第3幕/Set & Ready
まるであの頃のように。と、言うにはまだお互いに離れた生活を送りすぎたせいで決して小さくはない遠慮の気持ちがあるものの、それでも。結局のところその頃のように拗ねたフリをして甘える優子が眠るまでの間、ずっと俊二は腕枕をしつつ優しく抱きしめていた。そして暫しして眠った優子からそっと離れると、その表情を厳しいそれに変えながら部屋を後にした。そして、優子が緩やかに目を覚ました時。窓の外にある景色は、眩しいくらいのオレンジ色にその身を変えていた。
………。
………。
「んっ、んんっ………ん? シュンくん?」
寝起き直後でまだ寝ぼけ眼ではあったものの、優子の脳裏には何よりもまず一番最初に俊二の事が浮かんだ。そしてすぐその後に、早く俊二を視認したいという欲求が芽生え、そこにその声を耳にしたいというそれが加わり、更には願わくば俊二に触れたいという願望がそれらを引き連れて心を占拠する。夢だったのだろうか? この身に起きた非現実的な恐怖と、その後に巡ってきた真逆の至福の、そのどれもこれもが儚いまでに夢の中の出来事だったのだろうか? 前者のことなら夢であってほしい。けれど、後者の方は………と、優子は自身を急かしながら状況把握と記憶の検索、そしてその読み取りをしてみる事にした。
「シュン、くん………」
きょろ、きょろ、と。辺りを見回し見渡す。更には自分以外に誰も居ない事が判ったので、枕やシーツを顔に当てて匂いまで確認してみる。そしてそれによって自然と微笑みを浮かべながら、あの頃よりも簡素になってはいるものの此処は俊二と自分の部屋だと認識する。けれどすぐに、今はもう俊二と私ではなく俊二の部屋だと思い直す。なので優子にとっては当然と言えば当然の事、心に決して小さくはないダメージを負ってしまう。
「シュンくぅーん………」
の、だけれど。今このベッドで横になっていた自身を最新の情報とすると、巡ってきた至福は夢ではなく現実であり、そうなれば俊二の腕枕によって眠りの森の住人となった筈の記憶も現実という事になる。
「えへへ………」
故に、なのだろう。優子の表情が再び柔和に綻んでいく。その身に起きた恐怖も現実となってしまうのだけれど、まだ何一つとして解決していないのだけれど、今のところ世間ではすくなくとも殺人を犯した実行犯の一人だと疑われているかもしれないのだけれど、それでも優子は俊二との再会に意識が奪われきっていた。その喜びに高揚し、そして震えていた。
「ありがと、シュンくん」
そう呟きながら、優子は何を見るでもなく視線を動かす。そしてその先に、束になった一番上の用紙に何やら書かれてあるメモ帳を見つけた。もしかしたら誰かが俊二に残したメモなのでは? と、反射的に嫉妬心が芽生えたのだけれど。それは間違いなく俊二の筆跡だと優子はすぐに確信した。クセのあるその書き方を、懐かしさを感じながら思い出す。忘れるワケがなかった。特に〈な〉という平仮名などは個性的な字体であり、それこそ俊二独特の書き方だったので容易に判った。
『食事は元気の源です! 冷蔵庫の中にサンドイッチとポテトサラダとオレンジジュースがあります。なるべく完食を試みてね。それと鎮痛剤と胃腸薬をテーブルの上に置いておきます。なるべく早めに戻ってくるので待っていてください。俊二より』
と、そのメモ帳には。
そう書かれてあった。
「シュンくん………」
と、ぽつり。つまるところ俊二は今、外出しているか外出しようとしているかのどちらかであり、前者であれば既にもう此処には居ないのだけれど、後者であれば今まさに出て行くところかもしれないという事だ。それに気づいた優子は、後者ならイイなという思いそのままにガバッと勢いよく跳ね起きようとした。
「あううっ!」
が、しかし。それによって身体のあちらこちらから怪我による痛みを思い出させるには充分すぎる信号が発せられるに至り、有り得ないくらいに怖かった記憶と鎮痛剤という言葉が脳内を占める。
「あう、う」
そろりと手指を動かしてみる。
「痛く、ない」
次は手だ。
「大丈夫みたい」
更に腕を。
「うん。平気、かな」
それならば、と。今度は慎重に慎重を重ねて上体を起こしてみる。
「っ! く、あうう………」
慎重に上体を起こしてみたのだけれど、つい先程感じた痛みと同じくらいの痛みがびりりと走り、言葉にならない悲鳴を発してしまう。
ならば。と、そろり。
もう一つ。そろ、り。
ゆっくり、ゆっくり。
と、足をベッドから下ろす。
そしてシーツを捲り、
ゆっくりと立ち上がってみる。
「んしょ………」
少しだけ歩いてみる。
「ゆっくりなら、問題なさそうね」
そうしながら身体の痛みのチェックをひととおり終えた優子は、着ている俊二のセーターの裾を両手で軽く掴んできゅっと下げると、俊二を捜そうと部屋を出た。
かちゃ。
「ひゃっ………」
部屋を出た途端、特に露出している部位に肌寒さを感じる。俊二のセーター以外は何も身に着けていないからというのもあるのだけれど、今まで居た部屋は俊二が暖房で温めておいてくれていたからという事が大きかった。実のところ俊二は着替えに他にもジャージの下やTシャツを用意しておいたのだけれど、俊二の恋人でいられた頃の気分を再び味わいたかった当の優子はその中からセーターのみを着用していた。
「シュンくん………」
と、ここで。優子は俊二の現在の状況が強く気になった。恋人はいるのだろうか? 今ならばもう年齢の事は気にしなくても良いのだから、だからまた二人でこのまま………けれど、でも。優しさを与えてもらえたとはいえ、再び愛してもらえるという自信はなかった。
「やっぱり、ダメなのかな………」
