彼は私の最強手札

第４幕/Go! Go! Go!!

　優子と俊二が出逢ったのは俊二がまだ中学一年生の時で、その頃の優子は俊二が通う進学校に赴任してきたばかりの新米教師だった。目尻が下がった一重瞼、黒目がちの小さな目、丸い山頭の小さな鼻、口角が少し上がったぷっくりとした小さな口、緩やかな曲線の三日月眉、それ等が卵形の小顔にバランス良く配置された童顔、肩にかかるくらいのサラサラな黒髪、更には華奢で小柄な小動物のような外見と、何事にも一生懸命で真面目に取り組もうとするものの天然なところがある性格、それ等が相まった所謂ところの可愛いタイプの優子。そして、目尻が上がった一重の目、丸い山頭の大きな鼻、口角がキュッと上がった小さめの口、太めの一文字眉、それ等が丸みを帯びた顔に不自然なく配置された童顔で、前髪の他を短めにカットした黒髪、更にはガッチリとした体躯で長身の外見を、向こう見ずで一直線な性格が後押ししている、所謂ところの無邪気で天真爛漫な少年の俊二。そんな二人の年の差は十歳。立ち位置は、教師と生徒。それはまさに禁断の恋物語。けれど真剣な恋模様だった。

　そのきっかけは………、

　俊二の一目惚れだった。

　思春期の生徒が女性教師に憧れるのはよくある話し。しかし、きっかけはそうであっても、その行方までもがそうであるとは限らない。実は優子は、就任して暫くの後から教頭によるセクシャルハラスメント被害を受けており、それは月日を経る毎に増していた。更に、勇気を振り絞って拒否すればする程にそれ以外の陰湿な嫌がらせも受けるようになっていた。そして、それを周りは誰も助けてはくれず、一応に見て見ぬフリ。それどころか、それに加わる輩まで現れる始末であった。優子は次第に孤立し、教育現場を志した夢や希望、憧れといった情熱までもが崩れていきそうにまでなっていった。

　そんな状況で、その心の穴を埋めたのが俊二だった。幸運にもと言うべきなのか、それとも運命の悪戯と言うべきなのか、タイミングが合致した事で二人は急速に繋がっていった。新任であるが故に持っていた理想の教師像すら見失いかけていく中、優子は一人の女性でもあるが故に理性よりも感情を優先してしまう。俊二の優しさに温められ、俊二の真っ直ぐさに絆されていくうちに、優しい俊二を望み、真っ直ぐな俊二を求め、天真爛漫な俊二に笑顔を貰い、俊二という存在自体に溺れ、何よりも大切な存在だと想うまでになっていった。

　しかしそれは、優子にとっては気がついたら既に好きになっていたという事であり、図らずも好きになってしまっていたという事になる。イケナイ事であると思えば思う程に想いは募っていき、失いたくないと怯えれば怯える程に収まりを見せなくなっていった優子は当初、教師と生徒として出逢ってしまった事に苦悩し、葛藤する毎日をすごしていたのだが、それでも自身に芽生えた想いに抗おうとまでは思っていなかった。それどころか、結局のところどうすれば成就するのかを願う毎日へとすぐに変貌していった。

　では、一方の俊二はというと。俊二は終始、一貫していた。つまるところ俊二にとってそれは、一目惚れで好きになってから徐々に距離が縮まって深く知るまでに至っても、優子への想いがブレてしまう事になるようなきっかけなど何一つなかったという事である。しかしながら、想いに任せて走り続けた事で優子に受け入れてもらえた幸福感と、それによって社会人である分だけ優子に社会的な苦悩を相当な程度で背負わせてしまっているという罪悪感に板挟みされ続けてもいた。しかしでもだからこそ、想いが募れば募る程に、優子を守るという意識は過敏さを増していった。

　そのようにして、背徳感と充足感が共に満ちているような関係を、決して誰にも知られてはならない関係を二人は密やかだが激しく育んでいくのだが、付き合い始めてもうすぐ一年になるという頃、終局というバッドエンディングが突然に訪れた。

　その始まりは、孤立していた優子が俊二にそのツラさを吐露してしまった事であった。そうなるに至った理由は、どうしようもなく慰めてもらいたくなったから。そして、どうしようもなく温めてもらいたかったから。優子は吐露する事によってそうしてもらい、そしてそうなる事で更なる喜びを得ようとしてしまったのだ。

　対して俊二は、それを聞き、知るに至り、気づかなくてゴメンと謝った。守れていなくてゴメンと後悔した。

　優子は俊二のそういう優しさに癒やされ、更に癒やされ、存分に癒やされた。それでもう充分だった。充分に満足だった。俊二さえ傍に居てくれれば何もいらないとまで思った。俊二が傍に居てくれるのならば、もうどうなっても構わないとさえ思った。これで耐えれると、俊二が居れば大丈夫だと。そして数年経てば、それで俊二が成人となれば、その時はその時こそ本当に俊二と………と。しかし、俊二は動いた。感情に任せて動いてしまった。

