第10話 佐藤さんの異動の話
“青天の霹靂”という言葉は、“思ってもいないところに驚くようなことが起きた”という意味だ。そんなことは一々他人に教えてもらわなくたって俺でも知っている。
俺にとって佐藤さんとの日々は毎日何が起こるかわからなくて、まさにこの言葉の通りの日常だと……そう思っていた。
だけど、そんな厄介だけど楽しい生活は“霹靂”なんて言わないと……二月のある日、思い知った。
いきなり飛び込んできた噂は、信じられないという思いと信じたくないという気持ちを同時に生み出した。
事の起こりは昨日の夕方。別に場所を差別するつもりはないが、よりによって支店のトイレの中だった。
俺が用を済ませて手を洗おうと身を翻したところで、同じ営業部の塩崎さんが入ってきた。
「お、鈴木!」
「あっ、どもっす」
ついさっきまでオフィスで顔を合わせていたんだから、会釈以上の挨拶はいらないと思うんだが……向こうがわざわざ名前まで言うのだから、こっちも一応声に出して軽く頭を下げた。
だが塩崎さんは単にすれ違ったから挨拶したんじゃなくて、ちょうど会った俺に用があるようだった。近寄ってきて声を潜める。
「なあ鈴木、今朝小耳に挟んだんだが……」
「今朝、ですか?」
先輩はいきなり不思議なことを言い出した。
何が不思議って、塩崎さんの机は俺の隣だ。単純に距離で言ったら隣のシマの佐藤さんより近い。そして二人とも今日は一日中デスクワークだったから、話しかける時間は今までに六時間ほどあったのだ。
なぜこの時間までほっといたのか? 俺が不思議に思ってるのが伝わったのか、塩崎さんは更に声を落とした上に入口の方まで他人がいないか確認した。
「いや、他に人がいるところじゃ訊きにくかったんだよ」
「はあ……?」
なんの話だと俺も幾分身構える。しかし塩崎さんの話は俺の心構えなんか軽く吹き飛ばしてくれる内容だった。
「なあ……佐藤さんが異動だって、本当か?」
今までその可能性を全く考えなかったのは、あまりに俺が馬鹿だった。
うちの会社では早ければ二、三年。遅くても六、七年で転勤が発生する。俺と佐藤さんが組んでから二年弱だから、俺の入社前から佐藤さんがここにいるなら異動の辞令はいつ出てもおかしくない。
営業部は得意先との顔つなぎもあるので、その他の部署に比べれば一ヶ所にとどまる期間は長くなるって話だが……でも実際に二年で異動している人もいるので、長期間同じ部署にいられるなんて保証はどこにもない。
俺は新人教育が終わってこの支店に営業職で配置されてから、ずっと佐藤さんと一緒にやって来た。だから漫然と、この日々がずっと続くものだと思い込んでいた。この前“俺もそろそろ一人前”なんてふざけたことを考えていながら、指導係がずっと一緒に居てくれると思い込んでいるとは……本当に馬鹿すぎて、不甲斐なさに涙が出てくる。
そんな具合だから俺も異動の話なんて全く聞いていない。塩崎さんも「佐藤さんに内示が出たらしい」と一言だけ噂で聞いたので、気になるけど大っぴらに聞けないから俺に訊いたのだという。
「佐藤さん、そろそろなんですか?」
「わからない。ただ、辞令が出てもおかしくないからな。あれだけ成績がいいんだぞ? 勤務評価を考えれば、支社の直轄か本社の特販に栄転しても全然不思議じゃないだろ?」
「それはそうですね」
全社の営業部員には当然ランク付けがある。中央に近くなればなるほど期待のエリートだし、扱う仕事も大きくなる。むしろ佐藤さんが一支店で個人商店に頭を下げて廻っているのが不思議なぐらいだ。
「佐藤さんが抜けたら痛いからなあ……」
塩崎さんが不安そうに顔をしかめる。ペアを組んでいる俺以外からも惜しまれるとか、そんな場合じゃないけど佐藤さんの評価が高いことがちょっと嬉しい。
「やっぱり佐藤さんが異動しちゃうと痛いですか」
「そりゃそうだよ。おまえ見てないのか? 佐藤さんは一人で支店営業部のスコアの三割を叩き出してるんだぞ」
わが支店の営業部は、佐藤さんを除くと十四人。
「……残りの平均が五パーセントって、レベルが違い過ぎませんか?」
「その一人がおまえだ」
