第2幕/Keep it ……

 ひりりとした痛みに耐えながらシャワーを浴びて浴室から出てきた優子は、リビングで努めて普段どおりを装いながら待っていた俊二に促されるまま、俊二が寝室として使用している部屋へと向かった。そして今はベッドの上で、身体のあちらこちらに見受けられる傷の手当てを受けようとしていた。


「あっ………」

 優子の怪我の処置をする為に俊二が用意していた救急箱が視線の先の視界に入った途端、優子はその救急箱に釘付けとなった。その救急箱は優子自身の物で、以前は優子が俊二の怪我の処置に使っていた物だからだ。以前………そう、それはもう二度と会えないと思うしかなかった俊二との大切な想い出の日々の中の、俊二の傍に居られる事それが日常であった頃の、忘れられる術はなくそもそも忘れるつもりなんて更々ない、そんな記憶の中の一つだった。


「痛いと思うけどゴメン。ちょっとの間だけ我慢してね」

 俊二はそう話しかけながら、申し訳なさそうな表情を浮かべた。そして、なるべく痛くないようにするにはどうすれば良いのかを懸命に考えてもいた。のだけれど、兎にも角にも優しく丁寧に、丁寧に丁寧を重ねて優しく優しく処置する以外に何一つ思い浮かばず、そんな不甲斐なさが優子にも伝わるかどうかは別として、少なくとも俊二自身にとってはその表情を更に雄弁にさせた。


「うん、お願いします」

 そんな俊二の優しい気遣いがその表情や声色から存分に伝わってきた優子は、不意に想い出として大切に大切に残してきた俊二が重なり、それによって嬉しさが大きく勢いを増しながら込み上げてきた。勿論の事、この傷は俊二のせいではない。俊二が原因で負った傷ではないのに、これから処置するにあたって傷口に薬が染みる事を申し訳なく思う俊二。そんな俊二の思い遣りの気持ちが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、優子の脳内にまだ二人が付き合っていた頃の想い出の数々が自然と浮かんでくる。それらは決してセピア色ではなく鮮明な色合いを保っており、俊二への想いが些かの衰えも見せていない事を存分に物語っている。しかしながら此処が寝室であるからなのだろう、大きく占めているのはこのベッドの上で腕枕をしてもらいながら眠っていた記憶であった。


 の、だけれど。


「あっ………」

 よくよく思い返してみると。寄り添ってすごしたという意味で言えばこのベッドの上だけの事ではなく、つい先程まで居た洗面室や浴室だってそうだったし、リビングのソファーの上でだって、それこそ廊下でもキッチンでも、つまりそういう記憶はあらゆる所そこかしこに幾らでもある事だったので、その事実を思い出した優子は身体中がカーッと熱くなるのを感じた。つい先程と表現しても差し支えないだろう過去に非日常的な多大なる恐怖を味わってしまったばかりだというのに、死を意識してしまわざるを得ない体験をしたばかりなのに、俊二との心温かな事ばかりに気を取られるのはきっと、心が安堵に満ち満ちた事によって脳にも余裕が生まれたからなのだろう。


「ん、痛かった? ゴメンなさい!」

 が、しかし。優子が小さな声を洩らすに至った理由がそうだったとは思う術もない俊二は、当然と言えば当然の事ながら塗り薬が傷口に染みる痛みによってだと判断した。加えて、この傷の数々に至る理由をどのように訊こうかという考えに少しだけ意識が向いていた事もあり、こんな傷を負うに至った優子の気持ちや目の前の処置に集中していなかった自分に後悔を覚えつつ、その焦りや申し訳なさから慌てて気遣った。


「え、あ、ううん、大丈夫!」

 そんな俊二の優しさに深い申し訳なさを覚えた優子は、そんな俊二の気持ちが即座に判って慌てて否定した。そしてなんとかしてこの空気を、がらり。と、変えなければと懸命に思案しようとした。

「そうじゃなくって………えっと」

 すると途端に、俊二に言わなければならない事が浮かんでくる。それは確認しなくてはならない事であり、とても重要な事でもあり、もしもの事を思えばそれこそ今度は自分から死んでしまいたくなると言っても過言ではない事だった。


「ど、どうしたの?」

 優子の表情が見る見るうちに曇りを帯びてまるで今にも泣き出してしまいそうな程の変化を色濃く見せた事に気づいた俊二は、思考がストップしてフリーズしそうな焦燥感を覚えながらその理由を確認しようとする。本当にストップからのフリーズを迎える前に状況を理解して解決しなければ、と。


