第7話 佐藤さんは肉を焼く
いつになくハイテンションの様子で、総務の女の子が営業部にやって来た。香取ちゃん、どっちかっていうと騒がしいの嫌いな方なのにな。
「近藤課長っ、メール便でっす!」
「お、おう……どうした、やけにご機嫌だな?」
違和感を振りまく香取ちゃんに、受け取る課長もやっぱり引いている。
「あったりまえじゃないですか!」
鼻息荒くまくしたて、香取女史は書類を運ぶ籠の中から一目でわかる給与明細用紙の束を掴み出した。
……いや、今日は給料日じゃない。ということは……!
「賞与明細です!」
次の瞬間。
営業部の十数人が一斉に立ち上がり、拳を突き上げ雄叫びを上げたのだった。
うちの会社は規模の大きさの割に不思議なところがあって、その一つにボーナスの支給日が決まっていないというのがある。過去に微妙な決算の時に最後の最後まで出すか揉めた名残だそうだ。
「今年も無事に出たな!」
俺が入ってから夏冬とも出なかったことは無いんだけど、課長の喜びようを見るとトラウマになるぐらい出なかったことがあるみたいだ……いい時期に入社した。
なんて他人事みたいに言ってるけど、俺だって支給が確定したのはもちろん嬉しい。当然だ。入社した時、先輩に真っ先に忠告されたのが「ボーナスを当て込んで買い物をするな」だったからなー……無事に支給されて嬉しくないはずがない。
本当はこの喜びを佐藤さんと分かち合いたいんだけど、残念ながら彼女は今日ちょうど会議で支社に行っていて留守だった。
留守は佐藤さんだけではない。出張や会議でこの場にいない人は他にも何人かいて、これから本社の講習会に出かけて今日は帰らない者もいる、
そもそもの話、営業部が全員オフィスにいる方が珍しい。夏のボーナスが支給された時は珍しく全員いたからビアガーデンに繰り出したけど、今回は記念の飲み会はなさそうだ。
部署の宴会は無いけど、せっかくだしまた日を改めて佐藤さんを飲みに誘おうかな……。
俺は使い道を楽しく考えながら、昼に訪ねる量販店向けの提案資料を作り始めた。
今日はお得意先回りの件数が少なかったので、午後の早い時間に戻って来れた。
この分だと定時に上がれそうだと思いながら書類仕事を片付けていたら、終業時間の三十分前に佐藤さんが帰ってきた。
「おっ、鈴木君いるじゃん。ちゃんとフクザワさんとクイックマートさんは廻ってきたの?」
「もちろんですよ。佐藤さんは直帰じゃなかったんですか?」
「帰っても良かったんだけど、明日の朝一の書類がまだできてなくってね」
彼女の言葉に俺は壁の時計を見上げた。あと二十三分。
「あと二十三分しかないですけど」
「あと二十三分もあるじゃない」
……これが、デキる人の思考ってやつか!
俺が頭の出来の違いに慄いていると、佐藤さんが笑いながら背中を叩いてきた。
「なーんて、冗談だよ。PC持って行ったから、会議の合間と昼休みに大方作ってあるの。後は最後の確認して出力するだけ」
それでも、一時間ぐらいで作っちゃったってことですよね? 明日の朝一の分析会議、細かいデータ入れる資料が五枚ぐらいあったはずなんですが。
……いいんだ。もう解決してるんだから気にする話じゃない。
これ以上深く考えるのは止めにして、俺は席に座った佐藤さんの背中に声をかけた。
「佐藤さん、せっかくボーナス出たんだから飲みに行きませんか?」
ハロウィンが終わってそんなに経っていない気がするのに、街はすっかりクリスマスのカウントダウンに模様替えしている。店舗にとって商業的なイベントは過ぎ去ってしまったら稼ぎにはならない。余韻を惜しんでいる暇があったら、急いで次の稼ぎ頭にバトンタッチするのだ。
……十一月、影薄いな……。
「佐藤さん、どこにします?」
二人で鍋はちょっときついけど、何か温かい物がいいな。そう考えると魚メインの居酒屋は刺身とかにしたくなるからNG。だったら焼き鳥、あるいは郷土料理屋も……。
