第2話 佐藤さんと競争する
営業に出ようとしたら、佐藤さんがいない。
「おっかしーなー?」
今日は大口顧客へ新製品のプレゼンだから、前もって同行を頼んであったのに。忘れて外回りに……それは無いよな? トイレに行く前まで席にいたし。
とりあえずカバンを車に積んでおくかと駐車場に出たら、玄関の外に佐藤さんがいた。
……自転車にまたがって。
明らかに俺の反応待ちのようなので、何も言わずに車に資料を積んでいたら向こうから声をかけてきた。
「ちょっと、これを見て何かないの?」
「途中でコンビニ寄りますから」
「買い出しじゃないよ?」
佐藤さんはドヤ顔で胸を張る。素敵な膨らみが強調されるが、残念ながらスーツが押さえているので揺れるところは堪能できなかった。
「最近運動不足気味だからね、体を動かそうと思うのよ」
「太ったと男に公言するのは女性としてどうかと思います」
「君は女に夢を見過ぎだね。それはそれとして太ってないよ? 運動が不足してるって思っただけだからね? そこ大事」
「言い訳はいいから、早く乗ってください」
余裕があったら相手をしてもいいんだけど、今は一時間後に商談ってギリギリのタイミングなんだよ。さっさと乗れという気持ちをオーラで表しながら、俺は適当にあしらって車に乗りかけた。
佐藤さんの突拍子もなさは普段なら可愛く思えるんだけど、こういうスケジュールが詰まっている時に発動するのは勘弁して欲しい。
俺のおざなりな態度に佐藤さんは不満げに唇を尖らせているけど……しょうがないじゃないか。社内ならともかく取引先を待たせるわけには行かない。
あとから思えば、これがまずかった。
佐藤さんらしい思いつきに、時計が気になる俺がちょっとイラっとしたのは事実だ。しかしだからと言って、あからさまにつっけんどんな対応をしたのは良くなかった。
この時の俺はお得意様へのプレゼンで頭がいっぱいで、我が儘な猫が不満を溜め込んだらどうなるか、忘れていたのだ。
……俺が大いに反省する事になる一件は、こうして始まった。
俺が全然取り合わないので、すねた佐藤さんは余計にムキになったようだった。
ペダルに脚をかけてグッと踏み込み、その場で片足着いたまま百八十度ターンを決める。
「ふふふ、鈴木君! 何を呑気な顔をしているの!? キョクヨーさんまで競争なんだよ!」
俺に人差し指を突きつけて佐藤さんはそう宣言し、何かのチャンピオンみたいに不敵に微笑んだ。
「はぁっ!?」
いきなり何を言い出すのか。
しかし目を見れば、言い出した本人が本気かどうかはすぐわかる。もろ戦闘態勢。マジ勘弁。
言われた俺は当然ながら、意表を突いた彼女の一言に眉をしかめた。
「……あそこまで自転車で行くつもりですか?」
「もっちろん!」
……マジか。
いや、無理な距離じゃないけどさ。サイクリングと考えれば近すぎるけどさ。それでも車で三十分の距離を自転車で行こうっていうのか、この人は。
しかも佐藤さんがまたがっているのは、総務の女の子が通勤に使っているママチャリだ。商談の足に使うことについて、持ち主の香取さんの許可は取ったんだろうか……。
へそを曲げた佐藤さんを何と言ってなだめよう?
