彼は私の最強手札

野良にゃお

序 幕/Warming up

 ぴぴぴぴ♪ と、過去が過去となった今ではそれはあまりにも有り難迷惑でお節介な仕事ぶりでしかないのだけれど、過去がまだ現在だった頃にセットしておいたいいや今となってはしてしまった目覚まし時計のアラーム機能がその役割を果たしている。たぶん、待ってましたオイラの出番ださあさあご主人様起きてくださいな昨夜交わした約束どおりこうして実直にそして勤勉にアナタ様のお役に立たせていただいておりますぜぇー♪ と、ばかりに。もしかしたら今日も今日とてまだ、オイラに舌打ちされるという理不尽な仕打ちが待っているにもかかわらず、有り難うなんて言ってもらわなくても構いませんよ水くさいなぁーなんて、有り難うという言葉と気持ちを裏腹に今日こそはと期待しているかもしれない。なんとなく、なのだけれど。アンタが教えろ言うからこうしてシャウトしているんですよ、だからアンタのせいなんだから、なんて。そんなやさぐれた心情を形にしているとは思えず、例え邪険にされても甲斐甲斐しくなついてくれるペットのような、つまるところ、いやはや。毎度毎度、クソ真面目な性格でいらっしゃる………がるる。これこそつまるところの、そして真理でもあるところの、昨夜の僕のバカヤロぉおおおー! と、今朝も同じ境地に達する始末。昨夜の僕と今朝の僕、どうやら今日も今日とて別人のようです。

 それもまた、いやはや。なのだけれど。記憶として脳に収納し、そしてその脳で認識している過去が、その時は現在として存在していたというたしかな証し。若しくは名残り。或いは足跡。これは僕の軌跡であり、僕の記録である。と、そんなふうに表現してみるとなんだか幾ばくかの感慨深さを覚えなくもないのだけれど、まだ眠りの森の住人としてその世界に片足どころかほぼ全身がどっぷりと浸りきっているつまるところ、完全なる寝ぼけ眼のむにゃむにゃさんな僕は、ただただ一刻も早くこの邪魔でしかないアラームを止めて、更には即座に二度寝に入ろうという作業にのみ意識を奪われている。豪華な食事を満喫しようといただきますした直後に、ぴぃーんぽぉーん♪ チャイムが鳴りました来客です、みたいな感じかな。相も変わらずと言いますか、既にもう何年もの歳月を費やしているというのに、それなのに未だ慣れる気配は皆目見当たりません。一向に見受けられません。ナポレオンさんの有名なセリフという触れ込みであるところの我輩の辞書に~ってのを拝借したいくらいに、もしかしたらハナから実在しないのかもしれません。少なく見積もってみたとしても、ここ一ヶ月は起床時間が図らずも一定しているというのに、それなのにこの有り様です。因みに、この先も暫くは時間の変更は予定されておりません。はたして僕は、いつになったら慣れるのでしょうか? と、言うよりも。寧ろ慣れるという事が僕が持つ基本スキルとして定着して、あの頃の僕は恥ずかしながらなんともヒップがブルーな子供ちゃんだったんだよねぇー、あはは。と、笑い話に変わるような。そんな毎日がこの僕に授与されるなんていう未来は、はたして本当に訪れるのでしょうか? 現時点でその可能性は………ゼロ、ではないかな。二度寝への底知れぬ欲求と闘いながら、僅かばかりとはいえちゃんと起床しなければとも思っているのだから。成長、いいや。進歩しているんだろうね、残念な事にその歩みは頗る鈍いけれど。ヤルじゃん、僕。って、それは兎も角としましょう。