「あの、さ………ニュースとか、観た?」もしも知らないならこのまま………なんて、甘えちゃダメだよね。って、甘えてばっかりだったけど。

 覚悟を決めて。と、表現するのはオーバーかもしれないのだけれど。それでも、優子にとってはこの先の運命の明暗への分かれ道が決まると言っても少しも過言ではない事だった。だからこそ優子はついつい俊二から視線を逸らし、伏し目がちになり更には弱々しい声にもなってそう訊くに至った。


「え? あ、うん。観たけど」あ、この流れで訊けるかもしれない。少しでも何か判れば、優子さんにこんな酷い思いをさせた奴を………。

 思わぬ方向から気になっていた事を訊けるチャンスが巡ってきたと思った俊二は、お釣りが返ってくるくらいの仕返しを、いいや。優子に酷い思いをさせた事を後悔すら越えて恐怖を覚えるまでに復讐してやるとあらためて心に決め、優子の次の言葉を待つ事にした。


「え、じゃあ、じゃあ、それならさ、知ってるんでしょ? シュンくん、アタシの事を警察に知らせなくてもイイの?」でもね、ホントは私、私は! 私は………信じてもらえないかな、流石に。


「えっ?」待ってよ優子さん、何でそんな事を言うの? そんなワケないよ。俺は優子さんにそんな事しないよ。優子さんは事件に巻き込まれた、そうなんでしょ? 報道された内容と事実は違うに決まっているし、俺は真実が知りたいんだよ。って、どっちにしても優子さんの味方しちゃうけどさ。

 が、しかし。優子から返ってきた言葉は思ってもいなかった事だったので、途端に俊二は心の中で焦燥する。自分が優子を疑う筈がないし、優子自身から聞いてもいないのに報道された内容の方を信じるワケがないし、もしも例え報道されたそれが何らかの理由で止むに止まれず真実だったとしても、優子を見捨てたりなんかしない。優子へのそんな想いを眼前で悲しみに暮れる今にも泣き出してしまいそうな優子自身に告げたかったのだけれど、焦燥感の方が勝ってしまった俊二は心の中でそう思うだけで声にする事が出来なかった。


「シュンくんは優しいから、だからどうしようか悩んでるの? でもさ、このままアタシが居たら困るでしょ? ゴメンなさい。シャワー浴びてる時に通報すれば良かったのに。今もまだ優しいシュンくんのままなんだね、有り難う。アタシ、嬉しい」俊くんお願い、助けて! 違うの! 本当は私じゃないの!

「すぐに出て行くね。そしたら、そしたらさ、通報しやすいでしょ?」俊くん………何でこうなったのか判らないの。何でこうなっちゃったのか私にも判らないの。

「迷惑かけちゃってゴメンね」俊くんお願い、私どうしたらイイのかな。俊くん、助けて………。

 心の中にある本音とは裏腹に、優子は俊二に努めて微笑みながらそう告げた。いいや、告げようとした。けれど実際には涙が溢れ、零れ、声は震え、更には弱々しく、表情も声色も態度もどれもこれも優子二至るその全てが悲しみに沈みきっていた。


「ねぇ、ユウコさん………何があったの? 報道されたとおりなんかじゃないんでしょ? 何に巻き込まれたの?」

 そんな優子の優しい覚悟を目にするに至り耳にするに至り、俊二は焦燥して言葉が出ない不甲斐なき自分自身を心の中で罵りつつ、兎にも角にもまずは優子を安心させようと努めて優しくそう返した。優子の覚悟を眼前にして漸く、俊二は冷静さを取り戻す。けれど勿論の事、まだ見えぬ優子の敵への怒りは冷静さを保つ自信がない程に沸々と煮えたぎっていた。


「えっ、信じてくれるの?」

 優子にしてみれば思ってもいなかった俊二からの言葉に、優子はおもわず声が弾んでしまった。自分の身に起きた悪夢のような恐怖はまだ過ぎ去ったワケではないと思ってはいるのだけれど、だから俊二を身代わりにして危険な事に巻き込むつもりは少しもないのだけれど、それでも俊二への想いがどうしても俊二を頼りにしてしまう。無我夢中となってついついこの部屋を訪れてしまった事もそうなのだけれど、優子にとって俊二という存在は未だそういう存在のままだった。


