさないし……まぁ無事なようで安心したよ」


「…………」


 返事がない。無言で微笑み続けるだけだ。


「……? あ、そういえば、フェスでのステージ凄かったみたいだな。俺の後輩のリンゴってやつなんかは、興奮しっぱなしでさ……残念だったよ。俺も聴きたかったな。でもまたいつか聞かせてくれよ、明日香の本気の歌声……ん?」


 俺の言葉は、明日香の今日初のリアクションで中断させられた。


 首を横に振って……なんだ?


「どうしたんだ? 何か違うって言いたいのか?」


「…………」


 しかし、なおも明日香は無言で微笑んでいるだけ。いや、表情に少し陰りが見える。寂しそう……いや、悲しそうな、微笑?


「おい、どうしたんだよ。なんで喋らないんだよ? いったい……」


 夏の始まりを告げるような爽やかな涼風が、明日香の長い髪をふわりと持ち上げる。


「なぁって―――」


 焦れて声の調子が上がりそうになった俺の口は、明日香がバッグから取り出したスマホを見て止まった。


 そして藪から棒にスマホを操作いじりだす。


 ピロン。


 鳴ったのは俺のスマホ。


 画面を見ると、明日香からLINEのメッセージが届いていた。


 目の前にいるのに……LINE?


 不可解な状況。その不審さに俺は正体不明の嫌な予感に襲われる。急速に。


『驚かないで聞いてね、ゲンキ』


 スマホのディスプレイにはこう書いてあった。


「驚く……何にだ?」


 明日香は一つ深呼吸をする。まるで決意を固めるかのように。


 カチカチ。スマホのフリック音が聞こえ、そして―――。


 ピロン。


『実はね、私、歌えなくなった。声が出なくなったの』


 …………………………………………。


 ……………………は?


「どういうことだ? ちゃんと説明してくれ」


 俺は上ずりそうになる声を必死で抑えつけながら、説明を求めた。


 ピロン。


『フェスの後、私、病院に運ばれた。それで気がついたら喋れなくなってたの。全然声が出なくて、ビックリした。お医者さんは原因がわからないって。でも私にはなんとなくわかるよ。だって自分のことだから。あの時、私は死ぬはずだった。それを無理して頑張ったから私の声は無くなったんだって』


 明日香は何を言っているんだ?


 あまりにも辛い現実を突きつけられたからだろうか、頭の処理が追いつかない。


 押し黙ったままの俺の耳は、カチカチというフリック音だけを捉えていた。


 長く続くフリック音。長文を打っているようだ。


 ピロン。


『でも私は後悔してないわ。だって私は今、こうやって生きているから。そのおかげで杏とまた会えたから。杏が私を許してくれて、私も杏を許すことができて、また2人で仲良くなれたから。ママには会えなかったけど、もうそれはいいの。私はひとりぼっちだって思ってママを求めていたけど、私はひとりぼっちじゃないってわかったから。私はみんなを愛しているし、みんな私を愛してくれている。愛はそこにあるものだって気付いたら、それに気付いたの。私のお兄ちゃんもね、私に厳しくて、それが嫌われてるからだって私は勘違いしてた。でも違くて、お兄ちゃんは私が心配だったから色々と口うるさくしてただけなのよね。私の声が出ないってわかった時も、凄くオロオロしてて、ちょっと可愛いなって思っちゃったし』


 また長い打鍵音。しかし俺は黙って待つ。


 ピロン。


『それもこれも全部、ゲンキのお陰!ゲンキに会えたから、ゲンキに大切なことを教わったから。あの時私、聴こえたよ。ステージの上で倒れそうになった時』


 ピロン。


『明日香、生きろって』


 ピロン。


『誰のために生きるんだって』


 ピロン。


『ゲンキがいてくれたから、今の私がいるんだよ。だから今日はありがとうって伝えたくて、来てもらったの。喋れないけど、ゲンキに会って伝えたかったから』


 ピロン。


『声は出なくなったけど、私は寂しくないよ。ゲンキに音楽を教えてもらったから。ギターは弾けるよ。声が出なくても。だから』


 ピロン。


『ゲンキ。大切なことを教えてくれてありがとう。音楽を教えてくれてありがとう。そして、私と出会ってくれてありがとう』


 この時には既に、俺の視界は涙で滲み、画面を見るのにも苦労した。


 だが明日香の言葉―――その1文字1文字を噛みしめるように眼で追った。


 俺は次々と頬を伝い流れ落ちる涙を止められなかった。


 最初にあった時、明日香はすごくツンツンした女の子だった。


 かたくなでひた向きで強い意思を持つけれど、どこか危うい脆さもあった。


 なのに今の彼女からは、柔らかく、だからこそ決して折れないつよさを感じるのだ。


 こんなに彼女を変えたのは―――俺だ。


 俺の言葉が、俺の音楽が、彼女を変えたのだ。


 しかもそれは、良い変化なのだと思う。

 