 むくり。と、ベッドから身体を離して、ふらり。そしてまた、ふらり。と、反復横跳びならぬ反復斜め跳びのような、けれど著しく緩慢なそれで、漸くといった感じで、若しくはどうにかこうにかといった風体で、或いはやっとこさといった動きで、ある意味では贅沢な時間の使い方とも言えなくもない所業で、なんとか寝室を出る。自分自身でこんな事を言うのも何なのだけれど、我が事ながらまるで危機感のない姿です。船旅の最中の激しく揺れる船室とか、千鳥足の酔っ払いさんとか、そんなコントに出る事になったのでその練習をしています的な、勿論の事寝起き直後です的なコントならそのものずばり、みたいな。我が事ですから見れませんけれど、それでもあえてこう表現しよう。これはもうすっかり見慣れた光景です、と。そして洗面所に向かっているつもりなのに何故かしら壁に頭を、ごっつんこ。はい、ここまでがデフォルトです。更に言うとするならば嫌々ながらも起きようとしてベッドから、どすん。なんていう事態も、スペシャル・サンクスとして登場したりもします。って、どこをどう間違えてもサンクスだなんて思いませんけどね。いやほんと、自分自身でも呆れてしまうくらいに朝に弱い。頗る弱い。著しく弱い激しく弱い悲しいかな弱い。いつまで経ってもそんな朝の自分よりも、目覚まし時計のアラーム機能をセットしやがった過去の自分を恨むくらい弱い。そのくらい弱い。もう、やんなっちゃう。って、そう自覚しているのならば、どうして僕は夜ではなく日中のお仕事を選んだのだろうか………バカなのかな。

「ま、お利口さんではないか」ゆっくりではあるのだけれど、それでも徐々に徐々に明朗となりゆく脳内でひとまずの答えが出たところで、ぽつり。最早これもまたお決まり事のような自虐を呟く。けれど、まだ。ぴちぴちの二十代です。頑張れ、僕。自分へのエールってのは、実のところ結構な程度で重要な事だと思います。「ぺこり?」ま、それも兎も角として。そんなこんなで身支度を済ましますと、それでやっとこさ通勤の章に進みます。よし、れっつごー。見慣れたというにはまだまだ早すぎるであろう景色を視界に収めながら、約一ヶ月前に新しいバディーに指名した自転車クンで移動する事、凡そ小一時間くらいかしら。と、いったところでしょうか。途中で何度か信号に捕まったりとか、必ずと言っても決して大袈裟ではないくらいに毎回毎回踏み切りに捕まったりして、イライラ。と、なる以外は然したる事なく勤務先に到着します。踏み切りについては、いつも同じような時間に通るから捕まる確率はそうではない時よりも断然高いのが当たり前なのだろうけれど、でも。何と言いますか………ブレないよねぇー、日本の鉄道会社さんは。ま、それもさて置きましょう。次の章は、勤務先について。ですからね。

 そう、僕の勤務先。つまるところ、僕が今のところ携わっている仕事。加えて言うならば、その内容。それは、ずばり。もしかしたらあえて、犬や猫などの捜索しか請け負っていないのかしら? と、疑いの目いいや同情の念を向けてしまいそうになるくらいに犬や猫の捜索依頼しか来ない、そんな小さな小さな探偵事務所。の、探偵さんの一人。そんなにいなくなるものなの? と、いうくらいに今日も今日とてワンちゃんやネコにゃんの捜索に明け暮れているのさ、あはは。この国は………って、実のところ僕が産まれそして育った所謂ところの出身国なのだけれど、それはそれとしてこの国は稀に見るくらいに基本的に治安の良い平和な平和な国なので、一ヶ月くらい前まで生活していたとある某あの国のような感じではない。もっと言えば、当然と言い切ってしまえるかの如くテレビやムービーで繰り広げられるような事は警察が一手に引き受けているし、軍隊が出動するような事なんて滅多に起こらない。出動するような事と言えば、もう半世紀も過去になるくらい以前に勃発した戦争の際に敵国の戦闘機が放ったらしき不発弾が偶然にも見つかりました、とかいう時くらいのものだ。そういう事実をふまえて考えてみれば、実のところワンちゃんとかネコにゃんに限らない所謂ところのペットの捜索や、見慣れない聞き慣れない響きですねというくらい忘れた頃に依頼が来る浮気調査など、つまるところそのような仕事しか入ってこない事こそが普通の事なのかもしれない。この国はまさに、平和だなぁ………って。更に掘り下げると十五歳になるくらいまでは住んでいた母国であり、一ヶ月くらい前から住み始めたこの町は地元だったりもするのだけれど。それなのに、十年ほど離れていただけで僕の中のスタンダードはこの母国ではなくなっている。これこそまさに、十年は一昔だという事なのでしょうか。なんて、僕が経験した約十五年とその後に経験した約十年を比べるのは、少しばかり違和感を併発する事態を招くのだけれど。だって、僕の約十五年はたぶんきっとある一点を除いて普通だったのだけれど、その後の約十年は普通ではなかったのだから………ま、そのあたりも今は兎も角としておこう。

