第1幕/Take a Mark

 もう、死んでしまいたい………と、いう衝動に直結してしまう程ではないのだけれど。それほどの絶望感で目の前が真っ暗になってまではいないのだけれど、それでも。こうして生きていくのは辛い………と、いう感情に精神が苛まれているのはたぶんきっと間違いない。テレビ番組を観ている際にふと笑っている自分に気づいても、まだ私って笑えるんだと安堵する事はもうなく、笑えている自分を意外に思う自身しかいない。もう今は作り笑顔さえどうやってするのか判らなくなるくらいで、それなら作る必要なんてないのではないかと、どうせ私なんて受け入れてはもらえないのだからと、そんなふうに卑下してしまう毎日を生きていたりする。アンタなんかより大変な人はもっともっと沢山いるし、けれど懸命に生きている人だっているんだよ。と、判ったような表情で言う人がいるだろうけれど、そんな人達にとっては残念な事に、待ってましたとばかりにそう言うだろう人すらも私の周りにはいませんし、そもそも愚痴を溢せる人もいません。そして、その逆もいません。私は独りぼっちなんです。たぶんきっとこれからもそれは、変わらずそのままでしょう。はたして私は、せめて夢という空想の世界くらいはその住人として謳歌しているのでしょうか? 目覚めてしまえば何もかも忘れてしまっているその中で、私は私という私を満喫しているのでしょうか? それともただただ、三大欲求であるところの睡眠を貪っていただけなのでしょうか? それならば、と。それを思い出してみようと努力してみても、残念ながらと言うべきか不思議な事にと言うべきか、やっぱり何一つ覚えてはいないかのように思い出せない。そうなのかそうでないのかが判然としない。そもそも、私は只今就寝中の身なんですと自覚した事が一度もないくらいなので、私自身の事なのにそんなハッキリとしない漠然とした夜という時間を、たぶんきっとだからこそなのでしょう無自覚に消化し続け、その過程を経て朝と形容される時刻を否応なく迎えるのでしょう。これからも、ずっと。予め、昨夜という名の過去の内にタイマーなる装置をセットしておいた目覚まし時計のベルの音で、なんとかかんとかどうにかこうにかやっとこさで起床する。そして、その後になんやかんやの身支度をもそもそと行い、いそいそもといもたもたと部屋をあとにし、とてとてと出勤してのたのたと仕事に勤しみ、その日の業務を終えたらたらたらと退勤の準備にとりかかり、済ませるや否やとてててと帰宅する。その途中で最早行きつけと言っても差し支えない程に利用しているコンビニエンスストアに立ち寄って夕食の為の買い物をして、誰も居ない自宅にのそのそと無言のまま立ち入り、熱めのシャワーをさらさらと浴びた後、帰宅途中のコンビニで購入した食事をただただ黙々と済ませつつ、なんとなくその日のTV番組を時折ザッピングしながら観賞して過ごす。そうして暫し益体なく時間を浪費した後、明日の為にそろそろ眠ろうかななんていう味気ない理由でもぞもぞとベッドとシーツの間に潜り込み、その夜もまた目覚まし時計をセットして、その夜もまた同じようにうつらうつらと就寝する。以下、ループ傾向。所謂ところの変わり映えのしない、刺激的な事なんてない、劇的な事なんてない、そんな毎日を抗う事なく生きていく。私ではない他者には伝わりにくいかもしれないへんてこりんな擬音の数々はさておいて、ですけど。何はともあれ。兎にも角にも。このようにいつもの一日を文章にして表現してみると、途端に味気ない日常と化す。その日その日には少なからずな程度には感情の起伏があったであろう筈ですし、味や匂いや歯応えのない時間ばかりを悪戯に過ごしてきたというワケでもないでしょうし、酸素を頂戴して二酸化炭素を撒き散らしていただけという毎日でもない筈なのに、つまるところ時間を無駄に消費していたワケではない筈なのに、です。それでもあえて書き残しておくべき事はなかったのかしら? と、記憶を探ってみたところで結局は一切と表現しても差し支えないくらいに何一つ見当たらず、一秒を繋げて一分にしてみても更に繋げて一時間にしてみても、更に更に一日にしてみてもその区切りの集合体であるところの毎日にしてみたとしても、思い出せる何もかもが何もかも何ら変わらない。だからなのでしょう、日記はもうずっと空白のまま。あえて書き残したとしてもページのそれこそ無駄遣いで、今日も同じで何にもありませんでした。と、いう一文のみが続く事になるでしょう。そんな、ある意味で言えば奇蹟的ですらあるのかもしれない日常の風景。こうして時間を割いて思い出してみたところで、やっぱり特別な出来事なんてこれといって見つけられず、たぶんきっと隈無く探せたとしても見つからないのでしょう、そんな毎日。刺激的で劇的な物語のキャストになるなんて事が紙一重でも何でもなく起こり得ない、気配すらない、かと言って起こしてみる気持ちはないという、平和で平凡で平坦で味気ない、けれど安穏とした生活。これも、また。一つの幸せの形なのでしょうか? 充実しているかどうか………それはそれとして。趣味と言える程に強い関心を抱く事や若しくは抱く物なんてないし、恋人とか連れ合いとかそれどころか友人さえいるわけでもないので、休日になると暇を持て余してしまうのだけれど、元々が人付き合いが頗る苦手なタイプなので、独りは案外と苦ではなかったりするし、寂しいといった感慨を稀に抱いたとしても酷く気になるという程ではない。そんな毎日、そんな時間、そんな瞬間の集合体が、これから先も繰り返し繰り返し同じように流れていけば、その先にもあるのでしょう未来という不確定な時間に到達した時に私は一体、何を思うのだろうか? なんて、そんな哲学もどきチック気味仕立て傾向風味きまぐれサラダ的な戯れ言の如き問答で、たかだか人が一人でしかない自らを演出する気はないし、深く考えたりする気も全くもって更々ないのだけれど。