そうあれこれ考えていると、振り返った佐藤さんがよだれを垂らしそうな顔で町の一角を指さした。
「鈴木君、焼肉にしようよ!」
指さす先には“本場韓国直送! 国産黒毛和牛のみを使用しています!”と大書した、美味そうな肉の写真がデカデカと……。
矛盾したセールス文句を圧倒的な視覚の暴力で黙らせる素敵看板の店へ、俺と佐藤さんはフラフラ吸い込まれていった。
佐藤さんが目を付けた韓国料理店は八割がた埋まってたけど、幸い飛び込みでもすぐに席へ通された。
熱いお絞りで手を拭くと、佐藤さんはさっそくメニューを広げて考え始める。よっぽど食べたかったらしく、じっと視線を落として塾考している。
「どうします? 前菜とか何品か頼んで、それから肉とご飯物でも……」
と俺が言いかけたら。
いつになく真剣な顔の佐藤さんが掌を俺に向けてストップをかけた。
「他の料理はいいの! とにかくお肉が食べたい! それと米!」
……妙に殺気立ってるな。
「今日は朝もお昼も食べてないのよ。飢えてるところにボーナス出たじゃない。こんな時にちまちま酒の肴なんか食べてる場合じゃないわ」
書類を休憩時間に完成させた陰で、やっぱり犠牲も払っていたらしい。
注文を取りに来たオバちゃんに、佐藤さんは矢継ぎ早に肉ばかり六品ほどを頼んでいる。
「後はビビンバ大盛りと」
「ピビンパブは焼きと焼かないのあるよ」
「焼いてない方で。それとビール! 大!」
酒は別腹のようだ。
「ビン? 生ジョッキ?」
「ジョグ一択!」
「ウェーイ!」
なにやら意気投合した佐藤さんとオバちゃんがハイタッチしている……今のやり取りのどこが琴線に触れたんだ? 酒飲みの思考はわからんわ……。
そんなこんなで忘れ去られた俺の意見は聞かれもしなかったんだけど、まあ飢えてる佐藤さんが好きな物を食べられればそれでいいや。
到着したタン塩を網一面に敷いて、焼けるのも待たずにデカくてゴツイ大ジョッキを二人でぶつけ合う。
「ボーナス支給おめでとう!」
「ありがとうございます!」
冷たいガラスに口をつけ、泡の下から口内へ流れ込む苦み走った液体を音を立てて飲み下す。舌先じゃなくてのど越しで味わう、生ビールの重たい感触が爽快で何とも言えない。
一気に三分の一ほど飲んで一回ジョッキを置いた俺の前で、佐藤さんは丸々一杯飲み干してオバちゃんを呼んでいた。
いや、ペース早すぎだろ……。
「佐藤さん、今日は飛ばしますね」
俺が思わず声を掛けたら、佐藤さんは憤懣やるかたない顔で頬杖をついた。
「当然じゃない! 資料作りに追われてお腹は空くわ、本部長の長話はつまらないわ、眠いのに出席者が少ないから寝てられないわで今日は散々だったのよ? やっと解放されたんだから、飲まなきゃやってられないわ!」
つまらない長話以外は本部長に責任は無いのでは……?
というツッコミは無粋なので口から出さずに飲み込み、俺は二杯目が届いた佐藤さんとまたジョッキをぶつけ合った。
「佐藤さん、やっぱりタン塩は一枚ずつ食べるものじゃないです?」
俺が指摘すると、だいぶアルコールで赤くなった佐藤さんがチッチッチッと指を振った。
「薄切りのヤツは何枚か重ねて食べた方が美味しいのよ」
「それフグの食べ方じゃないですかねえ」
焼肉にも人柄が出るというか、割とマイルールが人によって違ったりする。
「鈴木君、ちゃん食べてる? お姉さん奢っちゃるから遠慮しないで食べなよ」
「食べちゃいるんですけど、佐藤さんさっきから生焼けで食べちゃってません?」
「私、生っぽい方が好きなんだよ。完全に火を通しちゃったら固くなるじゃない」
俺は中まで火を通す派なんだけど、佐藤さんは外だけ炙る派みたいだ。多人数で網を囲んだ時に有利になる人である。佐藤家は大家族なんだろうか?
