彼の眼鏡

灰崎千尋

彼と私のこと

 朝、彼が目覚めて真っ先に手にするのは、スマホでも時計でもなく、私である。


 彼はまだ寝ぼけた顔で、ほとんど習慣的にベッド脇に手を伸ばし、私を彼の顔に乗せる。寝起きは脂が浮きがちな彼の顔だが最近は少しカサついていて、秋の訪れを感じる今日この頃である。私のレンズ越しに見るスマホ画面で、時間を確認する。07:30。他人には絶対見せないような大口を開けてあくびをすると、もそもそとベッドを抜け出した。スヌーズ無しでも二度寝しない、自慢の持ち主である。


 私は、彼の眼鏡である。


 私の生まれは、福島の鯖江である。鯖江はイタリア、中国と並び世界三大眼鏡産地に挙げられる地域で、職人の多さとその技術の高さから、国産眼鏡の九割以上が、鯖江で造られている。

 私はその鯖江の工場で、何人かの職人の手を経て生み出された。主な素材は強く軽いチタン。細くしなやかに曲線を描くシルバーのテンプルは私も気に入っている。レンズの入るリムには「セル巻」という技術が使われており、黒の薄いセルロイドを巻きつけながら接着、ピン留めし、程よい艶感と落ち着いた印象を与えている。リムのタイプは真円に近いオーバル。個性と知性を両立させる、素晴らしいデザインである。


 というようなことを、私は青山の店頭で並んでいる時に、スタッフが喋るのを聞いて知った。私の自我が徐々に目覚めてきたのは店内にディスプレイされてしばらくのことであり、それは他の眼鏡たちも同様のようだった。そういうわけで、残念ながら私は、私を作り出したデザイナーや職人たちのことを、一つも覚えていないのである。


 私がいたのは、眼鏡店激戦区の青山にあるブランドショップであった。セレクトショップだと違うブランドの眼鏡もいてそれはそれで面白いらしいが、周りが同じブランドの仲間ばかりということで、結束感が強かった。日々商品知識を教えあい、自らを高めることに余念がなかった。スタッフの仕事ぶりを評価したり、「あんな人にかけてもらいたい」などと夢を語ったりもした。動いたり人と話したりできるわけではないが、我々は自信をもって、誇り高く店頭に並ぶよう努力した。


 彼と出会ったのは、そういう風に過ごして何日か経った、ある冬の日であった。

 その少し前、私は妙齢の女性に手に取られて、他の何本かと共に最終候補まで残りつつも「もう少し考えます」と言われたところだった。私は男性・女性を選ばないデザインであるし、鏡でみた彼女は私がよく似合っていたと思うのだが、こういうことは珍しくない。後日あらためて来店してくれることもあるし、それっきりのこともある。型にプラスチックを流し込んだだけの大量生産眼鏡と違い、我々のような眼鏡は少し値が張るし、付き合いが長くなることも多い。しっかり悩んで当然なのである。

 そうして決意も新たにディスプレイされた私を、彼は節の目立つ長い指で、そっと手に取った。


 彼はなかなかに洒落た青年であった。柔らかく巻いた髪はきちんと整えられていて、立ち襟の茶色いロングコートに、深い緑色のマフラーを巻いていた。その清潔感のある出で立ちに、私は大層好感を持ったのを覚えている。

 彼の頭は小さめではあったが、私の元々の横幅にもしっかりと合って、あまり大きく調整する必要はなさそうだ。筋の通った鼻に鼻当てがきちんと乗った。鼻の付け根にも高さあるので、どんな眼鏡でもずり落ちにくいだろうと思われた。少し切れ長の目がレンズの中心に収まる。これは私のリムが真円であったなら、収まりが悪かったかもしれない。鏡の中を見ると、ベース型の比較的あっさりとした顔の彼に、柔和でクラシックな印象を与えることに成功していると、私は自信を持った。

 彼は私のテンプルについた値札を眺めてしばらく考えこんでから、きちんと左から畳んで元の位置に戻した。(全ての眼鏡は左のテンプルから畳むと収まりが良いように造られている)

 彼は鏡を見るときにかなり近づいていたので、レンズはなかなか度数の高いものになりそうである。私は度入りのレンズを抱えて、彼の視界をサポートする日々を思わず想像した。裸眼のぼやぼやした世界を、私が塗り替える。彼の形の良い鼻の上に収まって、優しく抱きしめるように耳をホールドして。

 彼はおそらく、長い間眼鏡と共に生きてきたのではないかと思う。私を扱う手つきが慣れていたし、現在の相棒である眼鏡も悪くない。

 それは黒いセルフレームのウェリントン型であった。ウェリントンの中でもやや丸みがあって、素材や仕上げは安いが、彼の顔によく馴染んでいる。


 彼は店内のいくつかと私を並べ、試着を繰り返した。どうもメタルフレーム系が目当てらしい。候補に残った眼鏡はスクエアやオーバルと形はバラバラだが、私以外はフルチタンのものばかりである。これは私が選ばれる可能性は低いかもしれないと、期待をあまりしないように努力しながら、彼の決断を待った。

