第42話 冬至 後編
「駅の向こうにイタリアンのお店ができたから、今日はそこにしようと思って」
二人で並んで交差点を曲がり、地下鉄の入り口を通り過ぎる。果帆はそこで右の路地に入った。それまで平坦だった道が、急に勾配のきつい坂に変わる。車一台通るのがやっとの路地、東京にはこういう道が意外と多い。田舎と違うのは、周りに立っている建物がビルばかりだということだ。目指すイタリアンレストランは、そんなビルの一階に店を構えていた。緑白赤の帯がたなびく店先にはテラス席もあったが、寒風の下で食事をする殊勝な客はいなかった。
ドアを開き、店の中に入った。ホクホクとした空気が結衣を包んだ。ひとまず空いている席を探し、座る。すかさず近づいてくる店員の姿を一瞥し、結衣はひとまず安堵した。当たり前だが、それは圭ではなかった。
今更ながら、さっきのあれはなんだったのだと考えた。ただアルバイトをしているだけなのだろうか。大学を休んでまで働くほど困窮しているのだろうか。顔を合わせなかった一ヶ月半ほどの間に圭の、あるいは圭の実家の経済状況が著しく悪化した、ということだろうか。考えても答えが出るはずもなく、結衣はテーブルに置かれたコップを手に取り、水を口に含んだ。
「何食べる?」果帆がメニューを開いて見せてくれた。カタカナ表記のメニューがつらつらと並んでいた。しばらく悩んだ末、結衣はランチセットを選んだ。単品のどのメニューよりも安いそれを選ばない理由はなかった。この辺りはさすが学生街といったところだろうか。果帆も同じものを指差した。通りかかった店員にランチを二つ注文した。
「圭くんと連絡取れた?」なんの前置きもなく、果帆が言った。結露が浮かび始めたコップに手をつけ、俯き加減の果帆の顔には迷いとも戸惑いともつかない逡巡が見て取れた。結衣の心の内を推し量ろうとして果たせず、触れていいかどうか悩んでいるように、その声は小さく結衣の耳朶を叩いた。
食事を終えて《カフェ・ラ・ルーチェ》のアルバイトに入っても、結衣は上の空だった。テーブルを拭きメニュー表を整えながら、結衣は気づけばイタリアンレストランでのことを頭に浮かべてしまう。
結衣に向かって「圭くんと連絡取れた?」と聞いた果帆がコップをテーブルに戻した時は、小さく音を立てた氷に結衣が話す番だと急かされているように感じた。
「ううん、まだ」
連絡が取れないのは本当だった。そういう諸々の事柄をすっ飛ばして圭と再会してしまった驚きを、結衣は受け止めきれずにいた。圭は何をしているのだろう。結衣も大学も放り投げてあの店で働くことが圭に何をもたらすというのだろう。このことを果帆に伝えるべきか——。そこで結衣の脳裏に、これまで考えたこともない想像が舞い降りてきた。
そもそも、果帆はこのことを知っているのではないか。《café the Isle of Wight》はキャンパスの門から見渡せる場所にある。若干距離も角度もついているが、店から全速力で飛び出した自分を、果帆は見ていたのではないか。
「そっか」
果帆は俯いたまま、短く息を吐いた。果帆はそれから冬休みの予定を一方的に話し、結衣はそれに頷いた。料理が運ばれてきても、果帆はそれ以上圭のことを聞かなかったし、結衣も話さなかった。
料理の味は、ほとんど覚えていなかった。
根拠はないけれど、果帆は何かを隠している。
根拠はない。本当に果帆は何も知らないかもしれない。けれど、それも確信がある訳ではないのだ。果帆がそう言っているだけで、嘘をついているかもしれない。なんの得があるのか、それは果帆がやましいことをしているからだ。
回り続ける思考は止めようもなく、妄想じみた感情に流されていく自分。すぐにでも果帆を呼び、そのことを問いただしたい衝動に駆られた。本当のことを話してほしい。喉元まで出かかった言葉は、カフェのドアの開く気配に引き戻された。結衣は顔を上げ、開ききった戸口に佇む客とまっすぐに向かい合った。
それが圭だと気づいても、さして驚くことはなかった。既視感とともに、結衣の立つカフェの床が回り、足元が不安定になる、そんな感覚に襲われた。さっきは向こうがこちら側にいて、こちらが向こうにいた。これでは攻守交代だ。ボールを持っているのがどちらなのか判然としないまま、圭の動きに合わせて結衣はカウンターへ近づいた。
「ここ、いい?」
「うん」
カウンター席の前に立った圭は、紙袋を椅子に置き、体の正面を結衣の方を向けた。ボールを握ったのは圭だった。
「さっきは……いや、ずっとだけど、ごめん」
まっすぐ結衣の胸に飛び込んできたボールを、結衣はじっと見つめた。聞かないといけないことはたくさんあった。ずっとどこにいたのか、今日は何をしていたのか、果帆は、そのことを知っているのか。
「うん」
でも、まずは瓦解した決意をかき集めなければ前に進まない気がした。圭を目の前にして、胸の中で暴れまわっていた猜疑心はすっかり息を潜めてしまった。自分の気持ちを伝えること以外、ことここに至ってはもうどうでもよかった。さっきは逃げ出したけれど、今度はきっと大丈夫。
「おばあちゃんが亡くなったり、実際色々とあったんだけどね。結衣のやりたいこととか、色々考えて誠さんの手伝いしてみたりしたけど、うまくいかない」目を伏せる圭の言葉が胸の中で跳ねた。
「うん」
結衣は短く相槌を打った。離れている間、圭は圭で、結衣のことを考えていてくれた。
「佐藤にも」そこで圭は、初めて結衣の目をまっすぐ見据えた。「佐藤にも悪いことをした。俺が誠さんのところにいるって、あいつは知ってたんだ。店を避けてもらうために……。だから、佐藤を責めないでやって。ずっと、結衣のことで怒られてさ。大変だった。当然だけどな。心配させて、色々抱え込ませてしまって」
「そっか」むしろ、その逆だ。果帆に謝らなければいけないのは自分だ。心の暴走が、危うく東京で唯一できた親友を失わせるところだった。「謝んなきゃいけないのは、私も同じ。自分のことばっかりで……。それなのに、圭くんのやりたいことには内心反発してたし。だからあんな酷いこと言っちゃって、ごめんなさい」
結衣はぐずぐずに溶け出した決意をようやく丸めることができた。不恰好になってしまったけれど、でもきっとうまくいく。目の前の圭は、久しぶりに、本当に久しぶりに笑顔になった。ぎこちなく笑うその顔を、結衣はきっと一生忘れないだろう。
「ちょうど、今日で半年なんだよね。何にも準備してないけど、その——」
「ううん、いいの。コーヒーご馳走するから」
結衣はカウンターに入り、修平に事情を話してコーヒーを淹れさせてもらった。
湯気を上げるドリッパーからコーヒーのいい香りがする。ゆっくりゆっくり、慎重にお湯を注ぐ。蒸らし終えたドリッパーから少しずつ琥珀色のコーヒーがサーバーに滴り溜まっていく。結衣と圭は向かい合ったまま、じっとドリッパーを見つめていた。
恋がコーヒーならば、自分と圭はようやく蒸らしが終わったくらいだろう。一旦内側に溜め込んだ熱が、新しいお湯によってコーヒーに変わっていくように、これからはきっとまた新しい時間を積み重ねていくのだ。月から年へ、どんな味のコーヒーになるのか、結衣は楽しみだった。本格的な冬がやってくる。その前に、こうして圭と向き合うことができて、本当に良かった。
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