「食中毒怖くないんですか?」
「そんな鮮度管理できてない店じゃ食べたこと無いよ」
違った。ブルジョワだった。
佐藤さん相手なら移動中の雑談も楽しいけど、こうして仕事を離れて酒を入れながらの取り留めない話は更に楽しい。話題も仕事関係の比率が下がって、時事ネタや映画や読んだ本の話が主流になる。自然と飲むピッチも早くなるってものだ。
「ところで佐藤さん、チョレギサラダとか取った方が良いですか? 肉ばかり食べてると美容とか健康とかアレだって言うじゃないですか」
“アレ”の単語が出てこない。俺もだいぶ酒がまわって来たみたいだ。
「せっかくの肉曜日だもの、そんなのいいよ。ハッパはサンチュ食べてるし」
佐藤さんは酔ってるんだか平常運転だかわからない。
「それにほら、肉とビールとビビンバで三角食べしているから健康にいいし」
「それなら大丈夫ですね!」
後から考えたら何が大丈夫だったんだろう。二人とも既に相当酔っていたんじゃないかと思われる。
とにかく訳が分からなくなるくらい、楽しく飲んで食べていたのは確かだった。
「ちょっとトイレ行ってくる~」
佐藤さんがふらつきながら席を立って、一人になって落ち着いた俺は頬が火照っていることに気がついた。楽しすぎて飲み過ぎたみたいだ。さすがに一回クールダウンするかとウーロン茶を取り寄せる。
届いたウーロン茶の甘く苦い味わいを堪能していると、佐藤さんと入れ替わりに戻って来たらしい隣席のオッサンの声が耳に入ってきた。
「おい、今すれ違ったねーちゃん見たか? すげえ美人だったな」
「え? それはその時言えよ!」
見ただけで自慢するオッサンと、ただそれだけのことで見逃したことに慌てる会食者。その“ねーちゃん”の連れが自分なんだと、聞き耳を立てている俺も誇らしい気持ちになるも……。
「やっぱあれかな? 彼氏とデートで、いよいよホテルに入る前にスタミナつけに来たのかな?」
「そんないかにもなヤツ居るのかよ? ワハハハハ!」
あっちも酔っているらしく、ずいぶん明け透けな会話で盛り上がっているが……それを聞いた俺の方はピシッと固まった。
そういえば、聞いたことあるな。
焼肉を共にする男女は“そういう”仲だって。
俺と佐藤さん、そう見られているのかな?
……いや、そう見えているのだろうか?
決して自分が佐藤さんに釣り合っているレベルとは思っていないけど、でも仕事のパートナーは俺なんだし、出来ればプライベートでもパートナーに……いやそもそも佐藤さんにつきあっている男性はいるのだろうか? 全く話を聞いたことがないが、それにしてもあれだけ見た目も中身もいい人に彼氏がいないなんて筈は無いし、いないなら立候補したいところだけどいるなら間に割って入る覚悟が俺にあるのかそれに佐藤さんは俺をそこまで認めているのかどうかって問題がまずあって……。
「鈴木君?」
「……はっ!?」
酔いもあって思考の袋小路に入ってしまっていた俺は、佐藤さんの声にハッと我に返った。
いかん、気にしても仕方ないことを延々と考えてしまった……今カレを密かに毒殺する方法と指輪が何号かこっそり確認する方法を同時に考えるとか、正気になってみると自分自身の闇の深さに俺は慄然とせざるを得ない。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです! ちょっと酔いが回ってたみたいで!」
そうそう、おかしなことを考えていたのは全部アルコールのせいだよ。きっとな!
「そう?」
向かい合った自分の席についた佐藤さんは、まだ飲むつもりらしく空のジョッキを振って朗らかにお替りと叫んでいる。
あらためて佐藤さんをじっくりと見てみる。
目鼻立ちの整った少しキツめの容貌が、酒が入ったおかげで少し赤みがさして目元が潤んでいる。そうすると冷たい印象を与えがちなクールな表情が和らいで、何とも言えない色気が醸し出されていた。飲んで崩れている感じはするのに、だらしないほど乱れてはいない。これは酒の強さなのか、育ちの良さなのか。
美人は得だと言うけれど……この人はちゃんと磨き上げた下地があって、そのうえで美人をやっているって感じがする。見た目だけの人じゃないんだよな。
俺がそんなことをつらつら考えていたら、オバちゃんがワゴンを引いてお替りを持って来た。
佐藤さんの前にデカいジョッキを置き、俺の前にも置き、あらかた片付いた卓上の皿を全部回収すると新しい肉と料理を並べ始め……はいっ!?