内心ため息をつきながら、言いくるめる言葉を探す俺。だが、そんな時間を佐藤さんは与えてくれなかった。
「この私を甘く見たこと、後で盛大に悔やむといいわ! さあ、スタートッ!」
どういう勝負だか説明もないままに佐藤さんはそう叫び……自転車は呆気にとられた俺の前を猛ダッシュで出ていってしまった。
「ちょっ、佐藤さん!?」
止める暇もない。車のカギを指にぶら下げたまま、小さくなっていく背中を見送る俺。うん、どうしよう。
「……何と戦っているんだ、あの人は」
おまえ! って答えられたら泣いちゃう自身はあるな。
「それはそれとして……今から商談なんだぞ?」
今更だけどこんな時にこんな事をする、あの人の頭の構造が全く分からない。すでに景色と化した佐藤さんを見ながら、俺は何度目かわからないけどそう思った。
「……とにかくこっちも出発しないとな」
こっちはこっちで、呑気に見送りで時間を浪費している場合じゃなかった。
そう思い、俺は一人で車を出す。幸い移動時間は多めに見ているから佐藤さんが遅れて来てもギリギリ大丈夫だろう。この程度のハプニング、佐藤さんと二年もペアを組んでいれば心構えはできている。
後のリカバーの仕方を考えながら、俺は支店を出発した。
問屋街の裏通りにある支店を出て角を二回曲がるとバイパス道路に出る。道なりに進んで市街地に入った辺りからちょっと右左折が多くなるけど、駅前の相手先まではナビに頼るようなルートじゃない。
信号もないバイパス道路は気持ちよくスピードも出せるし、渋滞もなくスムースに走り抜けられる。普段ならこの時間、(自分は)楽しく佐藤さんと営業のノウハウや特に意味のない雑談で盛り上がるんだけど……取り扱いを間違えたせいで、今日は助手席に相手がいない。
そこにちょっと違和感を覚えて。
軽く罪悪感が胸の奥でうずいて。
そして余計な心配をさせられている理不尽に盛大にムカムカしながら、俺はアクセルを踏むのだった。
バイパス道路の終わりかけ、街路に入る交差点でちょうど信号が変わった。
「この分だと一時半には着きそうだな……早すぎたか」
右折レーンで外を眺めながらそう呟いた俺は、何気なくバックミラーを見て……固まった。
左の歩道脇を爆走して来るママチャリ。なんだか見覚えがある人が乗っている!?
「嘘だろ……追いついたよ、あの人っ!?」
こっちもけっこう飛ばしてきたんですけど!? 佐藤さんもしかして、ずっと立ち漕ぎ!?
総務の香取ちゃん所有のママチャリが、全然スピードを落とさずに突っ込んできた。瞬き始めた歩行者信号を見たのか速度を殺さず横断歩道に到達し……佐藤さんは車体を派手にバンクさせながら、お尻を勢いよくサドルに打ちつけて後輪だけを無理矢理横に滑らせる。車の窓を閉めていても響いて来る、前輪ブレーキの甲高い悲鳴が耳をつんざいた。
「テールスライドって……男子小学生かよ!?」
思わず前のめりになって外を眺めていた俺は、もう開いた口がふさがらない。
あれ、成人がやっていい技じゃないぞ!? 失敗したら自転車抱えて吹っ飛ぶ羽目になる。体が硬くなった大人には怪我や服のダメージが怖過ぎる。
……けど、佐藤さんは普通の感性じゃないからな。
目の前を左から右へ突風のように突っ切っていく自転車。顎を落として眺めながら、俺はハッと一つの可能性に気がついた。
ここから先は信号と渋滞、一方通行に引っかかりまくる街ナカ。車より自転車が得意なフィールドだ。佐藤さんが先に着いても不思議じゃない。
「佐藤さん、本当に勝負に持ち込んじゃったよ……」
いつの間にか佐藤さんの思惑に乗ってしまっていた俺。イライラとハンドルを指で叩いていても、右折したい車が作った小さな渋滞はなかなか動かない。苦い気持ちをため息とともに吐き出す。
「三連続で引っかかった……」
いくら市街地でも、移動速度はさすがに自転車よりも車の方が早い。まともに走れれば、という条件が付くが。
そして俺の車は今、まともに走れていない。信号に引っかかり、右折待ちが進路をふさぎ、両方が原因で信号三回待ちの交差点もあった。追い越したりもしてるけど、その数十メートル先でまた追い越される。先が混んでいると見れば路地に飛び込む佐藤さんを見習って、俺も焦って裏通りに入ってみたりしたんだけど……一方通行に誘導されて見当違いの方向へ出てしまったり、放置自転車が邪魔で逆に徐行せざるをえなかったり。