自身が歩く毎に鳴る、ぱたぱたというスリッパの音。その他には何のざわめきもなく、自身の他には何の気配も感じられない1LDKの廊下。そこは、センチメンタルな気持ちにさせるには充分なくらいの懐かしい匂いがする、ような気がした。俊二と別れなければならなくなってしまってもう六年にもなるのだけれど、優子は離れる前の一年程をこの部屋でよく過ごしていた。いいや、暮らしていたと言うべきか。俊二との濃密で大切な過去の色々が、優子の脳内で想い出という記憶となって多大なる存在感を示していた。そしてそれは、そしてそのどれもこれもは、そしてその一切合切全ては、時間が解決してくれるくらいの想いなんかではなかった。少なくとも、優子にとっては。目が覚めて、最初に視界に入る人。最初に話しかける人。最初に話しかけてくれる人。温かな笑顔をくれる人。いつだって気にかけてくれる人。目を閉じる最後の最後に視界に入る人。最後に話しかける人。最後に話しかけてくれる人。優しい笑顔をくれる人。共に生き、同じ思い出を共有する人。それらが未来永劫ずっとずっと続く事を願ってやまない人。それが俊二だった。
「こんなに好きなのに」
いつも、いつでも、いつまでも、それこそ何度生まれ変わったとしても、何に生まれ変わろうとも、俊二という存在がそうであってほしかったし、それを夢に見ていた。願っていた、祈っていた、望んでいた、狂おしい程に。
それなのに………。
「何処にも居ない、かぁー」
至る所を捜してみたが、俊二は何処にも見当たらなかった。メモにあるように今ちょうど外出先から帰ってくるあたりかもしれないという事も有り得ると期待してしまってもいただけに、優子は判りやすいくらいの落胆の色をその顔に浮かべた。
「早く帰ってこないかなぁー」
と、本音をぽつり。そして、ため息を一つ。優子の心には、どうしようもないくらいの切なさと心細さが宿っていた。
………。
………。
「収穫なし、か。やっぱ、下っ端は何も知らないみたいだな」
一方で俊二はその頃、自宅に戻る途中にいた。その最初の方は情報収集を第一としての散策だったのだけれど、殺気立った怪しい奴が結構な数で散らばっていたので、それならばとそいつ等を片っ端から捕まえて尋ねてみる事にした。
「ま、そらそうか」
が、しかし。結果として然したる収穫は得られなかった。とは言うものの、これだけの事をしておけば向こうからも来てくれるだろうという目論見でそれなりの事はしておいたその帰りである。
「独りだと時間かかるし、やっぱ限界があるもんなぁ………ま、ユウコさんを辱めようとしたヤツはぐちゃぐちゃにしたし、取り敢えず今日のところは良したするか」
とは、言うものの。さてさて、これからどうしようか。と、俊二はその一点に思考を集中する。
「あ、そうだ」
が、しかし。すぐに思いついたようだ。まだ気配を感じるし危険かもしれないのだけれど、もう一つ手を打っておこうと考え、ポッケからスマートフォンを取り出す。そして、気配に注意を向けながら、自宅の電話番号をメモリで探した。
………。
………。
「はうう………」
ベッドの上。テレビの主電源をリモコン操作でOFFにした優子は、所謂ところの体操座りの体勢のまま溜め息を一つ吐いた。
「これからアタシ、どうなっちゃうのかな」
俊二が居ないという事が判った途端に寂しさが大きくなり、それがピークを迎えても外出する勇気はなく、なのでそのまま居残りを決め込んでいる状況だった優子は、それが主な要因で食欲がわかなかったので部屋へと戻り、自身に今朝起きた事についてどう報道されているのかを知る為に報道ニュースをザッピングしてみた。
が、しかし。
結果としては何も見つからなかった。リモコンでザッピングしていたその僅か数分後には再放送のドラマが始まってしまうという時間帯だったので、何一つ収穫なしという状況なのは仕方ないと言えば仕方ない。連行途中で襲われて更には警察の人が殺されているのだから、まさかそんな事件がニュースにならないワケがないし、新たな情報が掴めていなかったとしてもあれやこれやと好き勝手に有識者とやらと雑談をするだろう。だからきっとそれを観る前に報道し終えてしまったのだろう………と、まだ事実を知らない優子は思った。そして、考える。外は今、どうなっているのだろう? 襲ってきた人達は何者なのだろう? どうしてあんな事になってしまったのだろう? このまま私はどうなってしまうのだろう? と。
「どうして………」
そういった不安が、情報が何一つ見当たらない分だけ余計に優子を動揺させていた。が、しかし、不安はあっても悩んではいなかった。何故かといえばそれは、俊二という存在があるからだ。自分には俊二がいてくれるからという安堵が、確実に安心感を芽生えさせていた。数年ぶりに再会しようと信じきっている優子には、俊二を疑う気持ちが全くなかった。俊二が何らかの理由で出掛けているというこの状況も、優子は疑心暗鬼には全くならなかった。俊二が必ず助けてくれると思っていた。絶対に見捨てたりしないと思っていた。それは、自分自身に自信があるからというワケでは決してなく、優子が知る俊二はそういう人だからだった。疑うという気持ちが全くないという意味で言えば、疑っていないのだから信じるという気持ちさえないとも言えらかもしれない。優子にとっては俊二を信じるという事は当たり前な事なので、今もまだ完全に依存しているといった方が正解なのかもしれない。優子からしてみれは俊二がそれを望む望まないに関係なく、俊二が白と言えば白なのだ。別れなくてはならなくなってしまったのだけれど、たしかにそれはそうなのだけれど、俊二と別れたいワケでは決してなかったし、俊二を忘れた事すらなかったし、俊二を忘れようだなんて少しも思わなかった。こうして再会できた事によって表に出る場面を得たというだけの事で、俊二への想いは以前からずっと優子を支配していたといっても過言ではなかった。優子にとっての俊二とはそれほどの存在であったし、今もまだそうだし、そうなるにはそうなるに至る理由があり、それは勿論の事………俊二との大切な想い出の中にある。
