第39話 大雪 前編

 ドアに付いた鈴が来客を告げた。その瞬間、冷たい空気が結衣の首元をさらった気がしたが、それもすぐにカフェの空気が包み込んでしまった。あとに残ったのはひやりと締め付けられる心臓だけで、それも振り返った先に客の姿を認めると、自然と治まっていった。結衣は戸口に立つ男性客を席に案内し、カウンターから水をとってテーブルに置いた。

 これで空席はいよいよなくなった。カフェは最も混雑する時間帯を迎えていた。


「《ブレンド》と《ミルクレープ》を四番テーブルにお願い」

 修平がカウンターにケーキとコーヒーカップを置いた。結衣が近づくと、横から真弓もやってきて、「私が行きます」と言ってトレーに素早く移すと急ぎ足でテーブルへ向かった。結衣は案内した客から注文を取り、修平に伝えようと再びカウンターに近づいた。

 修平の前には処理していない伝票が複数溜まっていた。真弓が持っていった四番テーブルのケーキも、もう十分以上前のオーダーだ。さすがにこれはいけないと、結衣は自分で受けた注文を伝える代わりにカウンターの中に回った。修平はドリッパーにお湯を注ぎながら、もう片方の手でチョコレートケーキにグラニュー糖をふりかけていた。


「修平さん、何か手伝いましょうか?」

「じゃあ、これお願い」修平は伝票の列から一枚取り出し、結衣に渡した。「こっちはやっておくから」結衣の手から伝票を引き抜くと、並びの一番端に起き、ドリップの作業を続けた。

「これって」伝票には〈プリン一〉と書いてあった。修平の作る、一日十食限定の《プリン・ア・ラ・モード》だ。「私まだ……」結衣は小声で訴えた。昨日も営業が終わってから厨房で修平と練習したものの、ホイップクリームの絞り具合だったりトッピングの苺の配置だったり、まだ修平の作るそれとはレベルに大きな違いがあった。春に修平が失敗してから、たまにそうして練習していたのだが、結衣の不器用さも手伝い、なかなか上達しないまま今日という日を迎えてしまった。


「大丈夫。昨日の感じなら問題ないよ。僕が最初の頃に出してたプリンより全然美味しそうだったし」修平は小さな声で結衣を励ました。「頼むよ。コーヒーの抽出で手一杯なんだ」

 他のケーキと違って仕込みにある程度時間のかかるプリンは、できれば注文が入って欲しくなかった。とはいえ修平しかコーヒーを淹れられない状況では自分か真弓が作るしかない。結衣は「わかりました」と修平の目を見て言うと、覚悟を決めて小走りに厨房へ向かった。


 厨房はホールに比べて空調が弱く、ブラウス一枚の身には肌寒かった。冷蔵庫を開け、プリンと苺を取り出す。ホップクリームをバットに置き、戸棚からナッツの瓶を掴み取った。あと必要なものは……。結衣はそう思いながら冷蔵庫脇のケースからレシピ集を引っ張り出した。何度作っても、レシピを見なければ怖くて作れなかった。ページをめくる。メニューの名前が大きく書かれ、その下には修平の角張った文字で細かな注意点が箇条書きに連なっていた。脇に添えられた挿絵は佳奈子が描いたものだ。

 不安な気持ちがずっと結衣の胸の中で渦巻いていた。やはり無理があったのかもしれない。自分で望んだことなのに、これでは学園祭と同じだ。そう思い至って、結衣はあの日、病室で佳奈子と向かい合った時の会話を思い出した。




 佳奈子が倒れたその日、ストレッチャーに横たわる苦しそうな佳奈子を見て最悪の事態も覚悟したが、病院に着く頃には、発作は治まったらしい。

 結衣は客の一人ひとりに丁寧に詫びながら会計をして、修平に連絡をとった。医師の診断の最中だったようで一旦は電話を切られたものの、そのあとで折り返しかかってきた電話で結衣は佳奈子の病状を聞き、ひとまず安心した。

『狭心症らしい。この機会に詳しく検査をすることになったから数日入院するけど、大丈夫だろう』修平の声は安堵の色合いを滲ませていた。

「よかった。これから私もそっちに行きます」


 面会の受付を済ませて病室に入ると、点滴をつけた佳奈子がベッドで体を起こし、修平と話をしていた。

「佳奈子さん、もう平気なんですか?」

「一応は、って感じみたい。心筋に壊死はないみたいだけど、カテーテル検査もした方がいいってお医者さんが言うから、ちょっと調べてもらうの」

 狭心症というのはあまり聞きなれない病気だった。どうやら心臓の血管が狭くなり、一時的に心臓が酸欠状態になる症状を指すらしいことは、話の流れで把握できた。


「よかったです」

「結構進行していたみたいで、一歩手前って感じだったらしいけれど」これが行き過ぎると心筋梗塞になって、そうなれば命の危険もあったみたいだと佳奈子は続けた。それでも、そうならなかったのだから、不幸中の幸いといったところだろうか。