　そして、事件は起きた。

　優子が、ぽろり。と、つい名を上げた者に対し、つまるところ教頭に対して、俊二は暴力という報復を決行したのだ。それもかなりの、である。本来であれば、大問題になる筈の大事件だった。しかし、それに至る理由が教頭によるセクハラやパワハラであり、教師間の虐めであったので、学校側は表向きとしては何もなかった事にしようと目論んだ。そしてそこで、これによって露見してしまった優子と俊二の関係というカードを利用されてしまう。つまるところ、優子に対してはセクハラやパワハラなどの件を口外しないがその代わり俊二の暴力の件は不問にする。と、言いふくめ、俊二に対しては二人との関係が公になると社会人である優子にとっては特に大変な事態を招く。と、言いくるめた。何も言わずにいてくれればそれを不問にする。と、いう事だ。道徳ではなく、教育でもなく、進学校であり人気校であるが故の体裁を第一に考えたのだ。当然の事として、常套手段として道徳やら教育といった建て前を前面に翳して、ではあるが。とはいえ、これによって俊二の暴力事件という問題はひとまずの収まりをみるのだから、俊二は納得しきれなかったが優子は胸を撫で下ろす事ができた。自分のせいで俊二の将来がオカシクならなくて本当に良かった、と。

　しかし、収まる筈の収まりは収まりをみせなかった。とある生徒の一人から理事会に話しが漏れてしまったのだ。本来であれば当然の如く教師と生徒という関係性のみであるべき筈が、社会人としての模範であるべき筈の教師が、よりにもよって着任した学校の生徒と淫らな関係になっている。しかも、その生徒はまだ未成年である。当然と言えば当然な事なのだが、その件は大問題に発展した。それはそうだ。どこから外に露見して大スキャンダルに発展してしまうか判ったものではないし、大人という概念で上から目線を貫きとおしたい人達にとってはそれは知らなかった気づかなかったでは済まされない事なのだから。そして勿論の事、教師陣のような後ろめたさもない。

　よって二人は、当たり前の事として強引に引き離されてしまう。優子にはこの件が公になれば俊二が世間からどんな好奇の目で見られるかを想像させ、俊二には優子のそれを想像させる事で、二人のお互いへの想いを問答無用に切り捨てたのだ。

　俊二への想いの深さを再認識しつつもこの期に及んでの考えの甘さを痛感した優子は、想いを引き摺ったまま赴任先を変わる事に同意した。

　そして、後先を考えずに行動した挙げ句、優子を守るどころか誹謗中傷の場に立たせてしまった自身の愚かさを後悔した俊二は、自主退学を受け入れて叔父が住む海外へと旅立った。

　優子にとっては俊二を想えばこその判断であり、俊二にとっては優子を想えばこその決断である。これがＴＶドラマなどの世界であるならば、逃避行とか駆け落ちとか心中などといった恋愛絵巻が展開するのであろうが、二人の場合においてはそのような展開にはならなかった。周りから叱責される俊二を見て傷つけてしまったと感じていた優子は、俊二に何も告げず与えられた赴任先へと引っ越してしまい、周りから誹謗される優子を見て傷つけてしまったと感じていた俊二の方も、優子の気持ちを察したつもりになって何も告げずに旅立ってしまったからだ。つまりそれは、一言で簡単に表現するならば自然消滅。お互いがお互いを強く想うが故の、お互いがお互いの深い想いを知らないままの、お互いにこれで永遠に片想いとなってしまったと思い込んだ、すれ違いによる別離だった。

　………。

「シュンくぅん………」

　ベッドの上で悶え果て続けてしまった優子は、ふわふわと虚ろな表情で横たわっていた。しかし、先程までの余韻に浸っているのは身体のあちらこちらだけで、その心は相変わらず俊二への想いにかき乱されていた。

「シュンくん、まだかなぁ………」

　優子にとって今のこの状況は、俊二を激しく求めているという点においてはあの頃とまさしく似ていた。現実にはまだ俊二と繋がれてはいないからこそ優子は、依存しているといえる程にまで俊二を求めているのかもしれない。溺れてしまうくらいに知ってしまったあの頃の幸せを、もしかしたら再び得る事が可能となるかもしれないのだから。