「まだかなぁー」
久しぶりに再会した俊二にその頃の面影を見た優子は現在の俊二に想いを馳せ、そして現在の自身を憂う。俊二はあの頃よりも逞しく成長していた。あの頃よりも充分に大人の体躯だった。対して自分の方はと言えば、ただただ年齢を重ねてしまった。今の俊二からしてみれば、自分はもうおばさんかもしれないと優子は思った。約六年という年月が経過してからの再会は、年の差がマイナスに働いているかもしれないと優子は感じた。これらの事は、優子にとって不安を通り越して恐怖ですらあった。再会を願って止まなかった時間は再会が実現した途端に現在進行形という体を失って過去となり、再会の先にある望みが新たな現在進行形となった。本来であればそれは、一歩前進という喜びを感じながら更なる前進を目指すところなのだけれど、実際にそこにあったのは年の差による現実的な不安。時間の流れは味方でもあり、敵でもあったのだ。それ故に、優子は思う。一歩前進したが故に怯える。そこにあった危惧せざるをえない自分自身に………。
ぷるるる、
ぷるるる。
「あうっ?!」突然と言えば突然に、それまでは静寂だった空間が別の世界へと変貌しました。それは、私にとっては唐突と言えば唐突な事でもありました。なので、それに対して私は当然と言えば当然のように、あからさまなくらいにびくんと反応する。
ぷるるる、
ぷるるる。
「電話、か………」それは然程大きな音ではなかった筈なのですが、俊くんが傍に居るという安堵を何年かぶりに体感してしまった後の私からしてみれば、独りだとどうしても神経が過敏になってしまうという何よりの証拠なのでしょう。聴覚を必要以上に刺激してくるような甲高い音ではあるものの、壁を隔てた向こう側に位置するリビングで鳴っている電話のベル音が、小さく。そう、小さく聴こえた。それだけの事なのに。
ぷるるる、
ぷるるる。
「………」私は部屋を見回し見渡す。私の記憶では、この部屋には子機がある筈でした。けれど、テーブルにその充電器を見つけるのみ。子機は視界の何処にも見当たりません。きっとたぶん、何処かに置いてそのままなのでしょう。あの頃と変わらない。そういう事は何度もありました。私はしっかりと覚えている。もう何年も前の何気ない事を、ずっと、こうして。何気ない事であっても、大切な想い出の一つなのだから。
ぷるるる、
ぷるるる。
「………」けれど私は、その後の何年間かの俊くんを何一つ知らない。だから不意に、ある考えが浮かぶ。それは間違いなく、強く深い身勝手な嫉妬から導かれたもの。今こうして鳴り響いているあの電話の主は、女かもしれないと。
ぷるるる、
ぷるるる。
「………」俊くんにはもう他に女がいて、その女がかけてきたのかもしれない。そう意識した途端に、嫉妬という感情のみが激しく膨らむ。
ぷるるる、
ぷるるる。
「………」それがまるで強大な意思を持ったかのように四方八方へと暴れだし、私は慌ててベッドから下りる。そして、その嫉妬に駆り立てられながらリビングに向かう。身体の痛みなんてどうでもイイ。そんな事を気にする場合ではない。私は電話機を無言で見据える。直視する。睨みつける。嫉妬に任せて出てみようかと手を伸ばし、嫉妬のままにただただぎゃーぎゃーまくしたててやろうかと受話器を掴む。
『俊くんは私のモノなのずっと以前からそうなのもう二度とかけてこないで手を出さないで会わないで近寄らないで彼女面しないでよ誰にも渡すもんか私が恋人なのよぉおおあー!』
って、喚いてやろうかしら。
ぷるるる、
ぷるるる。
「………」どうやら今の私、今朝この身に起きた恐怖心よりも嫉妬心の方が大きいみたいです。もうダメなのかな、なんて今の今まで思っていたクセに。私ときたら、やっぱり………諦められる筈がない。諦めるつもりもない。忘れられるワケがない忘れるつもりなんてない。私は………俊くんを独り占めしたいんだ。
ぷるるる、
ぷるるる。
「シュンくん………」けれど、でも。そんな事をして、もしも。もしもそれが俊くんに漏れ伝わったりでもすれば、きっとかなり嫌われてしまうでしょうね。そうに決まっている、そんなの当たり前だよという危惧が、私を抑えようと名乗りを上げる。嫉妬心に支配されてはいるものの、臆病な自身が少なからずな躊躇を促す。だから私は逡巡し、そして思案する。どうしようか。電話に出たら最後、ホントに彼女とかだったら………私はたぶん止まらなくなる筈。ううん、抑えられなくなるに決まっている。
ぷるるる、
ぷるるる。
「シュンくんはアタシの………」それは自滅へのフラグ立てでしかなく、それ以外には有り得ない。バッドエンディングだった筈がもしかしたらハッピーエンドに向けてのコンティニュードになっているのかもしれないのに、そちらの方のフラグが偶然だとしても運命だと思い込めるくらいの情熱によって立ち上がったのかもしれないのに、それなのにそのチャンスの芽を摘んでしまうのはあまりにも自殺行為だよ。
ぷるるる、
ぷるるる。
「アタシのモノ………」でも、でも、それは判っているのに、それでもやっぱり気になる。気になって仕方がない。気になって手が受話器に伸びてしまう。掴んでしまう。気になって気になって気になって仕方がない。気になる気になる気になる!
誰、なの?
誰なのよ!
誰よ誰からなのよぉ!
誰なのよぉおおおー!
ぷるるる、かちゃ。
『ただいま、留守にしております』
「はわっ!」受話器を持ち上げるまで残り刹那というところで、電話のベル音が留守番電話機能に替わった。それで私は我に帰る。けれど、耳を澄ませて静かに続きを待つ。
『~メッセージを、どうぞ』
ぴいぃいいいー。
「んく………」私はおもわず息を呑む。
誰から?
誰なの?
『ユウコさん、起きてる?』
えっ、俊くん?
『俊二でぇーす』
やっぱり俊くんだぁー!
かちゃっ!
