第41話 冬至 前編

 曇天の空に吹く強い風が結衣の顔をさらっていく。編み込みまですっぽりマフラーで覆われていても、わずかに覗いた皮膚はびりびりと寒さに震えている。コートのポケットに忍ばせたカイロを揉みしだきながら、ひとつ息を吐いた。

 最近、大学まで歩くようになった。通称『馬場歩き』と呼ばれるそれは、地下鉄一駅分程度の距離ではあるものの、通りがちょうど台地と谷の間を行ったり来たりするために中途半端に起伏があり、いい運動になる。足首を固定されたブーツを履いていると、ちょっとの昇り降りも慎重に歩かなければいけない。それだけ歩くことに集中することになる。結局はそれが理由だった。


 けれど、そうしてどれだけ気を逸らしていても、明治通りとの交差点に差し掛かる頃には、ついつい胸の内を覗き込んでしまった。

 圭はこの頃大学に来ていない。二週間前の夜、謝ろうと圭の部屋に行ったのだが、何度インターホンを鳴らしても応答がなく、電話をしてもメッセージを送っても、なんの反応も返ってこなかった。音信不通、そんな四字熟語を頭の中に並べ、人生で初めて描く言葉に動揺した。果帆も知らないと言うし、圭の友達にそれとなく聞いても、授業の代返を頼まれているくらいで、行方までは把握していないらしい。

 手がかりは少なかったが、圭が自分の意思で大学に来ていないことだけはわかった。身内に不幸があったのか、自分の知らないどこかに篭っているのか、自分の知らない誰かのところに匿われているのか。


 あんなに近くにいて、それが当たり前だったのに、今ではもう、手を伸ばしても届かない、ずっと遠いところに行ってしまった。どこに行ってしまったのだ。結衣はスマートフォンのメッセージアプリを起動して、圭とのやりとりに目を走らせた。最後に自分が〈どこにいるの?〉と送っていた。相手が読めばそれとわかる仕様のそこに、まだ圭の痕跡はなかった。

 圭の消息がわからないまま今日まで、結衣はあの時の決意をつなぎ止めるのに必死だった。自分を棚に上げて圭に怒りをぶつけてしまったこと、圭のやりたいことを理解していなかったこと、その全てを謝りたかった。そして圭に、自分のやりたいことを理解して欲しかった。それを伝える相手を永遠に失ってしまったのではないか、そんな焦燥が日に日に増していった。


 吐き出す息は白く、空気は冷たい。圭と迎える初めての冬なのに、もう一ヶ月以上顔も合わせていない。クリスマスの予定も、年末年始のスケジュールも、何ひとつ話していない。このまま、本当に自分は圭と別れてしまうのだろうか。このまま、距離だけが離れて、違う軌道を巡ることになるのだろうか。結衣は考えまいとしていたことに傾いていく思考を、止めることができなかった。

 周りの景色に違和感を覚えて立ち止まると、交差点だった。正面の歩行者用信号が点滅していた。横合いから結衣を追い抜いて走っていく人の背中をぼんやりと見ているうちに、赤に変わり、そして車が目の前を流れ始めた。そこは、本部キャンパスから続く道と、文学部のキャンパスから伸びる道が交わる、学生街の中心だった。左手が本部キャンパス、右手が文学部のキャンパスだ。横断歩道の向こう側に行けば、大学は目と鼻の先だ。


 結衣はスマートフォンを持ち上げた。表示された時刻は午前十一時三十二分、二時限目が終わるタイミングで果帆と待ち合わせしていたのだが、それまでまだ三十分以上ある。どうしようかと視線をさまよわせた結衣の目に、誠のcafé the Isle of Wightの文字が映った。

 そういえば、最近はここに来ていなかった。果帆と落ち合う場所は大抵果帆が決めていた。その時の気分で選んでいるのだろうが、一ヶ月以上はこの店から遠ざかっていた。今日も、果帆とは別の場所で待ち合わせをするになっていたが、ここでも構わないだろう。あとで連絡を入れれば済む話だ。

 ドアに《OPEN》の表示を確かめ、手前に引いた。寒風に晒されていた頬が息を吹き返したように温かくなる。空いている席に視線を向けていると、いらっしゃいと声をかけられた。希望の席を告げようと顔を上げた結衣の瞳は、シャツ姿の圭に釘付けになった。


 一歩あとずさり、結衣にぎこちない笑顔を向けていた圭と目を合わせたのも一瞬、圭から視線を逸らされ、結衣は再会の喜びよりも、数メートルの距離の間に広がる心の乖離を感じた。固めた決意がどろどろとした物体に変化し、瓦解していく。距離をとらなければいけない。その言葉だけが結衣の頭に強く響いた。急いで踵を返し、カフェを飛び出した。

 信号が青に変わり、結衣はブーツだったことも忘れて駆け出した。どうして、どうしてうまくいかないのだろう。これでは、圭の部屋から飛びたしたあの日と同じではないか。何も変わらない。圭のことがわからなくなる。ぐるぐると回る意識を抱え、結衣は交差点を渡りきったところで立ち止まった。膝に掌を置き、振り返る。《café the Isle of Wight》は静かにその扉を閉じていた。圭が出てくる気配はない。さすがに仕事を投げ出すことはできないのだろう。ほっとする気持ちとがっかりする気持ち、その両方が結衣の中でせめぎ合っていた。どちらにしても看過されていい感情ではなかったが、結衣にはどうすることもできなかった。


 結衣はわずかに乱れた息を整えながら、ふと交差点の先に視線を流した。左に緩やかに下る道、この道をまっすぐ行けば、あのガレットの店がある。雨の中、二人であの坂を登って、ガレットを食べてシードルを飲んで、そして圭に想いを伝えた場所だ。六月二十一日のその日から、今日でちょうど半年が経つ。忘れたことなどなかった。積み重なっていく時、それは秒から分、そして時間へとその単位を変え、日となり週となり月となっていった。半年、これ以上進み得ない単位に片足をかけながら、それ以上の高みを見ることなくリセットされてしまうのだろうか。

 マフラーが乱れ、編み込みが外に出ているのがわかる。うなじに手を当てる。結び目に指先が触れた。大丈夫、まだほつれていない。これが解けてしまったら、自分は本当にひとりぼっちになってしまう。髪と一緒に結んだ想いをこんなところでほどきたくなかった。

 けれど、圭のいる《café the Isle of Wight》へ向かう気にはなれず、結衣は文学部のキャンパスに足を向けた。ラウンジかどこかで時間を潰せばいい。そう思って正門のある方へ歩いた。そこでバッグの中に振動を感じた。スマートフォンを取り出すと、果帆から着信が入っていた。


「果帆」

『今大丈夫?』

「ごめん、まだ大学の近くなんだけど、もうお店?」

 果帆との待ち合わせ場所はキャンパスを挟んで反対側、地下鉄の入り口近くにあるチェーンのハンバーガーショップだった。

『ううん。ちょうど門を出たところ』

 ということは、果帆は思いの外近くにいるということだ。

「もうすぐだから、ちょっと待ってて」


 結衣はじゃあ、と言って電話を切り、早足で門まで歩いた。確かに果帆は、門のそばに立ち、スマートフォンを覗き込んでいた。近づく足音で結衣の接近に気づいた果帆がスマートフォンを左右に振った。

「お疲れ。授業が早く終わったから。急かしちゃってごめん」

「ううん。ちょうどよかった」結衣はタイミングよくかかってきた電話に救われた気分だった。あのままひとりでいたら、一体自分はどうなっていただろう。

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