　目を覚まして、最初に瞳に宿る人。

　に、なってくれますように………。

　ぴんほーん。

「あ、帰ってきたぁー！」

　微睡んで暫し後、玄関のチャイムが鳴った。誰かによるその誰かの来訪を告げる音だ。時刻は午後の六時過ぎ。たぶんそろそろ、俊二が戻ってくるあたり。

「シュンくんが帰ってきたぁー！」

　なので優子は、瞬間的に俊二だと決めつけるや否や、がばっ。と、その身を起こした。そして起こすや否や、ぱたたた。と、小走りで玄関へと向かう。どうやら、身体のアチコチから発する痛みすら忘れてしまうくらいに焦がれていたようだ。玄関へと急ぐその姿、その声、その表情、その仕草、それらを繋ぐ挙動の様の全てが、大人の女性という年齢を大きく遡って女子、若しくは乙女のそれらであった。

　やっと帰ってきた、

　俊くんが帰ってきてくれた、

　俊くんが、

　俊くんが、

　おかえりなさい、

　おかえりなさい、

　俊くぅーん！

　心が躍っている。なので、身体も躍っている。俊二だらけ。それはそうだ、俊二の事しか考えていないのだから。それは油断ではなく、たぶん失念の類いでもない。今この時に至っては、その身が置かれている現状などハナから存在すらしていなかっただろう。

　がちゃ！

「おかえりな」

　どん！

「きゃっ！」

　その結果。無防備にドアを開け放ってしまった優子は、その途端に強い力で後方へと弾き返されるに至った。

「あうっ！」

　突然で唐突なその力に呆気なく屈した優子は、後方へとよろめいてそのまま尻餅をつくように倒れ、その勢いのまま後方へと転がる。

　どたん！

「うう、う………？」

　何が起こったのか全く判らなかった優子は、この時まてま忘れていた数ヶ所と新たに加わわった臀部にじんわりとした痛みを感じながらも、何が起きたのか玄関の方を視認しようと顔を上げた。

　すると、

「あ、う………」

　視線の先にある視界、眼前すぐのあたりに。

「ああ、う………」

　今朝その両の瞳でたしかに見るに至った、

「ううう、う………」

　人の姿をした人ならざるが如し何者か三名が、

「あうあ、あ、ああ………」

　縦に並ぶようにして立っていた。

「おおぉーい、おぉーい、見ぃーつぅーけぇーたぁーぞぉおおおおおおおおーーーっっっ！！」

　その中で一番の大男が、腹から絞り出したような低く震えた声で吠えた。散切り頭に四角い顔、二メートルを余裕で越えた体躯、青白い肌をしている。さながら、フランケンシュタイン博士によって生み出された人造人間のようだ。

「ふええっ！　あ、あう、あ、あ、あうう！」

　この事態に遭遇して漸く今朝の記憶が完全に蘇った優子は、その恐怖体験とこの恐怖体験によって言葉にならない声をワナワナと発しながら、必死に後退りしようとした。

「あうう！　あう、あうううっ！」

　が、しかし。怯えきって震える身体がいう事を聞いてくれず、バタバタともがくだけで一向に進まない。

「おい、女。捜したわよ全く。もうこれ以上は、願いだから手間をかけさせないでちょうだいね？　じゃないとぉ………凄くぅ、痛い思いをするハメにぃ、なるわよぉー？」

　ひょろりとした体躯を科学者が着るような白衣で包んだ、手足が細く長い、丸眼鏡をしたインテリ風の女。彼女が冷静な口調で、ちくり。と、宣告してすぐ。くくく。と、笑む。その目はさながら、サディストといった感じだ。

「あうっ！　あうう、う………たっ、助け、て」

　力無く震えるか細い声で言いながら優子は、ままならないままの後退りを尚も続ける。自身の愚かさに気づく余裕すら微塵も無い程の恐怖に支配されていくと同時に、自身を支配する事を辞めようとはしない想いが願いや望みや求めを伴って脳を刺激していた。

「先程から気になっているのだが、オマエさんは何処へ行くつもりだい？　玄関は我等の方だ。つまり逆なのだぞ？　それとも、そっちに恰好の逃げ道でもあるのかい？　ん？　ん？」

　玄関のドアに一番近い位置で楽しそうに成り行きを見ていた狡賢そうな男が、皮肉を込めたつもりの意地悪な言い方でそう言いながら、ずかずか。と、優子に歩み寄ってくる。

「イヤっ、こここ、来ないでぇー！　あうう、来ないで………ヤダ！　シュンくん助けてぇー！」

　優子は叫んだ。腹の底から声を発し、此処には居ない最愛の人を呼んだ。俊二しか浮かばなかった。今朝の時と同じように。

「ん？　またその名かよ………ふん、無駄なんだよ！　いくら羊飼いさんでも一度に我等を相手すれば被害者リストに名前が載る羽目になるだけだ！」

　何か腹の中にあるのだろう。狡賢そうな男を押しのけるように、ずんずん。と、優子の眼前へと歩み出た大男が、あからさまな忌々しさを表情と声に宿しながら怒号の如く吐き捨てる。