「うん、勿論だよ。って言うか………どっちにしてもユウコさんの味方しちゃうけどね」優子さんに安心せてもらうのが最優先ではあるけど、情報がないと動くに動けない。怖くて無我夢中だったとは思うけど、思い出させちゃうのは申し訳ないけど、何かヒントになる事でもイイから聞けたら………。

 俊二は努めて、再びの微笑みを見せる。そして、今後の自分の行動を模索しようともする。優子にとって未だ頼りにしてしまう存在である俊二は、その頃よりも格段に成長している。その成長の仕方にある種の特異性はあるものの、非現実的な状況を体験してしまった優子には吉となるそれだったかもしれず、俊二は今その片鱗どころか全貌を優子の為だけに表に出そうとしていた。


「シュンくん………シュンくぅーん!」

 俊二に信じてもらえているという事がはっきりと判って感極まった優子は、嬉しさが溢れると同時に幸福感に包まれ、殆ど条件反射かのように俊二の胸に飛び込んだ。元々が至近距離で対面している状況だったのだけれど、その勢いはそれを考慮しておらず、故に俊二をベッドに押し倒すような形となって重なる。

 

「うっ! おわっ………と、ユウコさん?」

 優子に勢いよく抱きつかれた俊二は、以前の記憶から直前になんとなくその予感を覚えたものの対応に遅れてしまい、優子を受け止めてそのままベッドから転げ落ちそうになった。の、だけれど。優子からの挙動の結果としてであっても優子に痛い思いをさせるワケにはいかないと、床に下ろしていた左足を中心に全力で踏ん張った。そしてなんとか、辛うじてなんとかベッド上で二人、重なるという状態に落ち着く。


「シュンくん………あっ、ゴメンなさい!」

 俊二の胸の中で俊二の温もりを感じながら、優子は暫し俊二に甘えてしまおうかと、なんなら以前のようにこのままいっそと、そんな邪念を抱いたのだけれど、置かれている立場はそんな状況ではないという事を思い出し、そんな身勝手な自分を恥じて俊二に謝った。けれど、俊二から離れるという選択肢は見ないフリをして、このままの状態でいる事にした。故になのかそう決めた際の一瞬だけ、いいや。刹那だけ、優子の表情が邪なそれに変わる。


「大丈夫だから、ね? 落ち着いて?」

 優子が抱いていたであろう緊張感のような恐怖や孤独さから少しは開放されて漸く安堵したのかなと思った俊二は、それ程までに怖い思いをしたんだろうと優子の現状に胸が痛くなった。そしてそれと同時に、優子をこんな思いにさせた何者かへの怒りが更に更に込み上げてくる。

「落ち着こうね………うん、落ち着こう」

 の、だけれど。自分の胸に飛び込んできた際に優子からバスタオルが外れてしまっていたので、見ようと思えば確実に見える状況となっていた。つい先程も浴室前で見たのは見たのだけれど、見えたのは見えたのだけれど、見てしまったのだけれど、忘れるワケがないのだけれど、更に言うならその時に既に優子を抱きしめてもいるのだけれど、再びのこの状況に俊二は条件反射的に特にとある一部分が反応してしまいそうになっていた。なので、落ち着こうねと告げたもののそれは自分に言い聞かせる面が強かった。勿論の事、優子がこんな時にそんな事を思ってしまう自分を戒める為に。


「うん………ゴメンなさい」

「よし。じゃあー、深呼吸」

 邪な感情に従おうとした事を反省する優子と、邪な感情を抑える為に空気を変えようとする俊二。出発点は異なるものの、着地点はお互いの事を想っての事であるのは違わない。

「うん………判った」

「ひーひーふぅーっ」

 言われたとおり素直にそうしようとする優子と、更に空気を和やかにしようとする俊二。その表現方法も、やはりと言うべきか異なる。

「え、それだと産まれちゃうよぉー!」

「な、なんと、身に覚えがあるとか?」

 途端に以前の二人に戻ったような感覚になり、その頃の関係性のまま現在に至るかのような素振りに柔らかくなる。

「ないから! シュンとだけだもん!」

「え、いやそ、の………そうでしたか」

 の、だけれど。ここで優子が自爆する。そして、俊二は反応に苦慮する。何故ならば、俊二には身に覚えがなく、優子も勿論そうだ。そんな事は二人が充分に知っている。なのでつまり、優子は俊二を想いながら自分で………つまるところ、自爆だ。が、しかし。これもまたその頃の二人そのものな空気感だったりする。