「シュンくんアタシ!」電話の主が俊くんからだと判った途端、私は反射的に………と、言うよりもたぶん。いいえきっと、本能的に。受話器を持ち上げていました。
『あう、っと、あ、ユウコさん? 怪我な痛みとかどう? 大丈夫? やっぱり痛む?』
「ううん、平気だよ。何処にいるの?」優しい声が耳に届いた途端、身体中がトロけて溺れる。心配してくれてる。俊くんに心配されてる。はうう、嬉しいよぉー。
『えっと、ね。あと、1時間くらいで帰れる感じ。あ、そうだ。あのさ、夕食はハンバーガーとポテトとかでOK? それとも、なんとか弁当みたいなのがイイ?』
「えっ、あ、えっと、えっとね、あっ、シュンくんが食べたいモノでイイ。あっ、と、その、あのさ、アタシが何か作ろっか?」俊くんの大好物は、オムライスとコロッケ。いつだって美味しそうに食べてくれたよね? 俊くん私、覚えてるんだよぉー。
『え、怪我してるんだから休んでなきゃだよ』
「あっ………うん、ありがと。シュンくんは優しいね」また心配してくれた。やっぱりあの頃と全然変わんないね………えへへ。
『え、そ、そうでもないよ………』
「アタシ、待っててもイイの?」あ、照れてるの? ホント、あの頃と変わんない。カワイイなぁー。
『勿論だよ。何も気にしなくてイイから絶対に其処に居て。ね? じゃあ、また後で』
「うん! あ、あのさ、早く帰ってきてね」アナタぁー、なんちゃって。
『承りました。ほんなら、また』
「え、あっ」あっ、俊くん?!
かちゃ。
ぷぅーっ、
ぷぅーっ。
「1時間、かぁ………早く経たないかな」
と、ぽつり。願いながら、祈りながら、心待ちにしながら、想いに駆られながら、優子は再び部屋へと戻っていった。まるでそれは、愛する夫の帰りを心の底から待ちわびる妻のようであった。
………。
………。
「お久しぶりです、ヤマナカさん」何やら大小様々な機械の部品が所狭しと並んでいる店の中で、僕はそこの主人であるところの山中広司さんに声をかけた。
「ん、あ、オマエ! コノヤロー、いつ帰ってきたんだよ?」
話しかけてきたのが僕だと判ったその途端、偏屈そうな白髪の顔が懐かしそう綻ぶ。
「1週間前です」そう言って、ぺこり。僕は山中さんに向けて頭を下げる。それにしても山中さん、元気そうで何より。そう思ったら、こっちも表情が緩んできたよ。
「若いのに有名になりやがって!」
僕のもう一つの顔を知っている山中さんは、そう言って更に顔を綻ばせた。よくよく見てみると白髪の量が増えたような気がする。
「オレなんかまだまだですよ」山中さんに褒められるとなんだか照れくさいのだけれど、少なからず誇りにも思う自分がいるのはたしかで、だからなのだろう緩みが強くなってしまう。
「で、何が知りたいんだ?」
勝手知ったる。と、ばかりに。山中さんは早速本題を促す。世間話に花を咲かせるのが此処へ来た理由ではないんだろ? と、いう表情を見せながら。
「今朝の殺人事件。って言うか、たぶん、抗争? に、ついてです」僕は素直に本題を告げた。自然と表情が固くなったのだけれど、それはそうだ優子さんの事なのだから。
「やっぱり、な。じゃあ、やっぱり行方不明の女性ってのは………」
山中さんは覚えていたらしい。
「実は今、ウチで匿ってます」信頼しているから正直に告げた。
「おおっ、ヨリを戻したのか? それは良かったじゃねぇ~かよ!」
声が弾んでいる。嬉しそうだ。
「いえ、あの、それはまだ」そう言って、僕は困惑する。出来る事ならそうなりたいのだけれど。
「なんだよ、ったく。相変わらずじれったいヤツだなぁー。ま、イイや。あれな、オマエもよく知ってる影の手が絡んでるらしいぞ」
山中さんは話しを戻して更に進めた。
「え、マジですか………」表情が曇ったのが自分でも判った。心の機微をダイレクトに出してしまった事はこの状況であっても反省すべき点なのかもしれないのだけれど、兎にも角にもなるほどこれは面倒な事になりそうだ。と、感じずにはいられない情報だった。
「たぶん、オマエの想い人さんは何かを見ちまったか、それとも知っちまったか、どっちにしても偶然の不幸だな。オマエ、本人から何か訊いてないのかよ」
考察を口に出した後、山中さんは疑問を口に出した。そう思うのは当然と言えば当然だ。
「それが、実際のところ何も知らないっぽいんですよねぇー。本物の警察に連行されたと思ってるみたいですし。でも、何かヒントとかあるかもなんで、またそれとなく訊いてみます。じゃあ、ヤマナカさん、近い内に一杯奢りますね」対して僕はそう説明し、そしてにこりと微笑んだ。
「そっか。って、ヒントだと? おいおいオマエまさか、って………そんなこったろぉーなとは思ってたよ」
なんだか心配そうだ。
「すいません」ありがとうございます、山中さん。
「ったく。ほら、これ持ってけ。あんま無茶すんなよ!」
流石に長いお付き合いといった感じ。山中さんは察しがついていたらしく、僕が来た一番の目的とビンゴなブツを渡してくれる。
「はぁーい」と、緊張感の欠片もないような声色で答えてはみたものの。心の中で、ゴメンなさいと詫びた。優子さんを守らなければならないので、無茶するのは最早決定事項だからだ。
「いつもながら軽い返事だなぁー、おい。マジで無茶すんなよ。あっ、そうだ。念の為にコレも持ってけよ。いくらオマエでも多勢に無勢じゃ難儀だろ」
本心から心配しているのだろう山中さんは、もう一度そう言ってくれた。そして、とあるブツを三つ投げてよこす。
「善処しますよん。ありがとうございます。ではでは、頑張りまぁーす」それらを、ぱしっ。と、受け取る事きっかり三回。そして、軽い調子とは裏腹に覚悟を決める。うん………やっぱり、平和で平凡で平穏な日常ってヤツは昨日で終わったようだ。
優子さんを苦しめるヤツ等は、
一人も残さず後悔させてやる。
………。
………。
「そう言えばシュンくん、こういうのとか隠さない人なのよねぇー」眼前にある現在を見て脳内にある記憶をまた一つ思い出した私は、くすり。そう呟きながら微笑んでもいました。
「アタシがいるのにこんなの買っちゃうなんて信じらんない! って、よくヤキモチ焼いたりしてたっけ」けれど、不潔だとか思ってはいませんよ。そこで繰り広げられているであろうあんな事やこんな事になっている女性を、俊くんが脳内で私に置き換えて妄想してくれているのであれば、それは私にとってはギリギリで許容できる範囲の事なので、それならば許してあげなくもないですから。けれど、これが私以外の誰か、例えば出演しているこの女優さんで発情して、私以外の人を思いながらだったとしたら、そんなのは絶対にイヤです。今ここにあるDVDであろうと本であろうとそれは私ではありませんから、私からしてみれば浮気と一緒だもん。しかも同じ女優さんの作品が並んでいたりするから、もしかしなくてもやっぱりそうなのかもと余計に嫉妬してしまう。
許容範囲内とか言いながら。
結局のところは、嫉妬する。
あうう。やっぱり私って、
独占欲が強いよね………。
「そうなんだろうなぁー、きっと。あ、でもそう言えば」あの頃の俊くんって、まだ未成年だよ。私、教師のクセに今頃になってそんな重大な、あっ、そっか。私、教師と生徒じゃなくて完全に恋人だとしか………ホント、教師失格だね。けれど、本気で惚れちゃったから。
それなのにこんな、こんな、
私以外の女なんて、全く!