 悲しい運命を受け入れるつよさを彼女にもたらす事が出来た。その事に俺は多分、嬉しさを感じている。


 ならば、いま流しているこの涙は、嬉し泣きの涙なのだ。


 みっともなく落涙し続ける俺を、明日香は慈愛に満ちた微笑みで見つめている。


 ややあって、再び着信音。


 ピロン。


『それでね、今日はもう一つだけ言わなきゃいけない事があるの』


「言わなきゃいけない事?……なんだ?」


 ピロン。


『お別れ』


「え?」


 ピロン。


『実はね。アメリカに引っ越すことになったの。向こうは日本じゃ認可されてない最先端の医療があるからって。お兄ちゃんが、私の声を絶対に取り戻すって張り切っちゃって』


「マジか……いつからなんだ?」


 ピロン。


『今日』


 今日⁉︎ いくらなんでも急すぎるだろう!


 せっかく知り合えて仲良くなれたと思ったのに、もうお別れなんて……あんまりじゃないか。


「い……いつ戻ってくるんだ?」


 ピロン。


『わからない。たぶん短くても3年くらい。どうせなら向こうで大学も出ようかなって』


 ピロン。


『そんな悲しそうな顔しないで。ずっとお別れじゃないよ。今はSNSとかあるし、離れていても繋がれるじゃない』


 そして、ひときわ明るい笑顔を見せた明日香。


 その笑顔を見たとき、俺は覚った。


 俺は彼女を止める事が出来ない。止めてはいけない。


 彼女は今回の渡米を、自らの人生の次のステップに進むための重要なイベントだと位置付けているのだろう。


 良い方向に進もうとする者を、どうして止められるだろうか。


 お互い暫く無言のまま、乾いた風に揺れる梢の、ざぁっという音を聴いていた。


 混乱していた頭もようやく落ち着いた所で、俺はこれだけは訊いておこうと思って言う。


「なぁ明日香。自分の声を取り戻したいか?」


 俺の質問に明日香は目をパチクリさせ、やがて、ふっと微笑って打鍵した。


 ピロン。


『不便は不便だけど、今はいらない。だって声がない方が伝えられる時もあると思うし。いつか本当に必要になった時でいいかな、そう思うのは』


「本当に、そう思ってるのか?」


 俺の質問に対し、明日香は迷いの無い瞳で頷いた。


 もう何度目かもわからない、着信音。


『ゲンキが私に言ってくれた言葉は嬉しかったし、すごく力になった。でも、それ以上に私に力を与えてくれたのは、私にギターを教えてくれたり、私を助けてくれた事。何の見返りもなく、そうやって私にしてくれた事自体が凄く嬉しくて、不夜城弦輝っていう人の事が理解できた気がする』


 世の中には先天的、後天的に声を失った人達がいる。彼らには彼らなりの価値観と人生観があるから、俺は彼らに対して忖度することは出来ない。


 だが明日香は明日香なりの答えを出した。


 彼女の答えは普通ではないかもしれないけれど、俺には彼女の言いたい事が少しだけ理解できた。


 言葉は人に伝えるためのツールの一つ。でも、大切なことを伝えられるのは、言葉だけでは無い。


 言葉以上に伝えられる事はある。


 それは困っている人に手を差し伸べる事だったり、微笑みかける事だったり。


 そういった行動でも……いや、そうした行動こそが、大切な何かを伝えられることなんだと。


 彼女はそう言いたいのだ。


「そうか……わかったよ」


 俺は明日香へ手を差し出した。


「俺の方こそありがとう。俺も明日香に会えて大切なことを学んだよ。―――また会おう。そしていつかまた、一緒に音を出したいな」


 明日香は一瞬、泣きそうに顔を歪めかけたが、努めて笑顔を作り出して俺の手を握った。



__________________



 出立の用意があるという明日香を見送った後、俺は公園のグラウンドに1人立ち尽くし、空を見上げていた。


 一抹の寂寥感を味わいながら俺はあることを考え、それを実行に移すためにスマホを操作した。





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