「学園祭の頃からずっと働き詰めだったつけが回ったんですよ。もう少し自分の体のことも考えてもらわないと」

 修平が腰に手を当ててベッドに体を寄せた。


「もう三回目よ、修平くんからそのセリフ聞くの」佳奈子は笑顔で修平の言葉をあしらう。修平が「佳奈子さん」と抗弁するのを遮るように、佳奈子は「でも」と言葉を続けた。

「でも、お店はしばらくお休みね。退院しても、何週間かは休んだ方がいいみたいだし」

 佳奈子は少し悲しそうな顔をした。佳奈子の無事が確かめられても、かといってすぐに日常が戻ってくるということではないのだ。

「やっぱり、そうなりますよね」結衣はそう相槌を打ちながら、心の一方では、本当にそれでいいのかと考えていた。

「さっき修平くんとも話したんだけど、年内はお店を閉めようと思って」


 佳奈子の顔は思いの外晴れやかだった。残念そうではあるものの、そういうこともあると割り切っている口ぶりでもあった。あのカフェは佳奈子そのものだ。佳奈子がいなければあの店は成り立たないことくらい、その場にいる誰もがわかっていた。けれど、いや、だからこそ、そのカフェが一大事なのに、結衣もただ休んでいればいいのだろうか。それは何か違う気がした。できることはやりたい、と結衣は思った。学園祭に参画することになった時、佳奈子を支えたいと思ったのと同じように、その想いが急速に膨らんでいった。それが口をついて出るのに、それほどの時間はかからなかった。


「あの、お店なんですけど、私たちだけで続けちゃダメですか?」

「ダメってことはないけど……」困惑気味に答える佳奈子の視線がふらふらと修平に向けられる。

「さすがに厳しいと思うよ。行政や商工会とのやりとりとか、佳奈子さんじゃなきゃわからない部分もたくさんあるし、第一コーヒーを淹れるのが僕だけになると、デザートの注文とか回らなくなる」

「その辺りは、私も練習します。やるとなったら、きっと真弓ちゃんも……」

「だとしても、リスクが大きすぎる」


 修平は腕を組んで首を横に振った。結衣が救いの目を佳奈子に向ける。佳奈子は二人のやりとりをじっと聞きながら、ひとつ息を吐くと、その大きめの瞳を結衣に向けた。

「ねえ、結衣ちゃん。それはあなたがやりたいこと? それとも、やらなきゃいけないと思ったこと?」

 結衣は佳奈子の言葉をじっと聞いた。どちらが自分にとっての正解か、考えていたのはわずかな時間だった。

「両方です。あのお店のコーヒーを待っているお客さんのためでもあるし、私も、あのお店があったから、佳奈子さんがいてくれたから、今ここにいるんだと思います」


 佳奈子の手助けになればと学園祭の準備を手伝うようになって、カフェの経営や地域とのつながりがわかったことで、一度途切れたそれを取り戻すのにどれだけ時間がかかるのかも想像できるようになった。一ヶ月以上も店を閉めるということは、そのあとの客足にも大きく影響するはずだ。せっかく学園祭があって新しい客も増えてきたのに、そこにブレーキをかけてしまったら、佳奈子が帰ってきても、もうそこに自分の居場所はなくなってしまうかもしれない。

 それは杞憂かもしれないし、身勝手な考えかもしれない。佳奈子が作り出した空気を、自分たちだけで維持できるのかはわからない。けれど、できるかどうかはやってみなければわからない。そして、やる価値はあると、結衣は思っていた。


「結衣ちゃん、気持ちは嬉しいわ」佳奈子の柔和な笑顔が先の思考を一瞬遮った。佳奈子に反対されればさすがに状況は厳しくなる。祈るような気持ちで、佳奈子の口が動くのを待った。「難しいかもしれないけど、やってみなさい」その言葉が結衣の中で像を結ぶ。ぼやけた視界がくっきりと冴え渡るように、目の前の佳奈子がひときわ鮮やかに映った。

「ちょっと佳奈子さん」

 詰め寄る修平に掌を向け続く言葉を塞いだ佳奈子は、それこそいつもの笑顔で、「大丈夫、あなたもいるし」と言い放った。絶句する修平をちらりと見遣り、ひとつ息を吐くと、佳奈子は打って変わって神妙な顔を見せ、目を伏せた。

「あのお店は私のお店だけど、同時にみんなのお店だもの。私のわがままだけで成り立っているわけじゃない」


 修平が「それはそうかもしれませんけど……」と消え入りそうな声で呟き、口をつぐんだ。

「ありがとうございます」

 結衣は腕を体の前で合わせ、深く礼をした。髪の毛がはらりと耳元を流れていく。

「結衣ちゃん、これだけは守って」

 シーツの擦れる音がして、わずかに顔を上げた結衣の視界いっぱいに佳奈子の掌が見えた。結衣の頰を挟み込んだ掌の感触が結衣を温かく包んだ。額がつきそうな距離に迫る佳奈子からは甘い匂いがした。

「営業時間はいつもより短くすること。無理だと思ったらすぐに連絡すること」

「はい」

「それと——」

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