「え、あっ! 違っ! わないけど」

 反射的に否定しようとしたのだけれど、そして殆ど一緒に居たようなものなのにいつどこでそんな事をシテいたのだろうとか思われていないかなと不安を覚えたのだけれど、こうなったらいっそ否定しない方が想いの強さが伝わるかもという考えが浮かんだ優子は、けれど恥ずかしさもあって俯きながらそう告げる。


「自爆しちゃうトコ、変わんないね」

 優子によるその自爆発言の内容に嬉しいという思いを抱いたものの、懐かしさがどんどん込み上げてきて幸せな気持ちになっていた俊二は、そう言ってそのまま以前の大切な記憶を懐かしむ。


「うう、うっ………責任取ってね」

 決して嫌というワケではかったのだけれど俊二にマウントを取られた事を悔しく思いながら、逆転でイニシアチブを取り返そうと、そしてあわよくば現在の気持ちを窺おうと、優子はそう返して反応を見ようとした。


「イイよ。オレなんかででイイなら」

 それに際して俊二は、そっくりそのまま優子へのの想いを乗せてはっきりとそう告げた。けれどそれは今後の計算という邪念はなく、ただただ素直に想いを表現したものである。


「え、ホント? ホントにイイの?」

 期待してはいたものの呆気ないくらいにはっきりと受け止めてもらえるとまでは思っていなかった優子は、俊二の言葉を受けて途端にその期待を大きく大きく膨らませた。


「うん。だから、ほら。聞かせて?」

 けれど、でも。邪念がない分だけ天然でもある俊二は優子のそんな期待をまるで判っておらず、そして察する程の自信もなく、なので結果として受け止めたようで受け流してしまったような返答をしてしまう。


「う、うん。えっ、と………ね」

 そんなある意味では罪深い俊二に靄がかった気持ちでいっぱいになりがらも、優子は現実に引き戻されたかのような感覚になりつつ、けれど俊二の言うとおりにしようという従順な想いで我が身に起きた顛末を頭の中で整理した。

「アタシ、どうしてなんだか判んないんだけど急にね、急に逮捕されちゃって、それで、それでね、有無を言わさず連れてかれたの。でね、そしたら車の中で、証拠は揃ってるんだぞって言われて………でも、でもアタシね、何も知らないの。何の事を言ってるのかも判んないの」

 そして、どうしてもセットで思い出してしまう恐怖に寒気を覚えながら、自分なりに詳細に俊二に話し始めた。


「うん」誰かにとって都合が悪い何か重大な事を見たと思われたのかもしれないね。

 と、思いながら。俊二はスイッチを切り替えるような真逆さで考察する。


「でもね、でもね、そしたらその途中でね、急にバッて襲われたの。それでね、それで、警察の人達がその、もっと怖そうな人達に、その人達って3人だったんだけど、その人達にね、その、何か、映画とかみたいな感じ、っていうか信じてもらえないかもしれないけど人間じゃないみたいな感じで、引き裂いたり、潰したりとかして、それで、それで警察の人達が、その、こ、こここ、ころ、こ、殺されちゃって、だっ、だから、アタシね、その、凄く怖くって、で、無我夢中で逃げたんだけど、だけど、だけど、だけどね」信じて、お願い。俊くん助けてって、何度も何度も叫んだんだよ私………。

 俊二に話しながら、優子は。その話しぶりがどんどんと速くなっていく。まるで溢れるように。零れるように。次から次へと思い浮かんでくる恐怖体験の顛末を、整理しようと努めてつつも溢れ零れるままに話し続ける。


「うん」まず、警官に変装したヤツ等が来て、次に違うヤツ等が来て、それで優子さんの取り合いになって、かな。どちらかにとっては都合が悪く、どちらかにとっては交渉のカードになる?

 静かに聞きながら、俊二は。まずは知る限りの組織のうちから候補を導き出そうとしていた。そして、近々で関連性のある事件はなかっただろうかと更に思考を深めていく。


「その途中でね、男の人にこっちだって言われて、動転してたからついてったらいきなり襲われて、抵抗したんだけどダメで………」凄い怖かったんだよ? その時も、俊くん助けて! って、何度も何度も、何度も何度も何度も叫んだんだよ?

