第8話「 first lesson 」
数日後。
「あれ。不夜城先輩、帰るんですか?」
帰宅しようと下駄箱に向かっている途中、俺に声をかけてきたのは一年の香山せいらだった。
「ああ、今日はちょっと用事があってな、パスだ」
軽音部は一週間の活動五日間のうち二日は参加自由の練習日になっている。そのため不参加は何ら問題はないのだが、俺はたいてい部活に参加しているので香山も首を捻ったのだろう。
校門を出た俺は、まっすぐに自宅に帰る―――ことはなく、駅前に再び立ち寄った。
先日と同じファストフード店。その二軒隣にあるゲームセンターの入り口に水瀬明日香は立っていた。
だが一人では無かった。
水瀬の隣には、チャラそうな他校の男子生徒。
背も高くて制服もオシャレに着崩し、髪型にも肌にも気を使っていそうな男子生徒。
彼はしきりに水瀬に話しかけていた。
対して水瀬といえば、何も聞こえていないかのように壁にもたれかかり、スマホを操作している。
なるほど。ナンパを敢行する少年と、にべもなく無視する少女か。
その様子は、風車に向かって突撃するドン・キホーテを連想させた。ちょっと違うか。
これは同じ男として同情を禁じ得ない光景だ。
俺はナンパ少年と水瀬の二人のために、早めに声をかけることにした。
「よぉ。待った?」
俺の声に、弾かれたように顔を上げる水瀬。
「見てわからない⁉︎ 遅いわよ!」
「悪い悪い。ちょっとホームルームが長引いてな。あ、悪いけど、ちょっとこいつと待ち合わせしてるから」
前半は水瀬に、後半はナンパ少年に向けて謝罪した。
ナンパ少年は特に突っかかってくることもなく、軽く肩をすくめて去って行った。
「さ、行くわよ」
俺をひと睨みした水瀬は、さっさと先を歩き出した。
「おい水瀬、そっちじゃない。逆だ」
「は?電車に乗るんでしょ?だったら駅はこっちでしょ?」
「いやまぁ、確かにそっちは駅への近道だが、都合が悪い」
具体的には、レイラのオフィスのある方向なのだ。
学生兼音楽プロデューサーであるレイラは、基本的に放課後は自身のオフィスで仕事をしている。
万が一鉢合わせでもしたら、本当に漠然とだが、そこはかとなく面倒臭い事態になる気がしないでもない。
故に、少し遠回りになるが安全な経路を通っていくことにする。
「それにしても、本当に悪かったな。お陰で変な奴に絡まれたな」
「別にいいわよ。いつもの事だし」
「いつもの事?」
「そ。今日みたいに街で一人でいたら、1時間に少なくとも6人は声をかけてくるわね」
「そんなに⁉︎」
単純計算で10分に1人はナンパしてくるということか。
冗談を言っている様子でもないので、誇張ではないのだろう。
しかし驚いては見たものの、その数字の多寡は俺には区別がつかない。
そういえば俺の周りには、清音のや聖、最近ではレイラなど、ルックス(だけ)は瞠目に値するレベル高めの女子たちがいる。
あいつらと並んで歩いていると、急に他人の視線を感じることがある。すれ違う人々―――特に男―――が振り向くからわかりやすい。俺一人の時には人々の中に埋もれているのが、彼女たちが隣に立つことで急に俺にまでスポットライトが浴びるような感じになって居心地が悪い。
以前そのことを父親に話したら「お前、ライブの時嬉しそうじゃん。目立つの好きなんだろ?」と言われたことがある。だが、それとこれとは話が別だ。
俺は
ともかく水瀬と一緒に歩いていると、同じような気恥ずかしさに見舞われてしまうが、何やかんやで我が家までたどり着いた。
「ここが、不夜城の家?」
「そう。灰田から聞いてると思うが、一階が音楽教室のスタジオになってる。ほら、こっちだ」
物珍しそうに眺めている水瀬を促し、自宅とは別に設けられた教室用のドアをくぐる。
「あ!ゲンせんせーだー」
「ゲン先生、おかえりー」
「ゲンさーん、おかえりー」
「おう、ただいま」
温かい言葉で迎えてくれたのは、小学校から中学校までの10人ほどの生徒たちだった。
小学生が中心の初心者グループはひとかたまりになり、中学生中心の中級者は思い思い適当に散らばって練習している。
今日はギター教室の日なのでみんなそれぞれギターを持っているが、生徒たちはアンプを使わず、弁当箱大の機械にヘッドフォンを装着して練習している。
最近はデジタルアンプやアンプシュミレーターの技術が向上したため、このような形で集中して練習することが可能なのだ。
初心者の生徒たちは、講師の前で基本を習っている。
その講師が、俺に声をかけてきた。
「おかえりゲン。あら、そちらのお嬢さんは?」
講師―――俺の母親は目ざとく水瀬にすぐ気付いた。
「こ、こんばんは。水瀬明日香って言います!」
シャキンと背筋を伸ばし、やや緊張気味にだが挨拶する水瀬。
俺に対する悪態はどこへやら。借りてきたネコ状態のツインテール 。
「はい、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