言ってくれれば、
頑張ったのにさ………バカ。
って、それこそ犯罪者か。
………、
………、
あの頃なら、だけど。
「あーるじゅうはち、だぞぉー!」怒りに任せて捨ててやろうかとその内の一つを手に取ってみたのだけれど、現在はもう立派な成人男性だという時間の流れを思い出したので、行き場を失わせてしまった怒りを鎮めようと何故かしらパッケージを無言で眺めてみた。ボンでキュッでボンな全裸の女性が私わわ劣等感の塊りへと導こうとしているのか、それはもうとってもとってもセクシーなポーズで見つめてくる。
「やっぱり今でも、大きい人が好みなのかな」完敗にして撃沈な多大なコンプレックスを、ぽつり。おもわず呟きながらも、気になってしまって裏返してみる。
「わわわっ、こっ、この女優さん凄い事になってるよぉー」そこには、収録されている内容なのであろう映像のワンシーンを切り取った画像が何枚か所狭しと紹介されていて、そのどれもこれもがとても口に出しては説明できない猥褻なシーンばかり。流石に中身までは知りませんけど、以前ここで発見したモノよりも各段に過激な気がする。
「ホントに………気持ちイイのかな」素朴な疑問です。脳内でなんとなく妄想してみると、徐々にパッケージのシーンが俊くんと自分にリンクしていく。残念ながらまだ未体感なので想像するしかないのですが、けれどそれでも思い描く事くらいは簡単に、そう。簡単に。
「気持ち………イイのかも」俊くんがシテくれるのなら、それはもうどんな事だって。
シュンくぅん………。
「ん、く………」スイッチが入ってしまいました。どうしようもなく、パッケージにある全てを俊くんと私に置き換えてしまう。未だ俊くんさえ知らない身であるが故に、そして俊くん以外なんて考えたくもないが故に、淫らな自分自身によって幾度も刻まれてきた感覚が、鮮明なまま蘇ってくる。
「………」安心感が芽生えると、基本欲求が主張を始めます。勿論の事それは、睡眠欲と食欲と性欲です。睡眠欲はもう満たされました。食欲は後で俊くんと一緒に食べる事で満たされます。なので、今ここで主張する筈がありません。
ならば、そうならば。
残る欲望は一つです。
俊くんを忘れられない。
忘れられるワケがない。
だって私は、今になってもまだ。
忘れるつもりなんてないのだし。
「………」たぶん私は、表情がスーッと変わっていった筈。スイッチが入った瞬間から既にもう、抑える気なんて少しも見当たらなかったのだから。一人暮らしの生活が長いというのも理由の一つなのかな。外出時以外なら抑える必要なんてそもそもなかったし………なんて、今もまだ教師失格のままだね。言い訳にもなりはしない。けれど、理由付けにはなる。事が済んだ後に、果てた後に少なからず込み上げてくる、あの羞恥に塗れた自己嫌悪と向き合うまでは………。
シュンくん………。
「………」俊くんとの思い出が沢山詰まったこの部屋で、俊くんとの思い出だらけのこの部屋で、私はこの指を、自身のこの指を、俊くんの化身とする。
いつものように。
あの頃のように。
………。
………。
森田さんのバーガーという大看板が燦然と輝く大人気ファストフード店で、チーズバーガーとポテトのセットを二つテイクアウトした後の事。それを右手に、とたたた。と、優子さんが待つ部屋へと急ぎ足で向かっていた道すがら。
「突然で唐突ですけど当然のようにこんばんわ。突然で唐突なんですけどアナタ、もしかしなくても当然の如く闇夜の羊飼い君その人だよね?」
と、見知らぬ筈の女の人に声をかけられた。突然で唐突っぽく。けれど、当然のようにもの凄いフレンドリーに。
「はぁ、そうですけど」黒髪のショートに青色のグラスのサングラスを乗せたその顔には、きりりとした一重の目、ツンと立った鼻、小さめの口がバランス良く配置されており、上は真紅のレザージャケット、下はタイトな黒のミニスカートに黒のストッキング、黒をベースに赤いラインのロングブーツという装いの………たぶん、アラサーあたりかな。勿論の事、それを眼前の本人に訊くつもりはない。だってさ、ほら。確かめようモノならきっと、たぶん。いいや、絶対? ま、それは兎も角として。大人の女性の艶っぽい色気? と、いった感じの雰囲気が存分に漂っている。と、言えば喜んでもらえるだろうか。所謂ところのモデル系スレンダーボディーな女性、括弧して推定でDカップ括弧閉じる。そんな感じの女性が、僕をとおせんぼするようにして立っていた。
「でしょ? でしょでしょ! わぁーいわぁーい、やっと見つけたぞぉー!」
が、しかし。大人の雰囲気が台無し。スパッと前言撤回しちゃいましょう。まさかのキャラが登場しましたよ。しかも、こっちのほうがキャラ立ちしているっていう、ね。
「わお………」天は二物を与えずという教訓と、外見で判断してはいけませんという道徳。それらを脳と心にしっかりと染み込ませつつ、こう思ってしまう今日この頃です。
激しく残念な人だ、と。
「ねぇ、ねぇ、羊飼いくぅーん。ねぇ、ねぇ、どうして固まっているのかしら?」
それは兎も角として。この場面で不覚にも逡巡してしまう。きっと、僕を当人だと承知している上でわざわざ二つ名の方で声をかけてきたのだろう。二つ名の方を知っているという事は、つまるところ同じ世界の住人という事だ。
「うおぉおおおーい! って、あの、さ、えっ、あれ? え、え、えっと、だから、羊飼い君ってばぁあああー!」
本来であれば、それに対して身構えるか逃げるかの二択なのだけれど。僕はどうすればイイのか躊躇してしまうに至った。
「アナタは今、絶世の~と絶賛されるべき筈の謎の美人なお姉さんに、こんなにもフレンドリーに話しかけられちゃってたりしてるんですよ?」
何故なら、敵意や殺意といったオーラは微塵もなかったから。敵なのか味方なのかその正体は判然としないものの、この態度は少なくとも敵意や殺意てはなく故意であるのは間違いない。って、フレンドリーなのは自覚していましたか。