「それで、その、服とか、ズボンとかを無理やり、脱がされて………アタシ、凄い怖くって、あっ、で、でね、それで、その、あう、う、気がついたら、おも、ら、し、を………」

 言い出して、言いかけて、言い終えて。羞恥の気持ちがだんどんと膨らんでいく。失禁という事態は事後であれもう既に俊二には周知済みの事なのだけれど、それでも相手が俊二以外であるという事実は優子にとって羞恥であり、勿論の事それは屈辱でもあった。


「そっか………」そいつはたぶん、この事件には直接は関係ないヤツかな………でもその男、後で見つけて絶対に殺してやる。

 と、物騒な事を決断しつつ。俊二は優子が負った傷を思って胸が苦しくなる。


「そしたらね、そしたら、そしたらその人が、それに気づいて離れて、汚いから………だからね、アタシ、無我夢中で蹴ったの。そしたらね、何か、急所に当たったみたいで、だからそれで、服だけ掴んで走って、破れちゃってたけどでも下着だけだったから、だからそれを着て、それで、それでね、その………ここまで、逃げてきたの」俊くんしか思い浮かばなかったから。だって、だって私、今でも俊くんの事………。

 今にも溢れそうになっていた涙が、優子の両の瞳から零れて頬を真っ直ぐに流れ伝う。所々を嗚咽に遮られながら、それでも優子はなるべく詳細に、健気にもあからさまに、身に起きた顛末のみを俊二にありのまま伝えようとした。


「うん………」未遂。そっか、とりあえずは良かったね、優子さん………でも、優子さんを傷つけた事に変わりはないから殺す。絶対に殺す。百歩譲って殺さないにしても相当の、いいや。譲らない絶対に見つけ出して殺す。

 未遂と判って取り敢えずは、ほっ。と、安堵したものの。やはりと言うべきか優子の傷を思うと腹わたが煮え繰り返る程の怒りが沸々と込み上げてとまらなくなる。なので俊二は当然と言えば当然の事、第一優先でまずはコイツからという意思を強くしていった。


「走って逃げてる途中でね、そう言えばシュンくんとアタシのお部屋………えっと、その、此処の近くだなって、気づいたから………」って、本当はよく来るんだけどね。訪ねる勇気はなかったけれど、でも、偶然とかで会えるかもしれないから。だから、会えますように、って………。

 涙で視界が曇るのを忌々しく思いながら、これではいくら視線を這わしても俊二が見えないと恨めしくも感じながら、優子は何度も何度も自身の手で指で拭う。そして、この部屋のドアが開かれた事によって再会を果たす機会となったそこまでを話し終えた。


「………うん」優子さん、かわいそうに。

 身体のあちらこちらに傷を負い、とんでもなく怖い思いをさせられて、それでもなんとか此処へと辿り着いた優子を、俊二は心の底からそう思った。


「ゴメンなさい………」俊くん、ずっと此処に居たんだね………そっか。郵便受けの名前の欄が空白になってたから、お引っ越ししちゃったのかなとか思ったりもしたけど、こうしておもいきって訪ねてみたら、もしかしたらもっと早くに………。


「気にしないで。あっ、ゴメン!」きっと優子さんは、こっちの世界に迷い込んじゃったんだね。苦い水だらけのこっちに………。

 そう思いながら。ここに来て漸く失態に気づいた俊二は、慌てて優子にタオルを渡した。涙を拭う為の何かを手渡すという気遣いが手遅れと言っても過言ではないくらいに遅れた事を後悔しつつ。


「ありがと、えへへ………でも、こんなのさ、迷惑だよね?」さっきは責任取ってくれるって言ってくれたけど、やっぱりそんなの冗談だよね? もう私との事なんて、さ………過去の思い出でしかないよね。

 俊二からタオルを手渡しされた優子はそれを嬉しそうに受け取ると、そのタオルで覆うようにして顔を隠した。そして、俊二からの返答は何なのか怯えながらそう訊いた。


「「………」」

 暫し、沈黙が続く。


「よし、判りました!」あの時は不甲斐なくて守るどころか大変な事になってしまって、だから優子さんに悲しい思いをさせてしまったけど、今度こそ必ず優子さんを守ってみせるからね………。

 暫しの沈黙の後、俊二は力強く優子にそう告げた。沈黙していたのは熟考していたワケではなく、俊二にしてみれば答えは一つ。悩む事すらなく優子の剣となり盾となる一択しかない。

「とりあえず、ユウコさんは暫く此処に居てもらってもイイ?」まずは、外の様子とか確認してみようかな。

 沈黙していた理由は、これからの行動について浮かんでいた考えを頭の中で整理する為。そして、その考えとは勿論の事。優子を傷つけた全ての奴等に対する、倍返しとまころでは済まさない報復だ。


「えっ?」と………イイの?