塩崎さんじゃないが、話を聞いてしまうと噂が嘘か本当か知りたくて仕方ない気持ちがよくわかる。俺なんかペアを組んでいるんだから、余計に真実を早く確認したい。
「でもなぁ……聞けないんだよなぁ」
まだ内示だから確定じゃないし、本当に発令が出るのなら当然人事からは口止めされているだろう。そしてそれ以上に、移動するのかなんて心情的に怖くてとても質問できない。「そうだよ」なんて肯定されたら……俺、会社に出てくるのがどうでもよくなるかもしれない。
そんな俺の葛藤なんかに関係なく、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
塩崎さんに聞いてから三日間、新しい情報は何もない。佐藤さんの態度には何の変わりもないし、他の人にさりげなく異動の噂について探りを入れても聞いている人は誰もいない。むしろ「俺の噂聞いてないか!?」なんて聞かれる始末。それはそうかもしれない。対象になりそうな人は自分の事でいっぱいいっぱいみたいだしな。
……それにしたって自分が異動ならすでに内示あったんじゃないのか? もしかしたらうちの部署、アンテナが低すぎる人間ばかりかも知れない……。
例年なら三月第一週の月曜に人事通達があるそうなので、それを控えた直前の金曜日ともなると支店中がどこか浮ついた空気になった。
寄ると触ると「誰それが異動なんじゃないか」って噂をしている。自分の事はわかっているはずなので、皆が不自然に他人の話ばかり気にしていた。他所の課員は「俺の事何か聞いてない!?」なんて言い出さないので、営業部よりは頭が良さそうだ。
そんな中、佐藤さんは特に首を突っ込むことも無く飄々としていた。元々噂話とか興味が無さそうだし、プライベートな話もほとんどしない人だ。そう考えるとこの人、がさつに見えるわりにデリケートな話題には口を挟まない。
逆に俺は気になって仕方ない。
自分の事はどうでもいい。佐藤さんが異動するかだ。いや、俺の方が異動してもペアは解消になってしまうんだけど。
本人に面と向かって確認する勇気が持てなかった俺は、焦燥感でじりじりするばかり。居ても立っても居られない。そんな時に、俺はたまたま喫煙所に一人で座っている課長を見つけた。
「課長、ちょっといいですか?」
「おっ? 鈴木、タバコ吸ったっけ?」
あの時俺に声をかけて来た塩崎さんもこんな気分だったのだろうか。なんでもいいから誰か、噂のかけらでも知らないか訊きたくて仕方ないのだ。
「いや、吸わないんですけどね」
他に人もいないので、俺は腰を下ろすなり単刀直入に聞いてみた。
「佐藤さんが異動って噂が出ているみたいなんですけど……何か聞いていませんか?」
「あー、そんな話が出てるのか……」
課長も聞いてなさそうだ。
「佐藤さんが異動ねえ……そうなのかなあ……そうなると成績痛いよなあ」
塩崎さんと同じことを言っている。そりゃ、成績の三割が佐藤さんじゃなあ。
どこか遠くを見るような目で課長が考え込む。
「居てくれると助かるんだけどなあ。でも、いつまでいるのかよくわからないしなあ」
……何か、課長が不思議なことを言い出した。
そりゃ人事権は課長には無いかもしれないが、部下の話にしてはずいぶんふわっふわした言い方をしている。
「……課長、なんか佐藤さんがどこかから流れて来たみたいな……」
「ああ、うん。まあね……」
口の中でもにょもにょ言っていた課長が俺の方を見た。
「彼女、俺の部下……なのかなあ?」
「……はぁ?」
よほど聞かれたくない話なのか、課長は俺を誘って支店を出た。と言ってもこの付近に打ち合わせに使えるような喫茶店なんてない。二ブロック先の角を曲がったところにある自動販売機の前で、いい年をした大人が二人でヤンキー座りだ。隣の倉庫に大量に積んであるのに、何が悲しくて他所の自販機で自社のジュースを買って飲んでいるのか……おまけにこの自販機に入っていたの、“シャキット! 夏みかん”だよ。期間限定でもう生産終了しているヤツだぞ……担当ベンダー、どこだよ。
課長が新しいタバコに火をつけて一服した。
「いや、じつはな……おまえだから言うけどさ」
「はあ……」
「佐藤さん、
「…………はっ?」
ちょっと待って?