「ヒツジ、かい………羊飼いさん？」

　が、しかし。勿論の事、優子には何の事だか判らない。辛うじて判った事といえば、ひつじかいさんというフレーズは羊飼いさんなのかなという事くらいだ。

「全く………ボスのコレクター狂ぶりには辟易しちまうぜ。我等が居れば問題なかろうに。そうだろ、全く。おい、女！　アンタはジョーカーだからな、手荒なマネはしたくないんだ。それにアイツ等、素人だとナメてかかっちまったもんだから屠るのに手間がかかっちまうわそれでアンタに逃げられるわだからボスにドヤされるわでな。そんなワケで今度はミスれないんだ。判ったか？　判ったなら大人しく拉致られなっ！」

　大男の背中越しに、狡賢そうな男が苛々しながら恫喝する。どうやら、此処には少しも長居したくない様子だ。

「そういうワケで、女。さっさと立ちなさいな。一緒に来てもらうわよ」

　優子から見て一番後ろ、玄関先に立っている白衣の女が冷静に促す。

「おら、立てよ」

　言いながら、大男が優子を乱暴に掴み上げる。

「きゃっ、イヤっ！　離して！　あぐ、うっ、ヤダ！　ヤメて！　シュンくん助けてぇー！」

　まさに必死といった感じで抗おうともがく優子は、やはり俊二に助けを求め続けるのだけれど。抵抗してはいるのだけれどその効果は全くなく、敢えなく玄関の方へ連れて行かれるばかり。

「煩い！　見りゃ判んだろ此処には居ないんだよブチ殺すぞ女！」

　苛々と焦燥が募っている様子の狡賢そうな男が、それを晒け出しながら優子に凄む。

「あう、う、ひんっ！　うぐ、助け、て、シュンくぅん………」

　そうなるのも仕方ない事だといったくらいに怯えきってしまうに至った優子ではあったのだけれど、それでも俊二を求める声は止まない。しかし抗うにはあまりにも力及ばず、観念しているワケではなく大男に引き摺られていく。

「往生際の悪い女ね、全く………行くわよ！」

　苛々と焦燥が合わさったかのような素振りで、白衣の女が玄関先から外へと出ていった。

　………、

　………、

　そして、

　其処に居た全員が、

　何処かへと消えていった。

　………、

　………。

「ユウコさん………」

　俊二が、ぽつり。呆然と呟く。寝室、リビング、キッチン、浴室、トイレ、ベランダ、それこそクローゼットに至るまで捜した。しかし、優子はそのどこに居なかった。

「………私のミスです。軽率でした」

　俊二を追ってここまで着いてきた蠍座の乙女、いいや。小柳小春が、ぽつり。自戒の念を示す。呆然と立ち尽くす俊二を見て胸が締め付けられる思いだったのだろう、つい先程までのキャラは微塵も感じさせない。

「ううん。オレのせいだよ………ナメてたからね。余裕ぶっこいて、オレなら完璧に守れるなんて思い上がってたんだ」

　自身への憤りが激しくこみ上げてきた俊二は、言いながら拳を作る。小刻みに震えるほど、力強く。

「いいえ………すみませんでした」

　そんな俊二を見るに至り、胸が更に締め付けられる。

「………」

「………」

　暫し、沈黙が続く。

「「………」」

　玄関のドアが施錠されていなかった事や、死に至るような傷を負わされた跡が見られない事から見て、優子が何者かに拉致られたのは明白だった。優子を消すのが目的ならば、此処で遂行すれば済む話しだ。それで何の問題も無い筈。しかし、拉致されている。それなのに、脅迫状らしき置き土産は見当たらない。それは、何を意味しているのか………差し当たって思い付く事は一つだろう。

「オレが目的だったのか………」

「………はい。そのとおりです」

「え、どうしてアンタが………」

「実は私、影の」

　ぷるるる、

　ぷるるる、

　小春が何かを言いかけたその時。

　リビングにある電話が鳴った。

　かちゃ！

「もしもし！」

　俊二が素早く受話器を掴む。

「………判った」

　俊二の表情と声色が、すぅーっ。と、更に険しさを帯びていく。

「で、ユウコさんは？」

　闇夜の羊飼いと称された表情に。

「羊飼い、君………」

　それを見た小春は、途端に背筋が凍る思いに見舞われた。今は敵ではないのだけれど、対峙するとしたらわたしではとても敵わないだろう。そう直感してしまう程に。

　かちゃ。

「………」

　受話器を戻したまま、俊二は微動だにしない。

「ああの………羊飼い、さん？」

「オレのせいだ………くそっ！」

　俊二は、

　完全にスイッチを切り替えた。

　　　　　　　　　　　　　第４幕　終わり

　　　　　　　　　　　　　第５幕へと続く