第4話 何かと戦う佐藤さん

 コンビニから帰ってきたときには、既に昼休みに入って二十分以上過ぎていた。早く昼食を食べてしまわないと昼休みが終わってしまう。

「もうこんな時間か……参ったな。あんなに混んでるとは思わなかった」

 普段外回りの途中で食べることが多いので、支店の近所のコンビニが昼時あれだけ客が押し寄せるなんて知らなかった。道理で内勤は皆が弁当を持参するはずだ。

「考えてみれば、この辺りって他に店は無いもんなぁ……」

 支店の周辺は問屋街。勤め人はいるけど住民はほぼゼロだし店舗もない。歩ける範囲にあそこしかコンビニが無いのだから、この付近の会社に勤める人間が一斉に押し寄せるのも当たり前だ。昼飯を買える店がもっと増えて欲しいものだけど、夕方過ぎたら客がほとんど来なくなる土地に新店は期待するだけ無駄だろう。


 五分前にはデスクに戻って午後の会議資料の再確認をしないといけないし、食後にコーヒーを飲んで一服しようと思ったら俺に残された時間は……実質あと十五分。

「奇跡的に秋の新作弁当買えたのに、味わってる余裕が無いな」

 うんざりした気持ちを吐き出しながら休憩室へ向かうと、廊下のデッドスペースに佐藤さんがいた。中腰というか、妙に腰が引けた姿勢で前かがみに両手を突き出している。

(何をやっているんだ?)

 俺は佐藤さんの手元を見た。


 水平に持っている傘の先端に、カップラーメンが乗っかっている。


 うん、いつもの発作だね。

 俺は関わり合いにならないように、そっと静かに休憩室に向かう事にした。業務外まで佐藤さんのサポートをする義務はないし、時間がない俺は今すぐにこの秋の新作弁当を食ってやらねばならない。

 どうせ俺のあずかり知らぬところで佐藤さんも“佐藤さん”をやっているのだから、俺もたまには彼女と関係ないところで昼休みぐらいのんびりしたい。


 しかし今日の俺は、つくづく運に見放されていたようだった。




 空腹で先を急ぐ俺の背中に。無情にも、助けを求める脳天気な呼び声がかかる。

「鈴木君、ちょうど良かった! ちょっと替わって! 手がしびれてきたよ!」

 ……わかってた。自分でもわかってたよ。俺が捕まるまでがワンセットなんだって。ちょっと泣きたい気持ちを抑えるまで数秒立ち止まり、それから彼女に振り返った。

「何をやってるんですか? 佐藤さん」

 先輩で指導係で相棒の佐藤さんを無視はできない。何より俺は、こんな頭のねじをまとめて十個ぐらい洗面所に置き忘れてきたような女に恋しちまってるんだよ……。佐藤さんより先に自分の正気を疑うべきかと思いながら、一応理由が何かを尋ねてみる。

 だけど彼女はぐらぐら揺れているカラフルなカップを落とさないのに必死で、俺の問いに答えている余裕はなさそうだった。

「早く! 落ちちゃうから! 鈴木くーん!?」

「ああ、もう!」

 ラーメン容器の揺れを見ながら、俺はタイミングを見計らって佐藤さんの手にかぶせるように傘のグリップを掴んだ。阿吽の呼吸でほっそりした白い手が引き抜かれる。一瞬抱え込む形になった佐藤さんが後ずさって身体をどかすのと同時に、俺は両手で傘をしっかり掴み直した。

 中途半端に無理な姿勢を続けていた佐藤さんは背筋を伸ばすと、よろよろ歩いて壁に手をつく。ん~、と小さく唸りながらプルプルお尻を震わせる。猫みたい。

「あー、腰に来た……」

 エビみたいなおかしな姿勢を続けていたんだから、そりゃ当たり前だろう。問題はなぜそんな恰好をしてまで傘にカップラーメンを乗せていたかなんだけど。

「それで佐藤さん、これ何をやっていたんですか?」

 ピンチから抜け出せたせいか、一転してのんびりした様子の佐藤さんが休憩室を指さした。

「さっきテレビを見ていたら、今晩の番組のハイライトをやっててさ」

 ……何か嫌な予感がしてきた。

「運動会みたいな企画で、タレントがみんなで真ん中に穴が開いたヘラに卵乗せて走ってて」

「やってみたくなったと!?」

 ふっとそういう気持ちになるのはわかる。わかるけどいい大人が実際に行動に移すか? しかも会社で!?