俺は課長の言っていることが理解できなかった。
「頭数に入っていないって、どういうことですか?」
「だからさ。本社人事部から割り振られている定員だと、佐藤さん余っているんだよ」
「そんなバカな……」
何万人もいるような組織じゃあるまいし。適当に割り振ってたら余剰人員出来ましたなんて、会社的にあり得るのか? ないだろう。
俺がそう思う事は課長だってわかってる。質問を挟む前に、課長が訥々と話し出す。
「まあ……うちの会社は各部署に部員名簿が渡されるわけじゃないから、転出転入で判断するしかないんだけどさ。俺、佐藤さんが来た時に人事通達書をもらった覚えが無いんだよね」
「でも、佐藤さんいますよね?」
「そうなんだよねえ。ある日佐藤さんがお世話になりますってやってきて、空いてる机に座って仕事を始めてさあ。人事から聞いてないけど、通達が遅れてるのかなって思ってるうちに……」
「今みたいになっちゃったと?」
「そう。メール便の紛失もある話だから、通達はどこかに紛れちゃっただけかもしれない。彼女宛の給与明細だって届いているし、忘年会の補助金申請だって通っているし。ただ、欠員が無いところに補充されてきたのが不思議なんだよねえ」
「そんな、座敷童じゃあるまいし……」
笑いかけた俺は、意外と笑えないことに気がついた。
「人員計画外の部員が売り上げの三分の一を叩きだしてる……?」
「そこなんだよね。確かに座敷童って、言いえて妙だな」
いつの間にか増えていて、違和感があるのに誰もおかしく思わない。そして幸運をもたらしてくれる……。
「……人事に確認はしなかったんですか?」
「しようかとも思ったんだけど、実際あっちには名簿があるはずなのに二年経っても何も言って来ない。それに」
課長が指に挟んだタバコが燃え殻になっているのに気がついて、携帯灰皿に落とし込んだ。
「佐藤さんはうちじゃ成績断トツで、売り上げを大きく底上げしてくれてる。下手につついて藪蛇になったら割食うのは
それはそうだ。
「……それで、おかしな気がすることには目をつぶっていると?」
「営業数値の前には違和感なんてどうでもいい話だろ?」
結局課長からも噂の真偽は判らなかった。
……その代わりに異動の噂なんかどうでもよくなるような、背筋の寒くなる話を聞いちゃったけど。
座敷童、ねえ……。
自分で言っといてなんだけど、考えれば考えるほど妙に現実味を帯びてくる。
「佐藤さんてスゴい明け透けに見えて、実は個人的な事って全然聞いた覚えが無いんだよな」
よくよく考えれば、いつも色々喋っている気がするけどプライベートな話題って出ていない気がする。仕事の話と時事ネタでほとんどなのだ。
それが普通の会社員と言われればそんな気もする。他の先輩とも、向こうから言い出さない限り家族の話なんか聞かないし。俺も実家の話や自分の趣味なんかわざわざネタに出さない。
でも佐藤さんと俺はずいぶん細かい話もするんだし、もう少し私生活が垣間見えても良いのではないだろうか? でもでも、同僚相手にそういう話題を振らない人は敢えて触れないだろうし……。
いくら考えても答えが出ない。
金曜日は、そんな風に心が千々に乱れたまま終業時間を迎えた。
このとき俺が気にしていたことは、“佐藤さんが異動するかどうか”だと自分では思っていた。本当のところはそうではなく、実は異動の事を先に相談してもらえるかどうか、つまり”佐藤さんとどこまで親しいのか”だったことに、俺は大分経ってから気がついた。
週をまたいで月曜日。
支店総務部に本社の人事本部から辞令が送られてきて、支店中が噂の答え合わせで一斉に騒がしくなった。
業務じゃないんだけどね。
どうしても気になるんだよね。
我が営業部は奇跡的に、十五人もいて一人も異動無し。
「佐藤さんは佐藤さんでも、業務の佐藤さんか」
心なしか隣の塩崎さんがホッとした顔で呟いた。
うちの支店から、確かに佐藤さんが転出になった。ただそれは我らが佐藤さん……営業部の佐藤涼香さんではなく、データ入力などをしてくれていた業務支援部の佐藤晴江さんだった。営業部は転入も転出も無しで、顔触れが変わらないことに皆がホッとしている。
……いや、ホッとしてるのもまずいんじゃね? 栄転も補充も無しってことだよね? これは支店の営業成績が本社から評価もされてないんだって、回りくどい表現で言われているんじゃないのか?
