第33話 霜降 前編

 十月も後半に入ったというのに、街の空気はまだ夏の気配を残していた。不安げに垂れ込める雲を見て、結衣は人知れずため息を漏らす。人知れずといっても、隣には圭がいた。一見すれば恋人同士のデートなのだが、その二人の手は互いの手を握るのではなく、大きな紙袋を掴んでいた。二重にしていても、いつ底が抜けるのか、結衣は気が気ではなかった。

「ちょっと休憩しよ」結衣はたまらず立ち止まり、圭の背中に呼びかけた。高田馬場のロータリーに差し掛かったところだから、電車を降りてまだ少ししか歩いていない。とはいっても、それは日頃の運動不足がたたったという次元ではなかった。一体何キロあるのか、両腕にぶら下がる紙袋は一歩踏み出すたびに結衣から体力を奪っていった。圭の家から最寄りの駅までの道のりを止まらずに歩ききっただけでも褒めてもらいたかった。電車の中では体力の回復は果たせず、ホームからエレベーターを降り改札を通り抜ける頃には、結衣の肩と腕は悲鳴をあげていた。


「信号変わっちゃうって」圭が袋でいっぱいの手を伸ばし、結衣の袋をひとつ持った。「車で来た方がよかったよな」

「そういうのを、遅きに失したって言うんだ」結衣は憎まれ口を叩きながらいそいそと立ち上がる。「ごめん」

「無理を聞いてもらったのはこっちだから、気にしてないよ」


圭の額にはうっすらと汗がにじんでいた。ただでさえ重い荷物を両手に抱えていて、あまつさえこの天気だ。今日の主役は圭だというのに、情けない気持ちになる。左右のバランスが崩れて慎重に歩く圭の掌に指を滑り込ませる。全部は無理でも、その重さを支えたい気持ちは変わらない。そうやって気持ちを寄せて、体を寄せていないと、圭がどこかへ行ってしまうのではないかと不安がもたげてしまう。

 ロータリーの信号が点滅を始めた。結衣と圭はほんの少しだけ足を速め、どうにか信号を渡りきった。息が上がる。交差点の角にある自動販売機のそばまで移動して、上下する肩と胸を鎮めた。少しずつ呼吸を落ち着け、胸に潜む寂しさを紛らわせる。

「あと少し」


 それにしても、《カフェ・ラ・ルーチェ》への道のりがこれほど険しいものだとは思わなかった。日曜日の今日、佳奈子に無理を言って店を開けてもらうのだから、時間に遅れるわけにはいかない。余裕を持って圭の部屋を出たのだが、スマートフォンの時計は約束の時間の十分前になっていた。

「急がなきゃ」結衣は大きく息を吸い込んで、紙袋を持ち上げた。路地を曲がれば、あとは一本道。それだけを思い、結衣は棒になった脚を前へ出し、パンプスのつま先をアスファルトに擦り付けるように歩いた。




「すごい荷物ね」

 カフェに着くと、椅子に座っていた佳奈子が慌てた様子で立ち上がり、結衣と圭に駆け寄って来た。ドアを支え、二人を店に入れた。圭は紙袋をテーブルの上に続けざまに置くと、その場に座り込んだ。

「すいません、遅くなっちゃって」

 結衣も手近なテーブルに袋を寝かせた。袋の口からかさっと小さなビニール袋が滑り出した。焙煎したコーヒー豆だった。パッケージには《ブラジル》と小さなシールが貼られている。


「いいのよ。でも、休憩した方が良さそうね」

 佳奈子はカウンターに入り、お湯を沸かし始めた。結衣も何か手伝おうとカウンターに近づいたが、「今日はお店じゃないんだから大丈夫」と固辞されてしまった。圭は椅子に座り、紙袋の中身を取り出していた。

「どれくらい持って来たの?」

 仕方なく圭の座る席の隣に腰掛けた結衣は、圭の作業を手伝った。両腕にはまだコーヒー豆の重さが色濃く残り、何かをしていないと気だるさで机に突っ伏してしまいそうだった。袋には、小分けされたコーヒー豆の袋がいくつか入っていた。〈ブラジル〉だけでなく、〈モカ〉、〈グアテマラ〉、〈マンデリン〉、〈コロンビア〉、〈コナ〉と、主要な品種は網羅されているようだった。


「〈ブラジル〉と〈モカ〉は三百グラム、あとは百グラムずつだよ」

「それにしては重すぎない?」圭の言うとおりだとしたら、全部で一キログラム程度だろう。二人で紙袋を二つずつ抱えるような量ではない。一体どれだけ持ってきたのか、結衣は紙袋に手を突っ込んで、中身を全て掻き出した。

「それが全部で四十セットだったっけ」

 テーブルに豆が当たり、かたかたと音を立てた。一つの紙袋に十セット、しめて十キログラムということになる。どおりで重いわけだ。

「こんなに買ってどうするの?」結衣は思わず大声を出していた。


「私が頼んだのよ」佳奈子の声に結衣は振り返った。佳奈子はドリッパーにコーヒー豆を敷き詰め、お湯が沸くのを待っていた。「豆の仕入れ先を紹介する代わりに、ちょっと多めに買ってきてもらったの。うちも、そろそろブレンドを新しくしようかなって思って」

 圭はまんまと使いっ走りにされたということか。佳奈子は圭相手でも容赦がないのだ。誰とでも分け隔てなく接する。そんな佳奈子なりのやり方で、圭は結衣たちの輪に入っていた。

 佳奈子の淹れたコーヒーを飲んで、ようやく気分が晴れてきた。腕はまだじんわりと疲労を訴えていたが、これからのことを考えれば休憩は終わりにしなければいけない。日曜日の今日、佳奈子に頼んで店を開けてもらったのは、圭が学園祭で出すコーヒーのブレンドを完成させるためだ。

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