「それで緊張感を増すためにね、ラーメンのカップを静止できない傘に載せてチャレンジしてみたの」

「なんて……」

 くだらない。と続けようとしたところで、佐藤さんがスチャっと手を挙げた。

「ところが一度始めると落としちゃいそうで止められないし、トイレに行きたくなるしで困ってたのよ。ちょうど通りかかってくれてよかったわ」

「俺は良くないです!」

 そんなどうでもいい話で助けを求めたのかよ!? バカみたいな事をしている佐藤さんのおかげで俺もすっかりバカそのものだ。

「というわけで私はトイレに行ってきます」

「いや、ちょっ……」

 引き留めようとしたときには、佐藤さんの背中はトイレに消えていくところだった。

「……どうしたらいいんだよ、コレ」

 後には、間抜けな姿勢で頭のおかしそうな事をしている俺だけが残っていた。




「くっ、このっ」

 傘の先端に載せたカップラーメンを落とさない。

 最初に持ったときはそんなに難しい事ではないと思ったのだけど、続けているうちに厳しさがわかってきた。

 これ、緊張を持続させるのが難しい。ラーメンは円筒形の傘の上に乗っているので、定位置で安定してくれない。ちょうどよく吊り合いが取れるポイントはあるはずだけど、持っている人間が静止できないんだからどうしても常に揺れている。一瞬気を抜けばカップがひっくり返るから、常に注目して位置を微調整してやる必要がある。

 そして無理な姿勢を続けているので、自然と身体に疲れが溜まってくる。これが地味につらい。傘なんて軽いと高をくくっていたけど、長い物を水平に伸ばして端だけ掴むというのがどれだけ腕に負担をかけることか……俺はわかっちゃいなかったよ。

(もっとカップが近くにあれば……)

 カップを捕獲してこの無駄なゲームを終わらせられるのに。

 そう思った所で、俺はハッと気がついた。

「持ってるのを替わるんじゃなくて、カップを撤去すればよかったんじゃないか!」

 そうすれば二人とも止められたのに!

 俺は自分のバカさ加減を呪いながら、佐藤さんがトイレからまっすぐ帰ってくることを祈った。


「ぐっ、よっと!?」

 佐藤さん、トイレ長い。

 女性に言ったらこれセクハラ案件だと思うけど、トイレ長い。

「早く……」

 早く帰って来てくれないと、俺の腕の筋肉も限界を迎えそう。いったい何分持ちこたえているんだか、自分でもわからない。わかるのはこむら返りを起こしそうな掌の筋肉と、限界で震えが止まらなくなった二の腕のこわばりだけだ。肩から首筋にかけても凝りが酷い気がする。

 いっそ諦めて落としちゃえ……って誘惑にも何度も駆られているけど、それをやれば飛び散ったラーメンの後片付けがとんでもない事になる。壁紙に汁がつけば臭いが抜けなくなるし、床のタイルの隙間にしみ込んだらいつまで残ってしまう事か。

 つまり、八方ふさがりだ。


 どうしようもなくって、どうにもできなくて、なんだか涙が出てきそう。そして二十四歳サラリーマンで社会人の自分が、ラーメンをひっくり返す程度のことで涙が出そうな情けなさに改めて泣きそうだ。

 なんで普通の昼休みに、こんな事で人生に絶望してるんだろう。

 その答えは自分自身しか知らないけれど、自分ではわからないから誰かに回答を示してほしい。そうか、人が宗教に嵌まる瞬間ってこういう時か。ラーメンをこぼす恐怖が人生の意義につながるという、壮大なスケールに物語が広がりそうだ。