「あらヤダ、もしかして? めちゃめちゃ綺麗なお姉さまに話しかけられちゃったから、緊張してるのかな? かな? かな?」
しかも、隙だらけのようにも見える。僕がファストフードをテイクアウトしただけの素手だから、だから余裕を感じているのだろうか。それともそのままそのとおり、フレンドリーなだけなのか。自分で綺麗なお姉さまって言っちゃうし。
「え、え、もしかしてホントにそうなの?」
注意深く観察してみてはいるのだけれど、敢えてそう振る舞って近づく事によって油断を誘うスネーキーなタイプにも見えない。けれど二つ名で僕を呼び止めている。
「こんなの初めて! 嬉しいよぉー!」
故に、身構えるを選んだものの警戒するまでには至らなかった。って、初めてなのかよ。ま、そのキャラじゃそうだよねぇ………って、残念ながら僕も緊張してないけどね。
「アタシって、やっぱり………うん。やっぱりそんなに綺麗? 惚れちゃったの、かな? ねぇ、そうなの? そうなんでしょ? 一目会ったその日から系なのかな? あ、でしょ? なんか、アタシの方が意識しちゃいそう! ヤダなもぉ~、あはぁ~んって感じ? こんな気持ち初めてだよぉー! なんか、なんか、うん。高まるぅうううー! どうしたらイイのかしらん。はうう………ぽっ」
と、矢継ぎ早に都合良すぎる自己完結を繰り広げる残念すぎる彼女。波状攻撃は一向に止む気配はなく、ほっておくと永遠に彼女のターンが続いてしまいそうな気配すら感じる。何なのだろうね、コノ人は………。
って、ダメだ。これは限界だよ。
これ以上はもうスルー出来ない。
「あのぉー。で、どういった類いの逆ナンパでしょうか?」暫しの逡巡の最中に不意に感じ始めたと思いきや急激に多大に膨らみやがったストレスを知らん顔しきれなくなったので、それならそれで吐き出しちゃおうかという考えに変更するに至り、そう返してスカしてみる事にした。
「えっ、逆ナン? ってアタシ、お遊びなんかじゃないわよぉー! アタシ、そんな簡単に抱かれてなんかあげないんだからねっ! 中に出すならハンコ押せ! いつだってアタシは、ほ、ん、き、と、書いて一途な女なのよ、きゃは?」
が、しかし。敢えなく失敗。スルーしたのに逆に受け止めやがった。コノ人、病気ですか? しかも更に翻って増大です。家なきアラサーですか? きゃは、ってアンタ………。
「そうよアタシはいつだって恋のど」
まだ止まらない。ダメだコノ人。
「待て!」反撃開始。
「れいっ? あ、わんわん!」
すると、頭の回転かま宜しいようで。なるほど。そうきますかぁー。と、おもわず感心してしまうに至る。コノ人、只者ではないな。
「もしかしなくても、うん。絶対にふざけてますよね?」ふぅー。やっと会話らしい会話を声にして返せたよ。溜め息混じりではあるけれど。
「あ、あ、むむむむぅーっ! それって酷いんだぞぉー! じゃあ、じゃあ、試しに口説いて抱いてみなさいよぉー! あ、そうだ! なんなら凌辱でもイイから弄んでみなさいよ!」
が、しかし。何故だかぷんすかぷんな残念すぎる彼女は、ぷんすかぷんなままとんでもない事を言い出した。って、さっきからそんな事ばっか言ってるんだけどさ、コノ人。
「アナタが遊びのつもりでも、地獄の底までついてって離れてあげないんだからねっ!」
そして、そう続けてくる。おいおい、蠍座のレディーかよ! と、一応はツッコミを挟んでみようかどうか思案する。
「責任とってくれるまでつきまとってしがみついてまとわりついてやるんだからねっ! 何さ、お気の済むまで笑えばイイじゃないのさ!」
の、だけれど。思案なんてしていたらそのまま彼女のターンは続くようです。スルーされたのかそれとも気づかなかっただけなのか、どちらにせよ眼前の彼女はレディーof蠍座を続ける。責任取ったらその後は近寄りませんよって事なのか訊いてみたろか。って、よくしゃべる人だなぁ………なんだか疲れちゃいました。
「笑えねぇーよ!」なので、強く出てみる。
「えっ、笑えない? 笑わない、じゃなくて笑えない、ですと?」
けれど、きょとん。とした表情で。それが本当はどんな表情を指すのか実のところ知らないのだけれど、たぶん当たっているだろう、きょとん。とした表情で、彼女は。って、どうしよう………マジでどうしよう。コノ人、全方位対応型アンドロイドなのかもしれない。そんなのが存在するのかどうかは知らないけどさ。
「うんそう笑えない。だってさ、それって結局は責任とったらとったでその後もつきまとってしがみついてまとわりつく的なパターンなんでしょ?」が、しかし。ここでだんまりになってしまうと再び永遠とすら感じてしまう程の彼女のターンになってしまうので、僕は違う角度のツッコミを入れてみた。
「ん? えっとぉー。うん、そうね。そういう事になると思う。でも、でもさ、アタシってば、ほら。一途じゃないですかぁー」
すると、彼女。お、幾らか効果あり? と、いった感じで素のような雰囲気が。ちらり、そんな程度には垣間見えた。っていうか、一途な女とか知らんわ。
「初対面だから知りませんよ」なので、冷たくあしらってみる。なんとなく、だけれど。コノ人の対処法は今のところ、兎にも角にも冷たく冷たく。それが取り敢えず効果を発揮しているように思う。
「ちえっ、いけずぅー! 闇夜の羊飼い君はドがつくSなんだね。あ、でも、こういうのもアタシ、なんかこう、うん。恥ずかしいけど全然イヤじゃないかもですぅー! って言うか、なんだか新発見かもですぅー!」
残念ながらあまりと言うか全く効果がなかったらしく、彼女はすぐに戻ってしまいましたとさ。めげない人だね、コノ人。こちらこそ新発見ですよアナタみたいな人は。
