第32話 寒露 後編
「この店に限らず、学園祭期間中は普段の週末よりも客足が増える。来場者が半端ないし、休憩できる場所としてカフェはうってつけだ。それが、今回の企画ではカフェも会場になる。展示目当てのお客さんは店に入っても座って注文をするとは限らない。となれば、売り上げは落ちるだろう。学園祭として、そこをどう思っているんだ?」
来るべき質問が来てしまった、と結衣は身構えた。用意していた答えを頭の中で反芻しながら、慎重に言葉をつなげていった。
「そうですね。その通りだと思います。短期的には、売り上げ減少は免れないかもしれません。地域通貨で決済する割合も増えれば、会計上地域通貨と円との交換には数ヶ月を要しますから、それも影響すると思います。でも、この企画は間違いなく人の動きを変えます。これまでカフェに馴染みのなかった学生が、その魅力を知るきっかけになります」
「待っているだけじゃあダメということはわかるよ。でも、それが商店だ。そして黙っていてもお客が入ってくれる学園祭は貴重だよ。店を知ってもらう機会にもなってる。学園祭をきっかけに通うようになった学生さんもいるしね」
圭にしても、この《café the Isle of Wight》を知ったきっかけはたまたま通り掛かっただけだったはずだ。何を契機に知らない場所を知るのか、それはその人次第といってもいい。
けれど、それだけではない。そんな単純なことではないのだ。衝動的に沸き起こった反駁が結衣を衝き動かす。背中に佳奈子の熱を感じた。
「お店単体なら、それでいいかもしれません。今、この商店街は苦境に立たされていると聞きました。学生数の減少、時代の流れ、色々原因はあるでしょうが、昔ながらの商店が閉店に追い込まれている状況であることも——。学生街だからとそこにあぐらをかいている時代は終わったのかもしれません。今回、こうして学園祭とタッグを組むのは、ただ流れる学生を捕まえるのではなく、大学や学生との新しいつながりを作るためです。温かくて有機的なつながりが、この学生街をもっと変える力になる。私はそう信じています」
結衣は、実行委員長の羽鳥が言っていた言葉を思い出していた。曖昧な関係ではなく、全く新しいつながり。それを創造するという実行委員の話に結衣は心を動かされていた。すがったと言ってもよかった。
何をしているのだと思っている自分がいるのも確かだった。そもそも、学生アルバイトの自分が、佳奈子の名代として店舗を回って説明をする義理はないのだ。それでもそうしているのは、佳奈子の「恩返しをしたい」という気持ちに報いるためだった。
それだけを胸に、じっと誠の目を見返す。張り詰めた空気は、まるで手品師が結び目に息を吹きかけるみたいに、誠がふうっと息を吐いたことでほどけていった。
「結衣ちゃんからそんなに熱い気持ちが聞けるとは思わなかった。それは、僕も同意見だ。ごめんな。試すようなことを言って。同じ方向を向いて、同じ想いを持って進んで行くのは難しいけど、佳奈子さんも結衣ちゃんも、本当にすごい人だな」誠が資料をカウンターに置き、静かに頭を下げた。「よろしくお願いします。学園祭、絶対に成功させよう」
もちろん、誠も不安な部分がないわけではないだろう。まだ見ぬ学生の顔、当日の天候、展示の内容、不確定要素がまだまだある中で、あのように学生である結衣に礼ができることに驚いた。それだけの覚悟が誠にはあるのだ。閉塞した学生街をどうにかしたい、その想いが、新しいつながりにかける決心をさせたのだろう。
「誠くんは凄いのよ」
佳奈子の返答に結衣の意識は頭のスクリーンから引き剥がされた。
「やっぱり、あのお店があの辺りの中心だからですか?」
誠の《café the Isle of Wight》はキャンパスの南側に連なる商店街の一角にあって、人の往来も多い。売り上げ云々もあるだろうが、開放感のあるカフェはしばしば近所の商店主の溜まり場にもなるらしい。
「それもあるだろうけど、今回の企画に、真っ先に参加するって声をあげたのが彼なの」
「それにしては、結構質問されたよね」果帆の言葉に、結衣は小さく頷いた。思い出しただけでもどっと疲れが蘇ってくる。
「それだけ真剣ってことでしょ。ますます責任重大って感じだけど、頑張りましょう」
佳奈子の笑顔はいつもと同じ、晴れやかで清々しくて、結衣はつい見とれてしまう。充血した目も一種の勲章のように見えるのだから、佳奈子のバイタリティーの高さには驚かされるばかりだ。
「はい」
結衣と果帆は揃って返事をした。一ヶ月、ここからが正念場だと気を引き締める。来週から本格的に始まる授業の合間に、結衣も果帆も佳奈子の代わりに商店街を歩き、参加を表明した店に説明をして回ることになっていた。具体的になっていく時間と空間が結衣の日常を少しずつ変えていく。その実感を胸に抱くと、無性に寂しさがこみ上げてくる。
「じゃあ、私はシフトに入ります」
結衣はその寂寥を振り払いたくて、カウンターに置かれたコップを持ってすくっと立ち上がった。日々の積み重ねが一週間を作り、それが集まって月日が流れる。揺れるように過ぎていく季節はどんどんと深まっていく。実家の軒先に生えた椿の葉には、今年も露がつく頃だろうか。コップの表面についた雫を見て、結衣はふとそんなことを思った。
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