 俺が現実逃避に入りかけた時。パタパタと足音がして、急ぎ足で佐藤さんが現れた。

「ごめんごめん、鈴木君!」

「佐藤さん!」

 俺を心配するその表情。いつも見ている佐藤さんの美貌がいつにも増して輝いているようだ! この瞬間、俺には佐藤さんがピンチに駆けつけた女神に見えた。

「ついでにLINEのチェックしてたら時間忘れちゃってさ」

「佐藤さんっ!?」

 テヘッと小さく舌を出す、反省アピールしてるけどして無いよね? って小悪魔なその表情。この瞬間、俺にはコイツの顔面にパンチを入れる正当な権利があると確信した。


 そのとき。

 不意に傘が軽くなり、俺が支えるのに使っていた力の分だけ先端が跳ね上がった。

「えっ?」

 手ごたえが変わった事を俺が不思議に思い、

「あっ!」

 佐藤さんが斜め下を見て驚いたような顔になる。

 それを見て、俺も何が起きたかを悟って慌てて視線を移した。


 斜めに傾きながら、それでも中身をこぼさずに落下していくカップラーメン。


 しまった! と思った時にはもう遅い。俺の注意が佐藤さんに向いたことで、手元のコントロールがおろそかになっていた。

 実際にはたかだか一メートル程度を落ちるのに何秒とかかっていないだろうけれど、落ちていくカップを見続けている時間が俺には無限の時間に感じられた。

 スローモーションで動いているカップは今から追いかければ掴めそうで。でも俺のリアクションは絶対間に合わないだろうと、頭では理解できている。

 事故はまだ今の瞬間は起きていないのに、起きるのがわかっていて事故を止めることができない。直前に気がつくって、気がつかないより残酷だなと俺はぼんやり考えた。


 床にカップが接触した。


 コッ。


 バシャーンッ!


 カップが派手にバウンドし、ライトグレーのタイルの床に透明な液体が派手に飛び散った。




「…………水?」

 一瞬自分の正気を疑ったけど、何度見返しても広がっているのは水だった。

「あー……こぼしちゃったぁ」

 佐藤さんががっくりと肩を落とす。

 彼女が“普通に”落胆しているところを見ると、中身が水なのは判っていたことのようだ。

「あの、これ、水ってどういうことです!?」

「どういう事って」

 訳が分からない俺が訊くと、目をぱちくりさせた佐藤さんが休憩室の方を指さした。

「だから、休憩室でお昼を食べていたらテレビで夜の番組の番宣をやっていて。面白そうだったから、食べ終わったラーメンの容器に水を入れて試していたの」

「空容器……」

 最初佐藤さんはなんて言っていた?


“緊張感を増すためにね、ラーメンのカップを……”


 ラーメンが入ってる、とは言ってなかったね、確かに。

「なんて紛らわしい真似を……」

 脱力した俺はへなへなと崩れ、その場に膝を落とした。水と分かっていれば、あんなに真剣に耐えたりしてなかったよ……。

 一方の佐藤さんは現場の状況を見て顔をしかめている。

「あー、もう……結構広い範囲に散っちゃってるね。鈴木君、ちゃんと拭き取っておくんだよ?」

「はい」

 佐藤さんに言われて、バカなことをして失敗した俺は反省しながら頷いた。


 佐藤さんが行った後、給湯室からバケツと雑巾を持ってきて飛び散った水の後片付けをする。

 幸いラーメン自体ではなかったので、残飯の処理とか臭いが残るとかの心配はしないで済んだのは助かった。

「良かった、昼休みの間に片が付きそうだ……」

 使ったカップも佐藤さんがちゃんと一回中を洗っていたようだ。回収した水に臭いはほとんどついていなかった。

 そして俺はほぼ拭き取り終わると同時に、大事なことを思い出した。


「もとはと言えばやってたの佐藤さんだろ、これ!」


 またしてもうまく逃げられた! 俺に責任ないじゃないかよ!

 なんで毎度毎度、佐藤さんが何かやらかすと俺にかぶって来るんだろう。

 やるせなさに手で顔を覆い、ふと視線を上げた先には……消火器の横に鎮座するコンビニのビニール袋。

 そういえば。

「飯、食ってなかった……」

 呟いた瞬間、ちょうどオフィスの方から午後一時を知らせるチャイムが響いてきた。

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