第13話 黒い背広の男性

 夜の霧が深まる頃、一人の男性が店に入って来た。青白い顔をした中年の男性で、よねさんに促されながら席についた。

 「最後に食事がしたい。」

 よねさんは、少し考えて話しかける。

 「最後の食事なんてないんだよ。貴方は、まだまだ生きていなきゃ。」

 男は怯えた目をしてこう言った。

 「私にはもう生きるのが辛いだけなんです。」

 よねさんは、男性の肩を撫でてやってあたたかな眼差しでやさしく呟く。

 「自分で自分を管理している人は一人もいやしない。産道を通って生まれてきたのだって、みんな自然にそうなっている。自分の命を絶つことはできても、再生させることはできないだろう?空気も自然に呼吸して、消化や排泄も誰一人自分で指示して動かせる者はいないんだよ。それは性格も心も自分じゃどうにもならない。私たちは、小さな存在なんだよ。だけれども、尊い存在でもある。自然に逆らっちゃ駄目だよ。もっと力を抜きなさい。」

 男は、涙を流して今までの経過を話始めた。

 「私は病気なんです。あまり長くは生きられません。家族は、私のことなんて見ていない。私がいないところでやれ、遺産がどうのと、葬式はどこでと死んだ後の話しかしない。それが悲しかった。私はまだここにいるのに。」

 よねさんは、にこやかにこう言った。「貴方と家族は別なんだ。貴方が死んだら相手が反省するとか、貴方に申し訳なかったと言われたいから、死ぬのかい?そんなの馬鹿らしい。貴方は貴方なんだ。世界中でただ一人の貴方。人のために死ぬなんて情けないじゃないか。貴方は、貴方のために生きるんだよ?これは自己中ではない。貴方の中にある尊厳を忘れず自分の意思を優先するんだよ。他人に振り回される必要なんてないということ。」

 男は、よねさんとしばらく話したあと、家族と話し合ってそれでも勝手なようなら、距離を置き、残りの時間を自分のために使いたいと話て明け方ゆっくりと帰って行った。

 よねさんは、寝ぼけ眼でおにぎりを握りお坊さんの朝ごはんを机の上に用意すると、寝室へ引っ込んで泥のように眠った。



 

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