おわりの二番目

緑茶

おわりの二番目

 ある日少年は、側溝にタイヤがはまってしまっていた車を、泥だらけになって助けた。はや上がりの勤めの帰りだった。たまたまその日は、日が出ているうちに帰ることができたから。夕焼けが綺麗だったから。それだけの理由で、彼は行動に出た。


 車の主は随分と高価なスーツを着た重厚な男で、口を開くと、助かった、謝礼は弾む、と言った。そんなものはいらない、と言おうとした瞬間、彼は――座席の奥側に座った女性に、ひどく心を奪われた。くすんだ金髪の、美しい女だった。


 だが、どこから調べたのか、結局少年のもとに謝礼は届けられた。目もくらむほどの金塊とともに。そこには、小さな招待状のようなものが添えられていた。少年が上司に相談に行くと、彼は顔を真っ青にして追い出した。もう二度と来るな、と言われた。


 あてをなくした少年は、招待状にしたがって――一つの建物にたどり着いた。荘重な屋敷である。彼がそこに入ると、再び、あのスーツの男が現れた。たくさんの男たちを従えて。

 彼は「行くあてがないのなら、うちで働かないか」と言った。少年は食い扶持が欲しかった。

 ただそれだけの理由で――彼は、その勧めに従った。

 そうして彼は……使用人になった。

 その街有数のマフィアの屋敷の、ただ一人の使用人になった。



 彼は抗争に巻き込まれることはなかったが、常に忙しく働いた。まるで火の車だった。しかしそれでも少年は、身体に気力が満ち満ちていた。これまで感じたことのないような充実感を味わっていた。


 その理由とは――あの、くすんだ金髪の女だった。

 彼女は、あのスーツの男……マフィアのボスの一番の情婦だったが、屋敷で働いている大勢の人間に慕われていた。彼女は気立てがよく、仕草の一つ一つに教養がにじみ出ていた。少年はただそれだけの理由で――彼女に、恋心を抱いた。


 無論、その思いが叶うことはない。彼はボスの寝室のセッティングをして、やがて彼女がやってきて、男の横に寝転ぶことになるベッドを綺麗にする日々を繰り返した。身を引き裂かれる思いだったが、せめて彼は、彼女が不快な気持ちにならないことだけを願いながら……仕事に打ち込んだ。


 しかし、ある時。彼女は――彼に言ったことばがあった。それは少年が彼女に、お気に入りの宝石を……全ての種類、そっくり言い当てたときだった。彼女は、やや酒やけした陰りのある声でそっと笑い、それからこう言ったのだ。

「あなたって素敵よ――彼の次に」

 その言葉は、彼に雷を落とした。

 一瞬――舞い上がる気持ちになった。


 だがすぐに沈静化し、その後に、鈍い胃の腑の痛みがやってきた。

 もしかしたら彼女は気付いているのかもしれない。この自分の気持ちに。それでいて、そんなことを言うのだ。それは耐え難い仕打ちのような気がしてならなかった。

 かといってボスを恨んでしまうことなどできるはずもなかった。恩義があったし、何より――自分の秘めた思いを知られてしまうとどんな目に遭うか、想像するだけでおそろしかった。

 彼は、それからも、後悔と罪悪感と、どうしようもない恋心を抱えながら日々の仕事をまっとうしていった。そうすることで、やがてこの気持ちすらも忘れられると……そう考えるがごとく。



 しかし……その行為が報われることはなかった。

 それどころか、彼の思いは彼の胸に焼き付いて、永遠に離れなくなった。


 ある時、敵対マフィアとの激しい抗争があった。

 少年は助かったが、屋敷が巻き添えになった。

 大勢の人々が、犠牲になった。


 その犠牲者の中には――あの情婦も含まれていた。

 顔面を蜂の巣にされて、即死だったそうだった。



 少年は解雇されると思ったが、情婦の葬儀への参列を許された。

 一人の女のために、マフィアのボスがそんなことをするなど異様なことだと思われたが……それこそが、彼の、彼女に与えた愛の大きさだったのだろう。

 少年は慣れないスーツを着て、ボスの横に立ちながら、恥辱のような感情をおぼえていた。

 もしかしたら……彼は自分の思いを知っていたのではないか。そのうえでこの場所に立たせたのではないだろうか。

 これは――身の程を知れと、そういうことなのだろうか。

 

 少年は――自棄になっていた。

 葬儀が終わってから、彼はボスに自らの思いを告白した。部下が押し留めようとしたが、ボスは黙って聞いていた。


 ……すっかり話し終わった後、彼は殺されるか、と思った。

 だがその代わりに、ボスは重々しく口を開いて――言った。


「お前には、最後までわからなかった。なぜお前が、二番目だったのか。なぜお前が、選ばれなかったのか。そしてきっと、これからも分からない」


 それで最後だった。

 ボスは、去っていった。


 まもなく。

 少年は――失意の中、屋敷を去った。



 それからの少年について分かっていることは少ないが、最期の数年間については、証言が寄せられている。


 彼は流浪の賭博者に身をやつし、酒場を転々とし、居なくなった女を罵る日々を過ごした。そしてしまいには、たまたま酒場の主人の女に手を出して、逆上されて腹を撃たれて、死んだのだった。


 彼には最期まで――何も分からなかったということである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おわりの二番目 緑茶 @wangd1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