 何はともあれ、だ。この探偵社に勤務して探偵さんとして捜索やら書類整理やら何やら所謂ところの業務というヤツをこなしていると、こなしていなくてもそうなるのだけれどやがて太陽は西の方角に消えかけ、すっかり様変わりしていたとまでは言わないけれどそれでも見慣れたとは言えなくなっていた町を、朝とは逆に進んで家路へと向かう。向きこそ前進なのだけれどなんだか巻き戻ししているかのように、何処へも立ち寄る事なく、何気なく道を変えてみる事もなく。勿論の事、今日こそはと意気込んで立ち寄る事も変える事もなく。けれど、記憶に残っている風景が所々ぼんやりと、更には色褪せてもしまっているからなのだろうか、それとも十年という年月がこの町の色を形を姿を違和感程度には変えていたからなのだろうか、新鮮という表現は流石に大袈裟としても、行き帰りに見る景色をまだそこそこ楽しめてもいたりする。きっと、竜宮城から帰ってきた浦島太郎さんがその視線の先にある視界に見た故郷の風景くらいの変化だって、人間という生き物が存在する限りにおいては、浦島さんほどの永い年月を待たなくても有り得たりするのかもしれないね………あ、でも。

「逆もまた然り、かも」しれない、と。そう言えば。子供の頃にテレビや映画やマンガや小説や妄想などで見た未来の風景って、それが近未来だとしても既に見上げれば空が殆ど見れないくらいで、高層ビルだらけの隙間を縫うようにリニアモーターが走っている感じだったのに、実際のこの現実は今のところそうなる気配すらないよなぁー。と、ひねくれた性格だと自負しているつもりはないのだけれど、逆方向にカテゴライズされるような事が思い浮かんできたりもして、やっぱり僕は壊れているのかもしれないとあらためて自覚するのだった………まる。

「それとも、完?」なんのこっちゃ。例え壊れていなかったとしても、壊れかけてはいるんだろうね。壊れかけているってのは壊れているのと一緒のような気もするのだけれど、結局のところこういうのって戯れ言でしかないのかも。答えを導く為に自問自答しているのではなく、僕が今でもまだこの想いをそこに残しているという、ね………センチメンタル? ううん。まだピリオドを打ててはいないのだから、たぶんきっと違うと思うよ、うん。と、これは間違いなく自問自答。けれど、これこそが正解という答えは未だ見つからない。故に、この先もきっと何かしらの折りに触れてふと自問自答を繰り返すのだろう。けれど、それはその時にあらためて悩もうか。どうせ、その時になる度にこうして悩まざるをえないだろうから。つまるところ、今日はこの辺で。と、いうヤツだ。

 そんなワケで。そんなこんなで帰宅すると、まずはシャワーを浴びて汗を流し、カップ麺にお湯を注ぐ。待機時間は凡そ五分。記憶に残らないショーをただただテレビ画面に晒しつつ、記憶に残っている想い出に溺れないよう音を取り込む。そして、音を取り込みながら麺を体内へと流し込む。その間、数十分といったところだろうか。当然と言わずとも当然のように、いつかは流し込み終わる。けれどその後も時間は流れ続けていき、寝るとしようとなる。現在という時間は現在という名称を得てすぐ、あっという間もなく過去となり、いくつもの未来も刹那にも満たない現在を経て過去となり、やがてまた、ぴぴぴぴ♪ と、その日の始まりを告げる実直で勤勉な鐘が鳴る。