けれど、きっと、たぶん。だからこそ、なのでしょう。このままでも良いかもとも思っている。決してこのままがイイのではなく、このままじゃないとダメというワケでもなく。夢や憧れや願望は少なからず持っているのだけれど、諦めという劣情も小さくはないくらいの大きさで持っていたりする。故になのかどうなのか、なるべく有利な妥協点を探して有利な妥協案を提示しないとプライドが傷つくなんていう事もない。だからなのでしょうか、そうであるからなのでしょうか、私には幾つもの矛盾があります。幾つもの矛盾を内包したまま、もしかしたら無気力に生きています。理由なく生き長らえ続けているんです。実のところそれは本心を言い訳とか屁理屈で隠そうとしているからなのでしょうけれど、そして隠そうとしているそれは決して小さく萎んではくれないのだけれど、諦めという気持ちがその分だけ体積を増して膨らんでいる気配がして………私という存在の内側にある思考やら感情やらを司る脳やら心やらといった構造というか概念はもしかしたら、凄く屈折された形で身体という身代わりであり一代限りの代用品に隙間なく収納されているのかもしれません。その証拠をあえてこの場に恥も外聞もなく提示してみるとすれば、御伽噺のあれやこれやに対する私の個人的感想がそうかもしれません。例えばマーメイドという物語で言いますと、ラストで泡となって消えてしまうのは作者が当時の身分社会の弊害みたいな最もらしい言い訳を用意していたのかどうかは別にして、ただ単に人魚と人間が無理なく結ばれる為に必要な良い案が考え浮かばなかったからなだけなのではないの? と。もっと言ってしまうとするならば、実のところ物語なんて愚痴とか憂さ晴らしで書いた戯れ言日記みたいなモノだったのに、それだけではどうにも収まりが効かなくなって誰かにぶつけたくなって、けれど自尊心的に格好悪いからそういった自己顕示欲をある程度は自粛して、そしてある程度を包み隠してその上で、フィクション色を強くしてみましたって感じなのでは? とか、そんなふうに感じてしまうんです。そう思ってしまうんです。それは例えば諺でもそうです。三度目の正直に、二度あることは三度ある。七転び八起きに、七転八倒。等々。こんなの言い訳する用意が満載のエセ占い師と変わらないのではないか? とか、ね。何はともあれ兎にも角にも私のメンタルという存在はこんな有り様で、自分自身でも引いてしまうくらいにかなり捻くれた捉え方をしていたりします。しかもそれは思い返してみると、ローティーンの頃からだったりするかもしれず。もしかしたら、幼児期体験あたりで性格設定における何かこう決定的な体験でもあったのでしょうか? そういうトラウマはないのだけれど、身に覚えがない事なのだけれど、冷めていらっしゃいますねと言われた事がありますし、何を考えていらっしゃるのか判りませんとも言われた経験があります。変わっていらっしゃいますねと愛想笑いで言われてきた過去だって持っている身です。それも、もうすっかり慣れましたよあははと両サイドの耳が飽き飽きするくらいに、です。所謂ところの個性というヤツを他者に押し付けようとしたつもりは全くありませんし、ただ単に意見を問われたから素直に声にしましたってだけだったのに、それだとしても決まってと言いきっても差し支えないくらいにそう言われてしまうという事は、どうやら私は不特定多数の側の人間ではないのでしょうと自覚せざるを得ないのだけれど、けれども。しかし、です。そのように自覚する事によって困った事になってしまったぞと感じた記憶はないのものの、それでも理解してもらえない寂しさはその度に感じていたという記憶ならたしかにあります。だから、です。きっとそういう心情も孕んで人は不特定多数の側に居ると安心するのかもしれません。そして裏腹に、個性的と思われたいという願望が欲求にならないように、そして自分自身から言い出さないように、バレないように潜めたつもりでいるのかもしれない、と。そんなふうに思うようになって………これもまた、捻くれているからなのでしょうか。自身を無個性と自覚するのも思われるのも実のところは凄くイヤなのだけれど、個性的な人を否定する事で常識人という立ち位置もキープしておきたい、みたいな感じでしょうか? こういう考え方なんかはやっぱり屈折している証拠の一つなのかもしれないのだけれど、兎に角にもそのように結論づけてしまう事で私は、人間という生き物に期待する事を諦めるようになっていったように思います。それは勿論の事、自分自身に対してもそうでしたし、それどころか自分自身に対しては特にそうでした。それはそうしないといつまで経ってもがっかりしてしまうからで、いつになってもそれに慣れなかったからで、その度に傷になってしまったから。痛い。切ない。悲しい。苦しい。それがイヤだから、心に何個も鍵をかけ、更に厚い壁を作り、その上で作り物の笑顔を貼り、自分自身に対してまで本心を偽る。彩りをなくす。消す。誤魔化す。そして、それを他者に対し演じ続けなければならない億劫さを避けようとして、なるべく独りでいようと更に心を閉ざしていく………。独りで生きていくのは実のところ難しいのだけれど、独りで暮らすのはそれほど難しい事ではない。しかも、それなら傷つけられる確率は小さくて済むし、傷つけてしまう事なんて殆どない筈です。この町で暮らそうと決めてからの私は、この町にある学校で教師として働いていた過去の数年間とは違う毎日を意図的に、そして作為的に、ある意味では自虐的に自覚した上で選びました。更に遡ってそれ以前の自分自身についても、遠い遠い過去として歩んでいけるようになろうと思っていました。そう、思ってはいたんです。けれど私には、忘れたくない人がいます。今もまだ、どうしても忘れられない人がいます。だからこそ、けれど、せめて此処で………。本心が私を、今日もまた苦しめる。

 坂木優子。さかきゆうこ。サカキユウコ。それが私の名前。職業は音楽教師。この町には、今でも愛して止まない人が住んでいました。そして、その人との思い出が沢山あります。この町で暮らすようになってまだ僅かな時間しか流れていないのだけれど、平凡で、平和で、穏やかで、無味無臭で、刺激なんて皆無といった環境。そんなたぶん普通の日常であるといえる風景を、そういった毎日を私は此処から始めて、そしてここで終えようと決めました。大好きなあの人を想い続けながら。忘れたくないのであれば、忘れられないのであれば、思い出の世界で生きよう。共に生きた証がある中で、その空間で生きていこう。そう思ったから。だから、そうしている。故にこうしている。夢に見てしまう事は何度もあるでしょうけれど、そんな時は良い夢を見たと喜ぼう。何も期待せず、望まず、挑まず、ただただ、ただ、流されていく。現実から逃避する事なく、思い出の世界を生きていく。それでイイんだ。これでイイんだ。


 ………と。


 そう思っていたのだけれど。思ってはいたのだけれど。幸運にもと言うべきなのか。不運にもと誤魔化すべきなのか。私の身に起きたそれはたしかに、トラウマになってしまうかもしれないくらいの恐怖でした。けれど、それがトラウマになるという事はありませんでした。それどころか、幸運だと表現する程の事になりました。私の神経が太かったからではありません。勿論の事、慣れているからでもありません。そんなの当たり前です。私はただの音楽教師なんですもん………。



 ………。


 ………。



「シュンくん………」閉じられたドアを暫し見つめていた私は、自身がどんどん安堵していくのを感じていました。俊くんの優しさがとても嬉しくて、俊くんに会えた事がとてもとても嬉しくて、表情が自然と和らいでいったんです。だから、俊くんに言われたとおりにしようと浴室側へと振り返ったその途中、洗面台の前に掛かっている鏡に自身の姿が見えました。

「ううっ」自分で言うのも何なのだけれど、痛々しいまでに酷くぼろぼろで、見える範囲の身体の殆どは泥塗れという有り様。そろりと服を脱ぐと、あらたに顔を出した身体には痣や擦り傷がこれでもかとまとわりついている。

「痛っ………」脱ごうとする度に当たって痛みを誘発されつつも、それでもぼろぼろのそれを洗面台に置き、次に下着をと手をかけたその瞬間、つい先程我が身に起きた恐怖が再び脳内に浮かび上がる。

「ひんっ」それをすぐにかき消したくなった私は、洗面台の蛇口を左に大きく回して強めに水を出すと、痛みに構わず下着を脱ぎ、そして手洗いし始めました。そうする事で、恐怖の記憶を共にして少しは消えてくれるかもしれないと思ったからです。



 かちゃっ。



 と、その時。

 ドアが開く。



「ん、え? ええっ!」

 開けのは俊くん。


「えっ?!」開けられたのは私。



「「………」」

 両者、暫しフリーズ。



「あああわあのえっとえっとそのゴゴゴゴゴメンなさい! ももももうシャワー浴びてるっと思ってたからそそ」

 俊くんとしてはきっと既にもう私がシャワーを浴びる為に浴室内に入っているだろう頃を見計らって、その間に着替えをこの洗面及び脱衣所にさりげなく置いておこうと入ってきたつもりだったのでしょうけれど、予想外に私がまだ洗面台の前に立っていたので、しかも全裸だったので、かなり慌てながらも事情を説明しようとしてくれました。


「ああああのえっとえっとえっとねそそその、下着とかよよ汚れてるっ、から、えと、だ、だからそっ、そそ、そのままだと汚しちゃうとか思ってそそそれで、それで、その、手洗いしようかなとか、思って………」私も俊くんの事は言えません。俊くんによる事情説明はまだその終わりを見せてはいなかったのだけれど、俊くんに今の私の裸を完全に見られてしまったという恥ずかしさが今の今まであった恐怖に上乗せされ、更にはその恐怖を覆い隠し、羞恥の心で背中を向けました。そして咄嗟にお尻を両手で隠す事で焦燥の気持ちを少しでも和らげようと試みながら、伝えるという努力は皆無の説明を被せるようしてしまいました。

「あっ、あう、う………」けれど、でも。そうしてみても鏡によって丸見えだという事にすぐに気づき、鏡に映る自身と目を合わせる事でそれを確信した私は、すぐさま俯いて視線のみを逸らしました。全てを隠すには手が足りないが故に、せめてこの状態で目と目が合うという恥ずかしさだけでも避けようと。


「ユウコさん………」

 そんな私を見るに至った俊くんは、前に踏み出すや否や私を、くるり。と、自身の方に向けて、そして優しく抱きしめてくれました。


「シュン?! く、ん………」その途端、私は胸が高鳴るのを覚えました。恥ずかしさは依然として強く感じているものの、それでも俊くんへの想いの方が勝ったようで、高揚感が身体中を駆け巡る。


「オレの目を見て。見つめ合ってれば、大丈夫でしょ?」

 この至近距離でお互いに瞳を見ていれば、私が恥ずかしいと思う箇所は全く見えないからという意味なのでしょう、俊くんは私に優しくそう言いました。


「でも、でも、汚れちゃうよ?」こんな至近距離で俊くんに見つめられたら、別の意味で恥ずかしい事態になっていますけど………と、思いながらも。私はそう返しました。決して忘れはしない想い出。忘れられるワケがない記憶。終わりを迎えるしかなかった過去。その数々が、身体中の至る箇所を刺激して止まない。


「うん。でも、それでもイイよ。だって、ユウコさんだもん。それに、この傷とかの方が心配です」

 私のそれであれば汚くはないという俊くんの優しさに面した私は、どんどん身体が疼いていく。不埒なものです。続けられる俊くんの優しさに幸せを感じつつも、想い出の数々が身体の疼きを増幅させていく。