時計と進路を見比べていた俺は、肩の力を抜くとハンドルに突っ伏した。
「これは……ダメだ」
途中からうすうすわかってはいたけど……絶対佐藤さんの方が早く着く。
今日はとことんツキに見放されている。というか佐藤さんが運を引き寄せている感じ。この引っかかり具合じゃ、今日に限っては絶対自転車の方が早い。
「佐藤さん、きっと調子に乗ってるだろうな……」
やきもきさせられた上に威張られるとか。俺、絶対納得いかないわ……。
前が動いたので、もう一つため息をつきながら俺もギアをドライブへと戻した。
俺の車が取引先の駐車場に着いた時、予感した通り勝負はすでについていた。
そこには先に入っていた佐藤さんが、輝く笑顔でVサインを作っている。うん、思わず脳天にチョップしたくなるほどの素敵なドヤ顔だよ。相手が先輩だからやらないけどさ。
「どーよ鈴木君! この私の素晴らしい運動能力は!」
自転車にまたがったまま胸を反らせて鼻高々に言う佐藤さん。前にも言ったかもしれないが、この人見た目はクールな美人なんだよな。行動が小学生だが。抜群の見た目に幼稚なしぐさで、残念さがいや増しているのを本人はわかっているのだろうか。
そのやり遂げた感溢れる子供っぽい顔を見ていると……大事な商談の前にひっかきまわしてくれた苦情を言いたい気持ちが、抗議する前になんだか萎えてしまうのを感じた。
この顔に弱いんだよな。
俺が気がつかないことを優しく指導してくれる先輩の鏡だったり、時にはこうして無茶をしでかして手を焼かせてくれる後輩みたいだったり。その場その場でいろいろな顔を見せる佐藤さん。こういう可愛いところを見てしまうと俺は、やっぱり彼女に「好きだ!」と叫びたくなってしまう。
本当に、いろんな意味で目が離せない。
……それはともかく。
見ていて飽きない彼女を思い切り抱きしめたい気持ちを押さえ、俺は優先順位の高い件を確認する事にした。アポイントメントの時間が迫っている。
「佐藤さん……商談、出られます?」
激しい運動をこなした佐藤さんは控えめに言って、とてもお客さんに会えるような風体ではなかった。
湯気が立ちそうなほど蒸れている髪の下から、顔や首筋へ汗がとめどなく流れている。俺より何分かは早く駐車場に着いていた筈なのにまだハアハア言ってるし、たっぷり汗を吸った白のカッターシャツは濡れ透けて黒のブラジャーの模様までわかりそうだ。途中で暑くなって脱いだらしいジャケットは丸めて前かごに叩き込んであるし、元々短いタイトスカートはパンツが見える寸前までめくれあがって皺が深く刻まれている。そりゃあ、三十分も自転車で爆走すればこうなるよな……。
佐藤さんはやり切った晴れ晴れしい表情でちょっと考え、明るく一言。
「うーん……ちょっと無理かな!」
「ですよね~」
「どうするんですか!?」
「こいつはちょっと計算外だったね!」
「いえ、全然計算外じゃないんですけど」
約束の時間まであと十分。そろそろ受付に声をかけてもいい頃だ。事前の打ち合わせどころか身だしなみを整えるのも、ここまで酷いと無理!
眉根を寄せて考えていた佐藤さんが不意に表情を一転させた。
「よし、鈴木君」
「はい」
「私疲れたし暑くてたまらないから、ちょっと車ん中で寝てるわ。だから商談は君一人で頑張ってみようか!」
「無茶言わないで下さい!」
俺はサポートで、メインスピーカーは貴方! そういう分担で話してたでしょうが!?
驚愕する俺に、佐藤さんはカラカラ笑って手をひらひらと振る。
「大丈夫だって。資料は同じ物持ってるし、強調する要点を今教えてあげるからそこを積極的にアピールすればイケるイケる!」
「佐藤さーん!?」
「まさか今からアポをずらしてなんて言えるわけないでしょ。ほら、早くしないと間に合わなくなるよ? いい社会人が約束の時間に遅れるなんて絶対にダメだからね!」
「あんたが言うなやっ!?」
今まで目上だからと我慢していたけど……思わず俺も声に出してしまいましたよ……。
俺が車に戻ってきたら、やっぱり疲れていたのか佐藤さんは椅子を倒して運転席で熟睡していた。それはいいけどエアコンがよほど気持ちいいのか、あられもない姿で幸せそうに仰向けになっている。
……大人女子がさ、インナーシャツも着てないのにブラウスの前をへそまで開けて涼んでいるとかさ……しかも他社の駐車場だぞ!?