にもかかわらず異動が無くって喜んでいる辺り、このぬるま湯に浸かっているような連帯感がダメなのかもしれん。
俺もダメな営業部の一員なので、佐藤さんとまだしばらく組んでいられることが素直に嬉しい。だから本心は言えないが、今日は月曜日だけど異動が無かった祝いに佐藤さんを飲みに誘った。
「月曜日だからあまり飲めないけどねえ」
「ははは、そうですね」
それでいいんだ。忘年会みたいな飲み方をされたら、介抱する俺が困る。横を歩く佐藤さんが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「鈴木君も今日はセーブして飲むんだよ?」
「あなたに言われたくないです」
どうせ量を飲むわけにいかないんだからと、普段の居酒屋とかでなくてショットバー……は駅前になかったので、スポーツパブで軽く飲むことにした。今日はサッカーも無いので、幸い店は適度に空いている。
運ばれてきたペールエールのグラスを合わせ、軽く口をつける。わずかに減った佐藤さんのグラスを見て、俺は心底驚いた。
「佐藤さん、味を楽しむ飲み方もするんですね!」
「なんだい鈴木君、ご挨拶だな。私がまるでがぶ飲みするみたいに」
それが普段のあなたです。
しばらくたわいもない話をしていて、話が今日の異動の発表の件になった。
「実は佐藤さんが異動するって話が出ていて……」
俺は塩崎さんとやきもきして、でも確認できなくて、という話を彼女に聞かせた。さすがに課長との話は伏せておく。
独り相撲でヤキモキしていた話が結構受けた。
「あははは、それで最近挙動不審だったんだね」
佐藤さんが爆笑して、喉を鳴らしながら目尻の涙をぬぐう。そんなに面白い話だったか? これ。
「そんなに態度に出てました?」
「明らかにおかしかったよ。他の人は気づいていたかなあ……君とは二年の付き合いだしね」
佐藤さんの方から関係の深さを言い出してくれたので、俺はちょっと嬉しくなった。ちょっとしかめっ面をしてみせる。
「笑い事じゃないですよ。俺はコンビ解消かと冷や冷やしたんですから」
「ダメだなあ鈴木君は。独り立ちする気概を持たないと、この先どうするの」
「そうなんですけどね」
ひとしきり笑って、佐藤さんがエールで口を湿らせた。
「いや、実は本当に移動の話も合ったんだけどね」
「えっ!?」
俺はぎょっとして佐藤さんに訊き返した。
本当にあったの!?
あてにならない噂話を笑っていた軽い気分が吹っ飛ぶ。佐藤さんの方は驚いている俺にかまわず、朗らかに続けた。
「でも異動しちゃったらさ、気軽に遊びに来れないじゃない。だから蹴ってやったのよ」
「……遊びに来れない?」
「それに鈴木君を中途半端に放り出すわけにいかないしね!」
「そりゃどうも……?」
なんか、今……おかしな単語が混じったような。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます