第40話 大雪 後編

 自分のやりたいことだと豪語して、その結果に振り回される。こういうのを自業自得というのだ。最後まで店の再開に反対した修平がここにきてもなお自分を責めないのは、佳奈子の顔を立てているからだろう。レシピ集に焦点を合わせ、結衣は二週間前の記憶から自分を連れ戻した。今は目の前のことに集中するのだ。佳奈子と約束したじゃないか。大見得を切った自分が後ろ向きでどうするのだ、と自分を叱咤する。

 厨房の戸棚から《プリン・ア・ラ・モード》用の器を出し、結衣は改めて修平の書いた注意書きを読んだ。


・ 型抜きは慎重に。湯煎とスパチュラを併用

・ ホイップクリームは絞りを立てて、均等に

・ 苺は粒を揃えてプリンを取り囲むように

・ 容器の縁についたクリームはナプキンで丁寧に拭き取る


 ポットから小鍋にお湯を取り、プリンを慎重に置く。ホールケーキにクリームを塗るスパチュラは、確かにこの作業向きだった。パティシエが使うものよりも小ぶりなそれを握り、結衣はプリンと容器の隙間に滑り込ませる。くるりと一周させる。うまくいったようだ。湯煎から取り出したプリンの容器に盛り付け用の器をかぶせ、一気にひっくり返す。少し容器を揺するとプリンが型から滑り出し、ぷるぷると器に移った。


 ここまでは大丈夫、問題は次だ。結衣は注意書きの通り、クリームの絞りを立てて、少しずつ掌に込める力を強めた。ヒダのついた口から純白のクリームが絞り出される。少しずつ、ツノを立たせながら容器を回転させ、絞りを握り、クリームの山脈をプリンの周りに造成していく。もう後戻りはできない。残りのスペース、絞りの強さ、山の大きさ、一つずつ山ができ、残りのスペースが小さくなるたび、結衣の心拍数が上がっていく。

 手を止め、息を吐いた。肩に力が入っているのがわかった。深呼吸を繰り返す。落ち着けと自分に語りかける。その声はいつしか自分の声ではなく、佳奈子の声に変わり、修平の声になって、最後に唐突に、圭の声に切り替わった。記憶の中の圭の声は、変わらず優しかった。温かかった。懐かしかった。


 学園祭で自分たちのブレンドを作ると息巻いていた圭が佳奈子に教えを請うた時、圭は自分でドリッパーにお湯を注ぎながら、仕切りに「落ち着け、落ち着け」と独り言のように言っていた。その時の声が結衣の胸中で反響していた。もう一ヶ月、圭とは口も聞いていないし、目も合わせていない。打開するきっかけもないまま佳奈子が倒れて、状況の変化に対処するだけで精一杯だった自分を、圭が励ましてくれている。自分勝手だとはわかっていても、結衣にとってこれほど心強いことはなかった。自分のこの気持ちが嘘でないのなら、このプリンだけは絶対に成功させてみせる。

 結衣は、ひとつ分のスペースに絞りの口を近づけ、息を止めた。覚悟を決め、指先に力を伝えた。


 絞り口からゆっくりと滑り出したクリームが結衣の想像通りにプリンに張り付く様を、結衣は網膜に焼き付けた。力を抜くと同時に先端をプリンから離す。

「できた」

 張り詰めた胸から息と一緒に声が漏れた。高さも幅も、違和感はない。最後の苺を飾り、《プリン・ア・ラ・モード》は完成した。今までで一番の出来だった。自分でそう評価するのもおこがましいかもしれないが、これなら自信を持って提供できるくらいには、目の前の《プリン・ア・ラ・モード》は輝いて見えた。

 器を両手で包むようにそっと持ち上げて、結衣は慎重に厨房からホールに出た。「修平さん、プリンできました」

 修平は軽く手を挙げ、ちょうど淹れ終わったコーヒーをカップに移すと、それをトレーに乗せた。


「じゃあ、これも一緒に六番テーブルにお願い」

「あの、チェックとかいいんですか?」

 高揚する心の片隅でうずくまっていた不安が不意に頭をもたげた。今の責任者は修平なのだ。修平が満足しなければ、客に提供できるはずがない。いくらこれまでで一番の出来でも、合格点をもらえなければ意味がない。

「いや、結衣ちゃんが作ったんだから、大丈夫。自信があるから、持ってきたんだろう」

 思いがけない言葉だった。修平はてっきり結衣のわがままに辟易していると思っていたのに、励まされるばかりか、ちゃんと認めてくれているとは想像もしていなかった。自分はどれだけ失礼なことを考えていたのだろう。恥ずかしさと気まずさが結衣の胸中を覆ったのも、しかしわずかな間だった。


「はい」

 認められることは嬉しい。当たり前のことなのに、結衣はそんな素直な気持ちさえも忘れていた。プリンの器をゆっくりとトレーに置く。真弓がすかさずと言っていいタイミングでカウンターに近づいてきた。「六番テーブルのお客様に、ですよね」

「うん。ごめん、お願い」

「はい」

 真弓の笑顔は、それもやはり自分を認めてくれている表情だった。頑張ってください、私も頑張りますから。そう言われている気がした。結衣はすぐにカウンターに引き返し、修平に近づいた。

「修平さん、次は?」

 注文を取り、修平が追いつかない部分を結衣がこなし、真弓が次々と提供する。そういう流れができたことで、どうにか店は回るようになった。ひとりまたひとりと客が帰っていき、混雑が少しずつ緩和していった。

 店を再開して三日目、今日の営業は十九時までだ。いつもより二時間早く店を閉めることになる。十八時を過ぎた頃にはすっかりカフェは落ち着きを取り戻していた。結衣はテーブルを拭きながら、ふと圭のことを考えていた。


 圭には結局、励まされてばかりだ。圭と出会えていなかったら、きっと佳奈子が倒れてしまった時、こうして店を再開したいなどとは思わなかっただろう。それも、圭と出会ったことでできた新しいつながりが、結衣を変えた結果なのだ。そう思い至るうち、結衣はこれまでずっと胸の中でくすぶっていた感情がすぐ目の前まで屹立していることに気づいた。

 自分はきっと、圭のまっすぐで優しい性格に惹かれながら、どこかでそれに嫉妬していたのだ。そうだ。インターンシップに参加すると仙台に行ってしまった時から感じていた焦燥感の正体に、結衣はようやく気づいた。圭はまっすぐに結衣を愛してくれていたが、それと同時に、圭自身の興味に対しても実直だった。大学生になって、都会と地方の違い、経済や働き手の問題に興味を持ったからこそ自分の故郷の経済に貢献したいと、インターンシップに取り組んでいた圭。そうしてまっすぐに進んで行くその圭の目に、自分が映っていないのではないか、結衣はそれがずっと不安だった。


 そのくせ、自分が学園祭に参画するようになって圭との時間が取りにくくなると、それを言い訳にしていた。心のどこかで、佳奈子を、そして春菜を、恨んでいた。でもそれは間違いだ。ひとつに絞ることなんてできない。佳奈子がいない間、カフェでの仕事はこれまで以上に真剣にならなければいけない。修平が励ましてくれたように、真弓が認めてくれたように、自分がしっかりとしなければいけない。そして、圭のことは、たとえ喧嘩をしても好きな気持ちは変わらないのだ。それだけではない。就職活動も控えている。希望する業界に行けるかどうか、それが自分の人生を大きく左右することも、それは重要な問題だった。

 簡単なことだった。圭も同じなのだ。圭の夢も、サークルの活動も、圭の中の結衣に対する想いも、どれもひとつに絞ることなんてできない。それなのに、一方的に感情的になって、お互い様なのに、圭のすることが許せなかった自分がいた。それは間違いだと、今ならわかる。今すぐにでも圭に会いたかった。すれ違い、二人の距離が離れても、こうして会いたい気持ちが生まれることに、もっと素直に従えばいい。会えなかった寂しさは、今度会った時に素直にそのまま伝えればいい。


 単純なことだった。佳奈子に感謝したい。春菜に謝りたい。圭に今の気持ちを伝えたい。この気持ちが嘘でないことを自分の言葉で表現したい。そういう気持ちがみるみるうちに強く結衣の心を覆っていった。

 閉店時間も間際になって、からんとドアの鈴が鳴った。カウンターに張り付いて修平からケーキの盛り付けを教わっていた結衣は反射的に顔を上げた。

「春菜さん」

 春菜は小さく手を振って、カウンターに腰掛けた。結衣はすぐに水の入ったグラスをカウターに置き、春菜の正面に立った。「お勉強?」春菜がカウンターを覗き込み、「邪魔しちゃったみたいね」と笑顔を向けた。


「いいえ。大丈夫です」修平は穏やかに返事をし、ひとまずといった具合に道具を片付けた。

「佳奈子が倒れた時は、このお店もどうなるんだろうって心配だったけど、その様子だと、うまくいってるのね」

 春菜はカウンターの結衣と修平を交互に見て、安心したように小さく息を吐いた。

「どうにかって感じですけどね」修平が頰をぽりぽりと掻いた。「結衣ちゃんと真弓ちゃんのおかげですよ」そう言い、修平は春菜のためにコーヒーを淹れ始めた。

「そんなことないですよ。私がわがままだから」

 修平が、結衣や真弓が帰ったあとも、在庫の補充や翌日の仕込みを遅い時間までやっていることは知っていた。顎に浮かんだ無精髭はその代償だろう。


「佳奈子が心配してた。結衣ちゃん、最近元気なかったから」春菜が不安げに結衣の目を覗き込む。「うちに来たときもそうだったけど。でも、今日は大丈夫そうね」

 春菜は、圭との関係を知らないはずだった。もちろん、結衣が学園祭のことで春菜に複雑な感情を抱いていたことも。

「色々あったんですけど、多分」結衣はぎこちなく笑った。今はまだ、これが精一杯だった。「ご心配をおかけしてすいませんでした」

「髪の毛も、やっぱりその方が似合うわね」

 春菜の言葉に、結衣はさりげなくうなじに手を当てた。ネックレスのチェーンが指先に触れた。圭と喧嘩をして以来やめていた編み込みを、店を再開した一昨日からまたするようになっていた。

「佳奈子さんと約束したんです。お店を再開させるための条件って感じで」


 あの日、ベッドから身を乗り出して結衣の顔を覗き込んだ佳奈子は、最後に「それと、編み込みはあなたのトレードマーク。髪が元気なら、きっとあなたも元気になる」と言って、自分が付けていたネックレスを結衣の首にかけた。あれほど執着していた編み込みをやめてしまったことは、果帆も気にしていた。それを直接言ってしまうところが佳奈子らしかった。

 修平がコーヒーカップをカウンターに置いた。ありがとう、と受け取った春菜はカップに口を付け、ふわりと笑った。

 客のひとりが手を挙げたのを潮に、結衣はカウンターを出た。テーブルに向かう途中で、結衣はふっと窓の外を見た。すっかり夜の闇に沈んでいる街が静かにカフェを包んでいた。仕事が終わったら、佳奈子に電話しよう。そのあと、圭の部屋に行ってみよう。それでダメだったら……。

 結衣は胸に浮上した不安感をつまみ上げ、それをじっと見つめた。今までならば、それをどう扱うか思い倦ね、結局その不安に飲み込まれてしまっただろう。けれど、今なら、その不安をそっと撫で、抱きすくめることができる。大丈夫、君はもう大丈夫。不安感にそう語りかけると、それはみるみるうちに小さくしぼみ、心の泉の中に帰っていった。

 不安を見送り、結衣は泉のたもとで空を見上げた。雪は降っていない。結衣の心に降り続いていた雪は、いつのまにか止んでいた。

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