 心の奥では、やはり。それを強く、そして深く大きく期待してはいたものの。これもまた、やはり。俊二の返答に驚いて顔を上げる。そして今の今まで顔を覆っていたタオルを両手に乗せたまま、顔を上げて俊二を見つめたまま、優子は込み上げてくる嬉しさに身体中が火照りを覚えてくるのを感じた。


「さて、と。怪我の手当ては一応のところ終了したし、後は、あっ、そうだ。お腹とか減ってる?」まだ彷徨いてるかもしれないし。聞き込みしてみたら案外と、すぐに………って、流石にそんな簡単にはいかないか。そこら辺をまだ彷徨いてくれてたら楽なんだけどなぁー。

「それとま、暫く眠る? 疲れたでしょ」

 努めて明るく、そして優しく。優子にそう訊きながらも、俊二は頭の中でこの先するべき事としたい事に意識を向けていく。


「シュンくぅん………うぐ、ひんっ」私、ヤバいかもしれない。嬉しくてまた泣いちゃいそうだよ。

 そう思いながら。幸せな思いに身を包まれた優子は、この視界から外すものかとばかりに俊二を見つめ続ける。


「………ん?」あれ、優子さん?

 そんな優子に気づいた俊二は、何故だか幾ばくかの危機感を覚えた。なので、瞬間的に身に力を入れて構えるに至る。


「シュンくぅーん!」抑えらんないよぉー!

 待て。から、良し。と、告げられた賢い犬のように。と、表現してしまうと些かの可愛さもあるのだけれど。実際は攻撃に転じたかのような勢いで、優子は俊二に跳びかかった………いいや。俊二の胸に飛び込んだ。


「えっ、ちょっ、ユウコさん?」いやその、痛いっす優先さん怖いっす………って、緊張の糸が解けたのかな? うん、そりゃそうだよな。相当キツかった筈だもんね。

 突然の挙動に白旗降参の意を表明してしまう寸前になりながらも、俊二はそう思い直してすぐそう納得し、優子の心情を慮るように受け止め、そして受け入れる。


「シュンくぅん! シュンくんホントにありがと!シュンくぅーん、シュンくぅーん!」大好きだよ俊くん! ずっとずっと、ずっと大好きなままなんだよ? 私、私もう、このまま………二度と離れたくないよぉー!

 俊二の胸で、優子は子供のように泣き噦る。


「えっと、いやあのそ」優子さん………こんなに苦しめたヤツ等、絶対に許さないからな。絶対に見つけだしてギタギタにしてやる!

 と、優子を傷つけた奴等への報復への気持ちを滾らせてはいたものの。

「の、ユウコさん。あのさ………」

 実のところ優子に抱きつかれた際に、その勢いの激しさからなのどろう優子の身からバスタオルが完全に剥がれてしまっており、つまるところ優子は全裸だった。なので密着している状態とはいえそれでも、いいや。だからこそ見ようと思えばはっきりと見れてしまう箇所が存在するワケで。

「取り敢えず、さ………」

 と、名残り惜しくはあるものの。この期に及んで目的変更して目眩く桃色の世界へ突き進むワケにもいかず。

「まず、何か着ようね。風邪ひいちゃうから」

 そう告げるしかなく。


「ふえっ、へっ? あっ!」

 甘えるモードに突入しかけていた優子も、俊二の誘いによって現実に引き戻される事になり、そして漸く事の次第に気づき、露と晒しきっていたその身を慌ててバスタオルで隠す結果となり。

「シュンくんのバカぁー!」

 羞恥の心からなのか、何故だかそうなるワケで。


「え、そんな………」たしかにお利口さんじゃないけどさ………どうしてなの?

 なんだかあの頃に戻ったみたいだなぁー、と。そんなふうに思う俊二だった。


 ………。


 ………。



             第2幕 終わり

             第3幕へと続く

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