佐藤さんは大ジョッキを掲げると、陽気に食事会の開会を宣言した。
「それじゃ前菜を片付けて荒れ狂う空腹感も収まったことだし! 小腹も埋まったんでまったりとメインを楽しもうか! 鈴木君、あらためて乾杯だよ!」
「ここから本番!?」
そうだよ、これが佐藤さんだ。
磨き上げた下地の上に美人の見た目を乗せて、その上でイカレたポンコツぶりで全部ご破算にする。佐藤さんはこうでなくちゃ!
俺はやけくそ気味にテンションを上げ、佐藤さんとジョッキをぶつけて打ち鳴らした。
ふらつく足を叱咤して店から外に出ると、もう人通りも少なくなって酒の出る店以外は大方シャッターが下りていた。
まばらに歩く酔客に混じると、佐藤さんと俺の千鳥足も目立たなくなる。
「いやあ、久しぶりに飲んだね!」
「そ、そうですね……」
佐藤さんはまだまだ元気いっぱいだが、俺はもうダウン寸前だ。まっすぐに歩けないこの感覚、酒が入り過ぎているせいか限界超えて食ったせいか区別がつかない。
佐藤さん、俺の倍は飲んでると思うんだけど……。
どこかでちょっと横になりたいなんて思いながら、二人で肩を組んで支え合って歩いていると……路地の入口に、さり気にホテルの看板が出ていた。
あれです。愛する二人に大人な時間を約束する、カップル専用のあのホテルですよ。
そのホテルの古びて変色しかけた行灯看板を見た瞬間、俺は一瞬息が止まる。
酔った男女が親密に歩いていて、
今すぐどこかに泊まりたいなんて気分で、
しかも焼肉デートを楽しんだばかり。
シチュエーションが揃い過ぎている。これが前振りでなくて何だというのか!
……そこまで考えたところで、俺はいやいやと自分の衝動をなだめにかかった。
俺と佐藤さんはそんなんじゃないんだって。今まで一回も甘い展開なんてなかったんだから。もちろん今すぐ応じる覚悟はあるけど、酔った勢いでなだれ込むようなそんなことはあり得ない……。
と思った所で。
「おっ、鈴木君見て見て」
「はい?」
「こんな所にラブホがあるんだね!」
「っ!?」
この瞬間に頭を駆け抜けたのは、“向こうから寄せて来た!”とか“今だ、押しまくれ”だとかいう積極的な気持ちじゃなくて。残念ながら、“やべえ、下心がバレてる!?”という驚愕の気持ちだった。
内心を見透かされたんじゃないかとビクつくとか……俺、つくづくダメな男だな……。
意気地のなさに自己嫌悪している俺の気持ちなんか知らない佐藤さんは、「そう言えばさ」と陽気に語りだした。
「“焼肉デートをしている男女は”って都市伝説があるじゃない」
不意打ちに堪え切れず噴き出して、激しく咳き込む俺。
「どうしたの?」
「いえ、なんでも……」
たった今までその事を考えていたなんて言えない。
「あれってデマっていうか、ありえない話だよねえ」
「そ、そうですか……?」
まだ喉を鳴らしている俺が振り返ると、佐藤さんは至極真面目な顔をしていた。
「めいっぱい焼肉食べて、パンパンに膨らんだお腹を彼氏に晒すとかありえないでしょう」
真正面からピントがずれている佐藤さんのおかげで、俺も冷静に立ち直った。
「食後にそういうつもりがあるカップルは、腹いっぱい食わないんじゃないですか?」
「せっかくの焼肉なのに、腹八分目で止めるテンションってどうなの? 彼氏とホテルってそんなに大事?」
「経験のない俺に聞かないでもらえますか?」
「今度ホテルの前でアンケートを取るか」
「試飲テストじゃないんですから」
色気がどこかに飛んで行った会話をしているうちに駅に着いて、反対方向の電車に佐藤さんを乗せたところで俺の今日のミッションは無事に終了した。
ひとつわかったことがある。
ホームを出ていく電車に手を振りながら、俺は誰に言うともなくポツリと呟いた。
「……佐藤さんに告白するなら、焼肉で釣るのは止めとこう」
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