 そんな毎日を、繰り返すかのように生きていく………筈だった。の、だけれど。そんなルーティンと表現しても差し障りない毎日が崩れたのは、いつもの今朝を終えていつもの一日を過ごし、いつもの一日を過ごすつもりで帰宅し、麺を流し込んでいた時の事だった。テレビから漏れていた音が、ぷつり。と、途切れた。まるでそれが、これから僕に起きる事の始まりの合図だったかのように。不意に気づいたのではなく、意図的に気づかされたかのように。偶然ではなく必然的に違和感を覚えさせられ、これは有無を選べない予め決められた運命だとでも言うかのように、僕はこの物語の登場人物の一人となる。そして、心の準備をする暇なんて与えてくれる事なく、猶予なんて考えてくれもしないまま、僕は重要人物つまり主要キャストとして動き始める。けれどこの物語は例え僕に有無を選択する余地があったとしても、必ず有の方を選ぶに決まっていると見透かされているようなそれで、だからたぶん運命と表現するよりも宿命と呼ぶべきそれなのかもしれない。その方がなんとなく、そう。なんとなくなのだけれどしっくりくるような………いいや。そうあってほしいとまで願ってしまいそうな、今にして思えば始まりから既にそんな始まりだったかもしれない。


 物語は進む。


その始まりが始まりとして僕を取り込んでから僅か数秒後、テレビから再び音が漏れ始めると、その音の質感はそれまでのそれとは、がらり。と、あからさまに変わっていた。


《番組の途中ですが、ここで緊急ニュース速報をお届けします。今朝九時頃、東京都北区の国道十二号線沿いにて、警察官の恰好をした三名が何者かの手によって殺害されるという事件が発生しました。目撃情報によりますと、その三名は北区在住の坂木優子さんを連行を装って拉致しようとしたらしく、その際に使用された車の方も警察車両に偽装されたものであるとの事です。仲間割れによるものなのか、或いは複数のグループによる争いなのか、詳しいところは現在のところまだ判明しておりませんが、警察官を装った三名を殺害した何者かにも拉致されてしまった可能性が強いと思われる坂木静香さんは、現在もまだ行方不明でその消息を掴めておりません。警視庁では、この坂木優子さんが何らかの事情を知っているのではないか。若しくは、何らかの事件に巻き込まれたのではないか。と、現在捜索中との事です。この事件に関わる人物が、近くに潜伏している可能性も考えられますので、近隣の住人の皆様は充分ご注意ください。繰り返します。番組の途中ですが、臨時ニュースです。》


「え、ユウコさん?!」覚えた違和感の正体が臨時ニュースによるものだったからか、と。合点がいった僕は、そのニュースに興味を持つ事なく聞き流していたのだけれど。その速報の序盤も序盤で早くも、完全にフリーズしてしまった。思考を続けられなくなった。実のところそのニュースで取り上げられていた事件そのものについては、つい最近まで携わっていた仕事を思えば慣れているといって差し支えない事だったし、それこそ携わっていなくともそんな事は日常風景だと思ってしまうくらい治安の悪い国に居を構えて生活していたので、平和な国とはいえ起こらないというワケではないんだなぁーなんて、他人事のように聞き流してしまう類いの事だった。僕が今こうして住んで暮らしている此処がその東京都北区であっても、所謂ところの近隣の住人の皆様の内の一名であっても、そのような事はそんな事として全く気にならなかった。あえて言うなら、お気の毒に。と、それなりのお悔やみの感を覚えながらそう思うくらいの事だった。の、だけれど。思考がフリーズするに至ったのは、そのとるに足らない事件に登場したキャストその人によってだった。その名前を耳にした事によって僕は暫くの間、呆然となってしまったのだ。最初は、聞き間違いかと耳を疑った。若しくは、ただの同姓同名なだけなのではないのかと思った。と、言うよりも。そうであってほしいと思っていた。けれど画面に映し出された顔写真は、完全に見覚えのある女性だった。そしてそれは、決して忘れるワケがない人だった。だから、決して見間違える筈のない人だった。



 拉致された、だと?

 巻き込まれている?

 殺害が絡む事件に?


 どうして?!



「そんな………」と、ぽつり。フリーズから暫し後。漸くという感じで、驚きのあまりおもわず出てしまうに至った声を零した。その人には似つかわしくない、そんな言葉の羅列。僕は頭の中を整理しかねてフリーズするに至ったのだけれど、それでも少なくともその身は命の危険に晒されている可能性がかなり高いという推測を描き出してはいた。導くに至ってはいた。結局のところ、それによって更にフリーズする事態に陥ってはいたものの。

「ユウコさんが?」僕が知る限りにおいて。では、あるのだけれど。その人であるところの坂木優子さんは、特殊な非日常の中に身を置いた生活をしている女性ではなかった。僕が知っている何年か前の過去で言えば、彼女は中学校の教師である。だから。と、いう程には何の根拠もなかったのだけれど、それでも。だから、そしてたぶん、現在も。何処かでその職についている筈だと思っている。それなのに、だ。その優子さんがあろう事か、殺人事件に関与している………いいや。速報のニュアンス的に言えば彼女は、何らかの理由で関わってしまったと言うべき事態に陥っている。その身は大丈夫なのだろうか。怖い思いをしているのではないだろうか。もしかしたら今、まさに今、更なる大変な事態に、危険な状況に陥ってしまっているかもしれない。

「そんな………」脳が様々で色々な空想を造り出し、そして身勝手に描き出す。しかも、詳細に。無慈悲にも、残虐に。有り得ないくらい、救いのない形で。まるで、あの国にいた時のように。心配と不安が一緒くたに混ざり合う事であらたに生み出された濁った不快感が、それを抱くに至った僕に際して決して小さくはない声を零す。混乱。愕然。焦燥。動揺。そのどれもこれも全てが等しく、強い自己主張を繰り返している。情報が足りなさ過ぎて、どうする事も出来ない。故に、如実にイライラ感が加味されていく。トゲトゲとモヤモヤを内包した暗闇。それ等に激しく覆われていく。それ等が激しくまとわりつく。どうすればイイ? 何をすればイイ? 僕に何が出来る? 優子さんを今すぐにでも救いたい! 一刻も早くそんな悪夢から解放したい! 優子さん………。

「………っ!!」気がついた時には既に立ち上がっていた、そんな状態だった。それは意識していなかったという事なので、だから定かではないのだろうけれど、気づくと僕はうろうろとしていた。そわそわもしていたし、ざわざわともなっていた。まだ食べかけであったカップ麺の容器は倒れており、中身がダラリと零れている。

「まさか、だよね………」フリーズから暫し後。漸くという感じで、驚きのあまりおもわず出てしまうに至った声を零した。僕からしてみればそんな事なんて今はどうでもイイ。満喫している場合ではないし、満足している場合でもないのだから。やはり僕は、優子さんが絡んでいるとどうしようもなく冷静ではいられないようだ。そういう意味で言えば僕は、あの頃と何一つ変わっていない。感情が理性を完全に凌駕している。外に出て彷徨いてみようか。ここでおたおたしているくらいなら、いっその事動いてみるべきではないか。と、さまざまに思考を繰り返す。不幸中の幸いだなんて言葉で現状を表現する気はなかったのだけれど、実際のところ好都合にも事件はここら辺りで起きている。殺気立った何者かがここら辺りを彷徨いてくれていれば、捕まえて事情を聞き出せるかもしれない。情報を聞き出せるかもしれない。そして、それによって運良く優子さんを発見すれば、更には助ける事が出来るかもしれない。と、思考の先に希望的観測が辛くも繋がる。けれど、それにしても。すっかりのびてふやけている食べかけのカップ麺の残骸に視線を向けながら、けれどカップ麺に意識を向けているワケではなく、ただただその姿勢で固まったまま、僕はこれから自身がとるべき行動を考え続け、真剣に巡らせ続けていった。すると………。



 ぴんぽんぴんぽんぴんぽぉーん。



「ん、あれは、えっ?」それは奇蹟なのか、それとも偶然なのか、或いは運命の悪戯というヤツなのか。兎にも角にも、誰かしらの来訪を告げるチャイムが鳴った。しかも、独特の間隔を空けたチャイムが三回。すぐさま気づいてしまえるくらいに日常的で、すぐさま思い出せるくらいに普遍的だった、懐かしい合図と同じリズム。僕は躍り出るかのように、玄関へと駆け出した。そうであってほしいと願いながら。そんなワケがないとも思いながら。僕は落ち着きなく玄関へと急ぎ、その勢いそのままにドアを開ける。そしてこの日二度目のフリーズ、それを僕は経験する事となる。


 優子、さん!!


「ああああの、さ………」

 僕の視線の先にある視界には、つまるところ僕の眼前は。ぼろぼろになり果てたジャケットのみでなんとか肌を隠し、そして俯いている状態の優子さんが、涙で肩を震わせながらも、それでもなんとか立っているといった状況の優子さんの姿が、完全に独占していた。まさか、こんな形で叶うなんて。と、僕は少ししてそう思った。ドアの前で俯いたまま震えながら泣いている優子さんを視界に捉えた僕は、その女性が間違いなく坂木優子その人であると認識したその途端に、どくんどくん。と、胸が高鳴った。そして、懐かしいと形容するまでに過去となってしまった大切な記憶の数々が、瞬く間に脳内を埋め尽くす。すると、そのどれもこれもは懐かしいという形容が全く似合わないくらいの鮮明さであった。つまるところ僕にとっては、色褪せる事がない程に大切な過去なのだろう。が、しかし。その高鳴りは勿論の事、すぐさま心配という思いに変わる。そして同時に、こんな優子さんを前に再会を喜んでいる自分を恥じる。

「どうしたの、そ、っ」僕は続く筈の言葉に詰まってしまった。その様相は、上は赤地に黒の縦縞が入ったタータンチェックのジャケットのみ、下は白の下着のみ。しかも泥か何かで至る箇所汚れており、所々が無惨にも破れており、ジャケットのボタンは殆どが引き千切られたかのように取れている。更に、確認できる範囲で言えば手の甲や膝あたりが痛々しく擦りむいており、長い黒髪は乱れ、たぶん失禁したのだろう下着が濡れており、筋となって汚れを落としたのだろう足元まで及んでいる。きっと露出していない箇所も、アチコチが泥塗れ傷だらけなのだろうと容易に推測する事が可能といった有り様だ。そんな痛々しい姿の優子さんが、右手で裾を下に引っ張り、左手で右腕の肘あたりを掴む事でなんとか肌の露出を極力隠そうとしながら、僕の眼前すぐ先で震えながらそして泣きながら立っているのだ。


「うぐっ、えく、っ、ひんっ!」

 優子さんは嗚咽と共に、びくん。と、強く震える。その身に何が起きたのかを彼女自身に訊くまでもなく、かなり危険な目に遭遇してきたばかりだという事を充分に、そして存分に、更に言えば雄弁に物語っていた。


「まずは、中に入ろう。ね?」愕然とはなってしまったものの、今は状況把握よりも状態改善を最優先すべきだとすぐに思い直した僕は、優子さんを室内へと促す。


「ひぐっ、イイの?」

 何の質問もする事なく室内へ通してくれようとした僕に驚いたのか、優子さんは戸惑いを見せた。けれど、その声に嬉しさが込み上げてもいるようだった。


「え、あっ、うん。そ、勿論だよ。ほら、早く早く。ね?」僕は優子さんからの問いに同じ言葉を繰り返しつつ、外の様子に気を配る。と、同時に。耳に残るその懐かしい声に胸が苦しくなる。それが悲しい声だっただけ、強く。


「シュンくん………ひんっ」

 僕から優しさと温かさを感じたらしい優子さんは、少しばかりの安堵を見せながら中へと入った。と、同時に。耳に届くその懐かしい声が胸を締め付けた。それが、いつだって心を穏やかにさせてくれた声だっただけに、強く。


「とりあえず、シャワー浴びた方が良さそうな感じだね」ドアを閉めて鍵をした僕は、浴室へと向きを変えながら努めて優しく話しかける。優子さんは僕を、俊くん。と、呼んでくれていた。それもまた、懐かしさが込み上げてくる。望月俊哉。もちづきしゅんや。モチヅキシュンヤ。それが僕の氏名。現在のところ探偵家業見習い中の、元バウンティーハンター。それが、僕だ。


「でもアタシ、その………っ」

 それは兎も角として。僕の促しに際して優子さんは、ドアを閉じる事が可能なトコまでは歩み出たものの、そこから先。つまるところ玄関から先へは進もうとしなかった。躊躇している、そんな様子だった。


「どうしたの?」なので僕は、そうするに至る理由を訊く。


「あう、う、アタシ、そ、その、汚れてる、から、ひんっ!」

 と、ぽつり。不自然な間を置いた後、優子さんは答える。そして、それによってつい先程その身に起きた恐怖が脳内で再生され、顔が羞恥で歪み、収まりかけた嗚咽が再びその勢力を拡大する。


「え、あ、そ、それは気にしなくてイイから、ね? だからとにかく、そのまま上がりなって」あ、なるほど。と、僕自身が先に見せるべき気遣いのなさを反省しつつ。それによって床が汚れるなんて事を気にしなくてもいいし、そんな事は気にならない事でもあると、だから何も言わずに上がってくださいと、今度はそれが判るように声をかけた。


「でも、アタシ、そ、その、あ、あう、お、おもらし、うぐっ」

 けれど、優子さんは声の震えを増していく。優子さんの性格を思い出すに、僕に避けられたらどうしようという不安感、それがあらゆる不安感の最上位に表れているようだった。


「うん。でも、そういうの気にしなくてイイから上がりなって、ね?」けれど僕にとって、優子さんのそれであるのならば汚いとは少しも感じない。なのでやはり、努めて優しくそう言って再び促した。


「シュンくぅん………」

 再度の促しに漸く顔を上げた優子さんは、優しく微笑む事を選択している僕を見て再び安堵したようだった。そしてたぶん、僕と同じように。僕との記憶が次々に浮かび上がっては脳内をどんどん埋めているようでもあった。


「まずは、シャワー浴びちゃおうよ。着替えと薬、用意しとくからさ」それはそれとして、優子さんの置かれている状況も心配だった僕は、これからの事を脳内で冷静に思案しつつ更にそう促した。


「うん………ゴメンなさい」

 暫しの沈黙の後。そう小さく答えた優子さんは玄関を入ってすぐ左手にある浴室まで、とぼどぼ。と、力なく向かった。のだけれど、くるり。その途中で立ち止まると、僕の方へと向き直る。


「………?」そんな優子さんの意図を計りかねた僕は、どうしたのだろうかと不安になりながらもそのまま待ってみようと判断し、ただただそんな彼女を見つめた。


「後でちゃんと、お掃除するね」

 きっと、自身の恥ずかしすぎる失態によって玄関と廊下を汚すに至った事を申し訳なく思ったのだろう、優子さんはそう言う。


「ん? あ、そんなの全然イイから。だからほら、早くシャワー浴びてきなってば。だからほら、早く。ね?」優子さんのそういう気の遣い方はあの頃と変わっていないなぁーと、思い出しながら。僕は努めて優しくそう言い、そして微笑んだ。


「うん………ありがと」

 と、ぽつり。同時に、こくり。と、頷きながら。優子さんは安堵したのか嬉しそうに呟く。


「あっ、その、あのさ、染みるかもだけど、なるべくゆっくり温まって。それで少しは落ち着くから。ね?」僕はそう言って再び微笑むと、優子さんを浴室へと優しく促し、さてそれではリビングに向かいますかと思いながら、ドアをゆっくり閉めた。



 ぱたん。



 ………、


 ………、


 ………、



             序 幕 終わり

             第1幕へと続く

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