 しかし意外なことに、彼が選んだのは私だった。「最初にかけたときに良いな、って思っちゃったのが強くて」と彼は照れくさそうにスタッフに話していた。そのときの喜びを何と言い表せば良いだろう。私は他の眼鏡たちから「良かったな」「達者でな」など祝いの言葉で見送られ、『売約済み』の棚へ保管されたのだった。


 一週間ほど経って、私は彼と再会した。

 私は彼の度数に合わせたレンズを抱え、ピカピカに磨かれて彼の前に置かれた。私をいそいそと手に取り、顔に乗せて鏡を見たときの、はにかんだ顔の可愛らしいことといったら! 今日から、彼が私の持ち主なのだ。店を出るのは初めてだし不安もあるが、彼の目を精一杯支えようと、強く心に誓ったのだった。

「やぁ! 新品!」

 そう話しかけてきたのは、彼の今までの相棒たる黒縁のウェリントンであった。

「これでオレもお払い箱だなぁ。こいつはメガネにとって最高の持ち主だよ。オレの後、頼んだぜ!」

 量販店のものらしい軽薄さはあるが、悪い奴ではなさそうである。

「彼とは長かったのか?」

「大学の途中から三年くらいだから、オレみたいなメガネの平均寿命って感じかな。でも結構大事にしてくれたよ。踏んだり投げたりしないし」

 私はスタッフに微調整されながら、そのウェリントンと少し話した。彼はコレクタータイプではなく、一本の眼鏡を大事に使う人間らしい。ウェリントンにも細かい傷はあるが、大きな歪みなどもなく丁寧に扱われていたことがわかる。買い替えるほどの傷みはないように見えた。

「こいつ今年社会人になったから、良いメガネ買うんだって、あちこち探してたんだ。この冬にボーナスってのが入るらしくて。あんたみたいな良いメガネだったら、オレも安心だな」

 ウェリントンは、私をかけた彼をテーブルから見上げながらそう言った。この眼鏡は、これからいったいどうなるのだろう。捨てられてしまうのだろうか。私はこれから役目が始まるところだというのに、自分の捨てられるところを想像してしまって、ぞっとした。しかしウェリントンにあまり怖がっている様子はない。諦めか、満足か、それとももっと別のものか、私は測りかねていた。

 そのうちに私のフィッティングが終わり、彼は持参したケースにウェリントンをしまうと、私をかけて帰ると言った。

「ありがとうございました」

 いつも私を手入れしてくれていたスタッフにも別れを告げ、ついに私は、彼の眼鏡となったのである。



 そんな出会いから、間もなく一年が経とうとしている。

 私は彼の目を補いながら、様々なものを共に見てきた。


 彼は平日にはスーツで働く会社員であり、日々の業務に追われている。パソコンを使った事務作業が多く目の負担が心配だが、ブルーライトカットレンズで多少軽減されているはずである。残業代は一応出ているようだ。春には後輩もでき、なかなか面倒見が良い。


 外にいるときは気を張るタイプで隙が少ないが、家では結構ゆるゆると過ごしている。一日中安いルームウェアでゴロゴロしていることも少なくない。しかし根が几帳面なようで、男の一人暮らしだが家はきちんと片付いていて、ティッシュやトイレットペーパーの補充も欠かさない。マメな男である。


 彼はやや乱視の入った近視で、起きている間はほぼずっと私をかけている。寝る時にはベッド脇にあるレザーの小物入れにきちんと折り畳んで置いていてくれる。定位置があるのはとてもありがたい。世の中には眼鏡を適当なところに置いて踏んづけたり無くしてしまったりする人や、眼鏡をしたまま寝てしまう人もいるらしいので、私は実に持ち主に恵まれていると思う。こまめにクロスで拭いてくれるし、ときどき水洗いもしてくれるのが嬉しい。かつて黒縁のウェリントンが「眼鏡にとって最高の持ち主」と評していたのは本当だった。


 そのウェリントンはというと、今もときどき出番がある。

 休日にジーンズなどカジュアルな服装をする際には、セルフレームのウェリントンの方が私よりもしっくり来るのである。そういうとき、彼は少し懐かしそうな顔をする。私は引き出しの奥から取り出されたウェリントンと「やぁ」「おう」などと言葉を交わすのも好きだった。小物入れの中で留守番しているのも悪くない。そうして眼鏡を大事にする持ち主の彼を、私はとても好ましく思っている。


 我々眼鏡は、人の視力を補正する道具である。まだ「商品」であった頃には夢見るばかりであったが、彼のもとで過ごすうちに実感したことだ。持ち主の助けとなることが我々の喜びである。この身が続く限り、彼を支える良き相棒でありたいと思う。

 この良き持ち主のもとであれば、この先彼がどんな眼鏡を新しく迎えようとも、快く受け入れることができると、そう思えた。



 彼のスマホがメッセージを受信してブルブルと震えた。確認すると、最近急にやり取りが増えた女性からのものであった。少し前にウェリントンに尋ねてみたところ、大学の頃の友人だと言う。そのメッセージを見る彼は、あまり普段見ないような顔で、頬を赤らめている。こういう顔を見ることができるのも、相棒の特権である。

 願わくは、かの女性が眼鏡男子好きであらんことを。

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