サンシェードを広げておいて良かった……俺はつくづくそう思った。
窓ガラスをノックしても、よほど深く寝ているらしく佐藤さんは起きない。何度か繰り返しているうちに嫌な予感がしてドアノブを引いたら……。
「ロックさえかけてねえよ!?」
この人、この年までよほどの田舎で暮らしてきたのか!? 大学東京だって言ってたよな!?
「佐藤さん!」
耳元で大声で叫んだら、俺の指導係様はやっと目を覚ましてもぞもぞ起きだした。今さら言いたくもないけど、勤務中だよね? 俺ら。
「……鈴木君? やけに早く帰って来たね。もう商談終わったの?」
「小一時間は経ってますよ!」
寝ぼけながら間抜けなことを言い出した佐藤さんに、俺は腕時計の盤面を指先で叩きながら怒鳴り返す。
……そうしないと、視線がどうしても下がっちゃうんだよ。半分瞼が下がったアンニュイな表情とか、横向きに寝そべっているのでより強調される腰のラインのなまめかしさとか……腕に挟まれてより深くなったブラジャー剥き出しの谷間とか。
「ていうか佐藤さん! なんで半分シャツを脱いでるんですか!?」
「おいおい鈴木君、論理的に考えたまえよ。暑くてたまらないんだから、熱源である肌に直接冷風を当てて火照りを冷ませば早く楽になるのは常識!」
「常識を言うなら物理の前に慎みを持ってくれませんかね!?」
ぶつぶつ言いながら前のボタンをはめ直す佐藤さん。運転席から降りてきて気持ちよさそうに伸びをする。
「それで? 首尾はどうだった?」
「何とかまとまりましたよ」
俺は手帳のメモ書きを見せる。新シリーズの四種全部を一ヶ月間は各十ケースずつ常備。店頭のイベント台をディスプレイ込みで二週間専用許可。こまめにメンテに回るのが大変だけど、地域最大手のここが十四店舗全店で大々的に取り扱ってくれると波及効果が違う。
「桑畑部長、佐藤さんが来てないんで露骨にガッカリしてましたけど」
「アッハッハ! 部長さん、そういうお年頃だからねえ」
エロスへの興味を隠し切れないオッサンぶりを“お年頃”と表現しないで欲しい。あの部長がこの車を覗き込まなくてホントに良かった……。
「佐藤さんがちゃんと出ていれば、もっといい条件引き出せたかもしれないですよ?」
俺の問いに、佐藤さんは年長者らしい余裕の笑みを見せた。
「そんなんじゃダメでしょ。“おねだり”で譲歩させたのなんて、持続可能な条件じゃないからね。真正面から営業しなさい」
「いや、佐藤さんなら口先三寸で丸め込めたかなって」
色仕掛けなら、ってのは俺も一瞬思ったけどね。でも佐藤さんに俺はそんなことさせたくないし、一瞬思っただけ。
俺の返しに佐藤さんは、顔を押さえて硬直している。
「何、私……墓穴った?」
「……ちょっと」
自分のセリフが、色仕掛けが効くぐらい美人だって自己主張しているのと同義語だと気がついたらしい。指の間からもみるみる顔が赤くなっていくのがわかる。
この人、屋外で下着を見せていたのは全然気にしないのにな……。
いきなり佐藤さんがパンパンと手を叩いた。
「さあさあ! 商談も済んだし、帰ろう!」
まだ頬に赤みがさしているので、照れ隠しっぽいけど……俺も苦笑しながら頷いた。
「帰りますか」
「うん!」
そして車に乗りかけて、二人同時に動きを止めた。
そう言えば……佐藤さん自転車じゃん。
何とも言えない沈黙。
一陣の風が俺たちの前を横切り、風切り音が消えたところで佐藤さんが俺に向いた。
「……よし、帰りは車を交換して行こうか!」
「絶対嫌です」
どうしたかって?
営業車の荷台に香取さんの愛車を積んで帰ったよ。ワンボックス万歳!
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