「あのぉー、どこまでが本気なのか判んないんですけど」ぶっちゃけ、かなり圧されている。負けるかもしれないという気持ちが膨らむ。これが勝ち負けの闘いなのかは置いておいて、なのだけれど。
「アタシはいつでもいつだっていついつまでも全力投球です! 例え、縛られたり叩かれたり蹴られたり踏みつけられたり吊されたり垂らされたりかけられて罵られたって、そこに愛があるのなら大事なトコは濡れちゃうけど頬は濡れないのよぉー!」
そして、彼女は。って言うか、おいコラ蠍座女さんよ。少しずつ少しずつ具体的に表現していくのはもしかして、いいやもしかしなくても、実のところ冷静に何かしらの計算をしているという事なのだろうか? と、訝しく思いながらも強気の一手で押してみる。それにしても、マジでかなり面倒クサい人だわ………。
すると、
「がおぉおおおー!」
「こら、吠えるな!」
「がるるぅー!」
「う、唸るな!」
「愛が欲しいよぉー、ぐすん」
「人格が破綻してるんすか?」
「アナタのせいよぉー!」
「そっか。って何故だ!」
「アナタが身も心もボロボロに」
「そんな覚えはありませんよ!」
「これから弄ぶつもりのクセに!」
「そんな事は絶対にしませんよ!」
「刺激なき恋愛とかつまんなーい!」
「えっ、と………かなり手強いかも」
「結構こう見えて従順よ?」
「ぐ………あ、そうですか」
何なのコノ人。
「あのさ。急いでるんで帰ってもイイですか? それに、面倒だし」暫しの攻防の後、もう正直に告げてみた。このまま彼女のペースに呑まれていたら、有り得ないくらいに長くなりそうだし。それこそ、本当に永遠になりそうなくらいに。
「乙女に向かって面倒って言うなぁー! 女は須く面倒な生き物なの! いつまでも都合の良いままの女なんてこの世にはいないのよ! だから面倒っていうワードは禁句なの禁句! 泣いちゃうぞ? 泣いちゃうんだぞ? びえぇーん! って。花粉症なの? それは鼻炎よ!」
の、だけれど。彼女の口は閉じる事を知らないようで。しかも、オチまで入れてくる始末。どこが乙な女だよ。どうやらコノ人、一つ言うと百くらい返してくるタイプのようです。
「む? むむむ? あ、あぁーっ! 今、今、たった今、乙女ってトコをおもいっきり拒絶しようとしたでしょ! 絶対したよね! したに決まってるもん! 面倒だと思うのもダメだけど、態度に出しちゃうのはもっとのんのん! 乙な女と書いて乙女、どうぞ宜しく。ぺこり!」
はい。どうやら正解です。ばしばし返ってきました。今度は乙な女さんからの忠告です。宜しくじゃねぇーよ。ぺこりじゃねぇーよ。あーもぉーマジで誰か助けてくれぇー! と、そんな気持ちにさせてくれる人だわ。
「すいませんでした許してくださいそれでは用事があるのでこの辺で失礼しますご機嫌ようさようなら永遠に」なので正直に言うと、いい加減もう勘弁だった。発した言葉とは裏腹に感情がこもっていなかったのが何よりの証拠。
「あっ! これってもしかして、もう始まってる、とか。なの? それならそれでアタシ、心の準備をしなくちゃだね………これって、ほら。つまり、その………アレなんでしょ? ほら、そ、その、つまり、羊飼い君の言葉責めプレイってヤツ? そうと判ったらなんだかアタシ、はうう。羊飼い君ならイイけど、いやん! そんなに見つめちゃダメなんだからね、ぽっ」
けれど、でも。恥ずかしそうに呟いて俯き更にはもぞもぞし始めながらそう返してくる、残念すぎる蠍座の乙女。僕はそんな彼女を唖然としながら眺める。次にどういう展開が待っているのか、そんな事は皆目見当もつかない。
「それで、次はどうするつもり? だってだって、言葉責めだけじゃたぶん、まだ………入んないと思うよ? それとも、まさか………強引派? そうなの? そうなのかな? まなかな?」
と、彼女の妄想は続く。再び全言撤回しようか、恥ずかしそうにではなく嬉しそうに、だ。次も何もまだ何一つしてないし、此方としましてはそうする気もないんですけど。
「おいコラ変態さんちょっと待てマジで!」このままでは妄想のみで既成事実とされてしまいそうな悪寒に襲われそうなので、変態さんはNGですというワケではないのだけれど、そろそろお開き願えないだろうかと更に強めに告げてみる事にした。コノ人は激しく苦手かもしれない………って、三倉姉妹さん関係ないだろ。
「アタシを辱めてどうするつもり? 羊飼い改め、羊の皮を被った狼さん。って言うか、ケダモノさんかしら? こうしてアタシはどんどん淫らな女へと調教され、羊飼い様なしでは生きてゆけないカラダにされていくのね………でも、それでもイイよ。愛してるって言ってくれるなら、ぽっ」
が、しかし。やっぱりと言うべきなのか、彼女はそう言って続けようとする。いやはや、改名されちゃったよ………苦手かもじゃなくて、完全に苦手ですコノ人。って、受け入れちゃうのかよ。羊飼い様って何だよ、様って。
「だから、そうやってどんどん妄想するのはヤメてもらえませんか?」マジでそうお願いしたい気分だったので大真面目に告げてみたのだけれど、まるで効果なしなんだろうなぁ………両手を頬に添えて恍惚の表情で僕をチラッと見てくる始末だし。
「こんな気持ち、初めて………ちらっ、ちらっ。アタシってば、こんなにもドM属性だったのね。羊飼い君に開発されちゃった、ううん。ご、主人、さ、ま、に。てへっ」
そして、このとおり。コノ人は全く止まらない。今度は妖艶に僕を直視したまま、なんなら少しずつ少しずつ、じりじり。と、距離を詰めながらこんな事を告げてくる。
「いや、あの、き、気のせいですよ」身の危険を感じてきた僕は、こんな事なら逃げるを選ぶべきだったと真剣に後悔した。正直に言って、マジならかなり怖い。そんなワケないのだけれど、そう判っていてもやっぱり怖い。
「アタシのご主人さまぁー、うるうる」
「えっ、え、いや、その、ええっ!!」
クネクネしてるよ!