「は、はい!」
「水瀬、そんなにしゃっちょこばらなくて良いよ。母さん、こいつの練習用に1本持っていくよ」
「いいけど。それにしてもお父さんいなくて良かったわね」
「まったくだ。あの親父がいたら、うるさくて仕方ない」
なんせ子供がそのまま大人になったような親父だ。
かつてレイラを家に連れてきたときの光景を思い出し、げんなりしてしまう。
「えっと……あった。これでいいか」
壁には1本のアコースティックギターと、2本のエレキギターが架けてあった。
エレキギターはテレキャスタータイプとレスポールタイプがあったが、俺はテレキャスタータイプを選んだ。
そのまま水瀬を伴って、二階の自宅へと続く階段を登った。
「ねぇ、あの教室で練習するんじゃないの?」
「あっちはあくまでも教室の生徒用のスペースだからな。俺が個人的に教えるとなると、やっぱりケジメはつけないとな。まぁ、2階にも一応防音しているスペースがあるから、思う存分練習できるぞ」
「そっか……。そういえば考えなしでつい気軽に頼んじゃったけど、何かお礼しないと」
憮然とうなだれる水瀬。
「別にいいって。俺は教えるプロじゃないし。それより、ここで」
俺は目的のドアを開ける。
1階をスタジオに改築するまで、家族の練習用のスタジオとして使っていた部屋だ。
水瀬にスツールを勧め、俺は昨夜から用意していたアンプ―――VOXの10w―――と持ってきたテレキャスターをシールドでつなぎ、セッティングする。
チューニングも終わり、ぼーっと俺のセッティングを眺めていた水瀬にテレキャスターを渡す。
「ほら」
「え?」
「え?じゃねーよ。ギターを練習するんだろ。ギター持たないでどうするんだよ」
「安心しろよ。お前が持ってたアコギもエレキも、基本的な弾き方は同じだから」
「そうなんだ……」
「そうだよ。俺は人に教えるときは、可能な限りエレキで教えることにしてる。なぜなら、アコースティック用の弦よりエレキ用の弦の方が柔らかくて押さえやすいからな」
俺が見てきた経験上、ビギナーがギターを断念する原因の一つに『コードが上手く押さえられない』ということがある。
アコースティックギター(アコギ)には大別して2種類あって、いわゆる『クラシックギター』と呼ばれるものと、いわゆる『フォークギター』と呼ばれるものがある。細かい違いはいろいろあるが、大きな違いはやはり使用される弦の違いだろう。一般的にアコースティックギター(アコギ)といえば後者をさすが、これに使用されるのは、固いものが多い。
ギターの道を断念したビギナーに使用していたギターを尋ねると、やはりアコギが圧倒的に多かったのだ。
「とにかく一回、弾いてみろよ。そうだな……Dメジャーのコードはわかるだろ?」
「Dメジャー……」
Dメジャーとは、一番低い音を
水瀬は恐る恐る、繊細なガラス細工を扱うようにネックに左手を伸ばす。
中指を1弦2フレット。薬指を2弦3フレット。人差し指を3弦2フレットの位置で押弦する。
ピックを持たせると、そのピックで4弦の開放弦(指で押さえていない状態)から1弦まで、筆で掃くようにストロークした。
煌びやかで滑らかな明るい音色が、アンプ/スピーカーから部屋中に響き渡る。
水瀬は大きな眼をさらに大きくし、感嘆の声を漏らす。
「凄い!何jこれ、綺麗な音!それにすごく弾きやすい!」
「はっはっは。そうだろうそうだろう」
狙い通りの反応に、俺は鼻高々になる。
実はこのテレキャスタータイプのギターにしたのには、しっかりと理由がある。
レスポールタイプのギターはマホガニーという木材を使用されていることが多い。
このマホガニー、とにかく重い。
対してこのテレキャスタータイプは、だいたいがアルダーかアッシュという木材で、これは比較的軽めだ。それにネックも細くて女子の小さな手でも握り易い。
ボディの大きさに関しても、割と薄く造られている。抱え込むように右腕を大きく構えなければならなかったアコギに較べれば、その弾きやすさは雲泥の差だろう。
ちなみにアンプの
ギター単体よりも、リッチな響きになるので、自分が上手くなったように感じるのだ。
なぜこんな小細工をするのか。
それは、ギター=楽しい、と思わせるのが狙いだからだ。
好きこそ物の上手なれというが、何かを上達しようとするとき、嫌々やるよりも楽しんだ方が圧倒的に上達が早い。
「じゃあとりあえず、これを見てくれ」
俺はアンプの上に用意していたプリントを渡す。
「何これ?」
「見て判ると思うが、コードポジションの早見表だ。これを見ながら、とりあえずいろいろなコードを弾いてみてくれ。その上で、こうした方がいいってところがあったら教えるよ。何か質問は?」
「ありません、先生!」
「よろしい。では始めてくれ」
そして、生徒1名の不夜城弦輝ギター教室が始まった。
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