第21話 「 dreamed when I was a kid 」





―――ママ、どこ行くの?


 水瀬明日香は母の姿を見ていた。


 今はもういないはずの母の姿だ。


 明日香は母の手に引かれながら、母を見上げていた。


(ママって、こんなに大きかったっけ?)


(あ、そか。私が小さいんだ)


 いつの間にか、明日香の体は小学生のそれになっていた。


 そのことをさして不思議と思わず、母親の手をぎゅっと握る。


 明日香は物心ついた時から、母親と2人暮らしだった。父はいなかった。私にはどうして『お父さん』がいないんだろう、と思っていた。しかしいない事が明日香の当たり前だったから、別に欲しいとも思わなかった。


 寂しいとも思わなかった。母は父親の欠落を埋めるように明日香のことを愛してくれたからだ。


 ずっと母親と2人の暮らしが続くのだ。


 漠然とそれを疑わずに生きていた。


 その生活が変わる兆しが現れたのは、明日香が倒れてからだ。


 小学校の体育の授業中、急に眩暈がして目の前が真っ暗になった。気が付いた時には病院のベットの上だった。


 しばらくして退院した後、明日香は母に連れられて、遠い街にお出かけした。


(ああそうか。今、なんだ)


 たどり着いたのは大きな洋館だった。


 見たこともないほど大きなやしきに、幼い明日香は目をまん丸にした。


 母親は誰かに会いにきたようだ、ということくらいは明日香にも理解できた。


 初めのうちは母と一緒の部屋で待たされた。


 やがて『いい子で待っていてね』と言い残し、母だけが呼ばれて部屋を出て行った。


 自分1人で取り残されるのは寂しくて泣きそうだったが、母の言いつけ通り良い子でじっと待っていた。


 すると、しばらくして窓の方から音がした。


 小鳥だ。


 色鮮やかで可愛らしいその姿に、明日香の目は輝いた。しかもこんなに至近距離で見たのは初めてだったのだ。いやが上にも子供の好奇心が刺激される。母の言いつけもどこかへ行ってしまった。


 椅子を脚立代わりにして近づく。


 (あ、逃げちゃった。)


 人の気配を感じた小鳥は素早く飛び去った。


 がっかりした明日香の目に飛び込んできたのは、沢山の綺麗な色だった。


 石造りの通路の両脇で百花繚乱に咲き誇る花々と、清らかな水を湧かせる噴水。大きな屋敷に相応しい、立派な庭園だった。


 おとぎ話のような光景に、目の輝きはいや増す。


 レースのカーテンが揺れる観音開きの窓は、小さい明日香なら優に通れる。


 窓枠を乗り越えて庭園に降り立つ。


 そこで、明日香の頭上から声がした。


『なんだ、この子供は?』


 不機嫌そうな、低い男の声だった。


 見上げると、詰襟の学生服を着た背の高い少年が明日香を見下ろしていた。


―――お兄ちゃん、だぁれ?


 少年はそれには答えず、迷い猫を見るような不思議そうな顔で明日香を見ていた。


『龍馬さま、申し訳ありません』


 玄関から1人、壮年の紳士が慌てて駆けつけてきた。


『坂崎、この子供はなんだ? なぜうちにいる?』


 坂崎と呼ばれた紳士の説明を受け、龍馬少年は納得して頷いた。


『なるほど、この子が例の親父の―――。そうか、そういえば今日だと言っていたな。……それで、なぜここにいる?』


 問われても坂崎氏はしきりに困惑するばかりである。


 しばらく考えた後、龍馬少年は言った。


『込み入った話だ。おそらく1人で応接間に残されて退屈し、庭が物珍しくて抜け出したんだろう。坂崎、戻して菓子でも与えてやれ』


 そして立ち去ろうとしたところで、


 ぐい。


 と、明日香に裾を掴まれた。


『…………』


 じっと龍馬を見つめる明日香。


『ふぅ』と諦観のこもったため息をはき、龍馬は言った。


『仕方ない。一人で残してまたぞろ勝手されたのでは堪らんからな』


(それから、しばらく私の相手をしてくれたんだっけ……)


(面倒くさそうにしてたけど、私の質問にも色々答えてくれたんだよね)


 色々な花の名前、噴水の仕組み、雲には乗れないこと、虫と花の共存関係。


 幼い明日香には難しくてほとんど理解できなかったけれど、それでも訊けばなんでも答えが出てくる龍馬をすごいと思っていた。


 また、このとき明日香の上の乳歯が取れてしまったのだが、乳歯を土に埋めれば次の歯が早く生えてくるという迷信も、教えてくれたりもした。


 しばらくして館から、1人の男性を伴って明日香の母親が現れた。


 ポロシャツにスラックスという出で立ちの、恰幅の良い壮年男性だった。


 男は明日香を目にすると、慈愛や驚き、そして後悔や困惑の入り混じった色を浮かべた。


―――おじちゃん、だぁれ?


『僕はね、君のお父さんだよ』


 これが、明日香が父や兄と会った、初めての日の出来事だった。



___________________




 ぼんやりとする頭で、明日香はスマホのアラームを聞いていた。


―――もう朝か。


 ベッドから起きだしながら、先刻まで見ていた夢を思い出していた。


 初めて水無瀬家を訪れて、父親や異母兄の龍馬と初めて会った日の夢だ。


 今思い返せば、あの日は母親が父親に認知を迫りに行ったのだろう。


 明日香はいわゆる非嫡出子だ。


 明日香がそれを知ったのは、あの日から何年も経ってからだった。


 母親は不倫関係にあった父との間に明日香を儲けた。しかし母親は一人で産み育てた。キャリアとして仕事に成功していた母親には、それだけの自信があったのだ。


 しかし思いがけない、唯一にして最大の誤算が生じてしまった。


 明日香が大病を患ってしまったのだ。


 保険の適用されない先進医療が必要だったため、高額な医療費がかかってしまう。


 断腸の思いで母親は資産家の父に泣きついた。もっとも、父は明日香のことを知らされていなかったので飛び上がって驚いたものの、事情を知るとすぐに認知し、援助を申し出た。


 その甲斐あって、明日香は長期にわたる入退院を繰り返したものの、完治した。


 その間に明日香に別の不幸が訪れた。幼くして母親を亡くしたのだ。

 

 身寄りのない明日香が父に引き取られ、館で暮らすようになるのは自然の成り行きだった。





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