「はう、う」そう言えば俊くんに見られちゃうのって初めてじゃないんだよね、私………と、想い出の数々のうちのその部分のみ拡大されていきつつも、いつだって俊くんは優しかった、と。悪酔いしちゃって大変な事になった時だってそうだった、と。わんわん泣きすぎてお化粧がぼろぼろになっちゃった時だって、そうだったと。こんな不埒な私の脳裏にも、そんな幸せだった頃の想い出も浮かんでくる。けれど結局のところ、そんな大切な記憶もすぐに不埒な私に絡め取られてしまうのだけれど。


「あのさ………ユウコさん?」

 私が身勝手にも不埒な事を思いそしてこれもまた身勝手に興奮していく中、言うべきか言わざるべきかどうしようかな、とでも思っているような口ぶりで俊くんが私を呼ぶ。


「あうっ、ははははい!」俊くんに裸を見られちゃったのって何年ぶりかな………と、過去を振り返りつつも、もしかして私だけ勝手に興奮しちゃっている事が判ってドン引きしているのかもしれないと、私はここにきて漸く自身の不埒さに焦燥する。


「あの、ね。一つだけ言ってもイイかな」

 なんだか俊くんはやっぱり言うか言わないか迷っているといったふうで、だから私は間違いなくバレていると更に更に焦燥していくのだけれど。

 

「えっ、うっ、うん」こうして抱きしめられたのだって………と、不埒さは私からなかなか離れてはくれない。本当は私、俊くんと別れたくなかったんだよ。ずっとずっと、ずっと傍に居たかったんだからね。だから俊くん、このまま私を………。


「シャツとか下着とか浴室に入ってから脱いでさ、それでそのまま浴室に置いておいておいても良かったし、手洗いするなら浴室で洗っても良かったのに」

 現実に引き戻されたようです、私。


「えっ? とぉ………そ、そう、だよね」俊くんから正論を頂戴した私から、すっかり不埒さが消える。それどころか、フリーズしかねないくらいの動揺がわき上がってくる。だってそれはそうでしょう、たしかにそのとおりなんだもん………凄い恥ずかしいかもしれない。


「そういう天然なところ、変わってないね」

「てっ、てん、ね、よ、養殖なんだもん!」


 イタズラっぽく微笑みながらイジワルな事を言う俊くんに、そう返しつつ。あっ、何だかあの頃の私達に戻ったみたい………と、懐かしさを覚える。


「あ、ウソつきさんだぁー」

「う、ううっ、違うもん!」


 あの頃は幸せだったのに………戻れるなら戻りたいよ、こんな毎日に。


「えぇー、ホントに?」

「………ゴメンなさい」


 俊くんはどう思ってるのかな………。私は今でもアナタの事を、俊くんの事だけをこんなにも想ってるんだよ?


「ううん。着替え置いとくね」

「えっ、あ、うん。ありがと」


 あの頃みたいにこのまま二人で、なんて事。あるワケがないよね………。



 ぱたん。



 言うや否や、俊くんはそそくさとこの場を後にする。そんなに急いで出て行かなくてもイイのに、と。まだ僅かに残っていた恥ずかしさを棚に置いて、けれど何も出来ないまま私は、俊くんの背中を名残惜しく見つめ続ける。当然と言えば当然なのでしょうけれど、あの頃よりも身体つきが逞しくなっていた彼のその背中は頼もしさを存分に語っていて、どうしても身体が疼いてしまう。私はずっと望んでいました。彼に抱かれる事を。だからずっと、後悔していました。教師としての倫理観なんて、あの時棄ててしまえば良かったのに、と。当時まだ生徒であった彼は、教師でもある私を気遣う優しさの方を優先して、最後の一線を越えてはくれないままだった。そして私も教師と生徒という倫理観によって、私の方から最後の一線を越えようとする事が出来ないままだった。そのまま続いていけたらいつかは越えたかもしれないのだけれど、その前に私達は引き離されてしまったので、だから私は未だ未経験のまま今日に至る。教師と生徒という立ち位置は私にとって身体の繋がりを望んではいけないという弊害でしかなかったのかもしれないのだけれど、そんな関係がその分だけ心の繋がりをより深くする事になったんだと思う。私は教師を辞めるという選択をしないまま、そして彼は生徒のまま、私は教師と生徒という年齢差に不安を覚えながら、そして彼はそんな私をいつだって優しく包み込んでくれながら、決して誰にも気づかれてはならないという秘密の毎日を育んでいました。私にとって彼は、彼という存在は、唯一無二なんです。彼以外には考えられないんです。だから私は、今もまだこうして………。



 ………、


 ………、


 ………、



             第1幕 終わり

             第2幕へと続く

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