見つめ続けてるよ!
んで、うわっ。
やっぱり近寄ってきたよぉー!
「これでアタシはもう、ア、ナ、タ、の、モ、ノ、よ。もっと好きにしてイイわよぉー」
まさに、そう。これでもか! と、いうくらいに遊ばれている。弄んでくる。初遭遇のこんなキャラに僕は、精神を喪失させられそうになっていた。
「ゴメンなさい。もうこのくらいで勘弁してください。マジで急いでるんですよ」結局のところ、遊ばれてるのは蠍座の女ではなく僕の方なので、散々に弄ばれた挙句に弱々しく白旗を掲げる事にした。
すると。
「ちえっ、マジかよぉ………ホントに楽しかったのになぁー。でも、うん。そうね。たしかに急いだ方がイイかもしれないわね」
激しく残念という態度をあからさまに、残念な女さんが僕に見せる。何が目的だったのだろう? それにしても強烈なキャラの人だよ………。
って、ん?
「それ、どういう意味ですか?」名残惜しそうなのが非常に引っかかったのだけれど、どうやらシリアスになってくれたようなので取り敢えずはホッとした。が、しかし。その束の間その言い回しに妙に意味深な引っ掛かりを感じたので、僕はすぐさま訊いてみた。なんだか、凄くイヤな予感がする。
「どういう意味って、そんなの決まってるじゃないの。アナタの大切な人が危ないって事よ。もしかしなくても、ね」
と、真剣な表情と口調で彼女はそう言った。
きっぱりと、危ない。
と、そう言いきった。
「大切な人、いるんでしょ?」
そして、もう一度。今度は確認するように。
「まさか、それ。ウソだろ?」大切な人って、優子さんが? 僕はおもわず、目の前が真っ暗になる。頭が痛くなる。鼓動が激しくなる。脈が乱れる。息が苦しくなる。膝から崩れ落ちそうになる。嘘だと言ってほしい。冗談だと言ってくれ。頼むからそう笑ってくれ………。
「ホントよ。だからこうして」
と、何やら言いかけたのだけれど。
「おいコラそれならこうやってふざけてる場合じゃねぇーだろがよ!」僕はそれを遮るように激昂してしまった。当然ながら余裕消失。更に言えば茫然自失だよ。悠長に聞いてられるかバカやろぉー!
「え、あ、ちょっ、ちょ、ねぇ!」
と、蠍座乙女がまだ突っかかってくる。
「待てるかよ!」けれど彼女に構う事なく、僕は優子さんが待つ部屋へ向けて既に猛然と駆け出していた。優子さん………くそっ! 完全に油断していたよ。失態だ。僕を尾行させておびき寄せて乗り込もうと考えていたのに、まさか優子さんの所在が既にもう露見していたなんて。そんな事、少しも考えていなかった。例えそれが有り得ない事だとしても、それは有り得ると思うに至る考えを思いつかなかっただけなのかもしれず、それ故に可能性はゼロではないのだから、きちんと考えておかなければならなかったのに、それなのにこの僕ときたら、くそっ! 何か抜けていたのか? もしも優子さんが部屋に来た時に追っ手がいたとして、そいつがその姿を見ていたとしたら? けれどその部屋の住人が僕だなんて事はまだ知らないのだから、だからきっと一般人だと思う筈で、ならば警戒する必要はないとばかりにさっさと踏み込んできていた筈。が、しかし。そうならなかった………と、いう事は? まだ発見されていなかったからな筈だよな。だとすれば? 僕が部屋を出た時に僕を見て、それが僕だと知り、そこに僕が居ると面倒だから、だから僕が離れた今のうちにという事なのか?
いいや、
それは違う。
それだと、優子さんがそこに居るという事を知った理由が説明できない。優子さんがあの部屋に居るという事実を知るチャンスは、優子さんが訪れたあの時だけ。あの時は僕が居るという事は知らない筈なのに、誰も踏み込んでは来なかった。そして、僕を知る誰かが僕だと知るチャンスは、今日こうして部屋を出たこの時だけ。けれどこの場合だと、優子さんが居るという事を知らない筈だ。あの部屋に優子さんが居るという事と、僕が居るという事。この二つの事実を把握していなければ、この段階であの部屋に踏み込むなんて有り得ない。
ダメだ、頭が回らない。
支離滅裂になっている。
けれど、でも。
有り得ない筈なのに。
それなのにどうして。
いいや、
そんな事はもうイイ!
それより何より優子さんだ!
優子さんが危ないんだよっ!
余計な時間を使ってしまった。何もかも、余裕ぶっこいていた僕のせいだ。影の手が絡んでいると教えてもらっておきながら、それでも心のどこかでまだ大丈夫だろうとタカを括っていた。もうとっくの前に始まっていたのに。僕自身が知らしめてもいたのに。もしかしたら、やっぱり電話したのがマズかったのか? くそっ、僕って奴は使えない手札だよ全く! ゴメンね、優子さん。ゴメンね、ホントにゴメン。ゴメンなさい。今すぐ行くから。だからどうか、だからどうにか頼む!
どうにか、
間に合ってくれぇえええー!!
………、
………、
………、
第3幕 終わり
第4幕へと続く
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