第34話 霜降 後編
圭がコーヒーのブレドをすると言ってコーヒー豆を買い、試行錯誤を始めて二週間が経っていた。結衣と果帆が誠のところを訪れた日、土曜日のその日は圭の部屋に泊まることになっていた。といっても合鍵を使って開けた部屋は無人で、結衣は帰りにコンビニで買った弁当を食べたあとは、圭が帰ってくるのを待つほかなかった。圭は夜遅くに帰ってくるや、バッグから豆とミルとノートを出して研究の続きを始めた。珍しく結衣が誘っても圭は首を横に降るばかりで、淹れたコーヒーを口に含み、「違うんだよな」と呟いて再び首を横に振った。
コーヒーのブレンドは、当たり前だが素人が一朝一夕でできるほど簡単なものではない。ベースの豆や脇を飾る豆の種類、量、粒度、もっと言えば焙煎の具合でも、味はいかようにも変化する。コーヒーのブランドそれぞれの特性を理解した上で自分の理想とする味を見つけるのに、どれほどの時間がかかるのか、結衣も知らない。どんどんとコーヒーの世界にのめりこんでいく圭の背中を見るたび、結衣はどうしようもなく悲しい気持ちになった。そしてそんな圭をベッドの布団に包まって見ているだけの自分に、どうしようもなく腹が立っていた。佳奈子の力を借りればどうにかなるかもしれない。コーヒー熱に浮かされた圭を振り向かせる手段は、これしか思いつかなかった。
「さてと、そろそろ始めましょうか」
佳奈子の音頭で、圭のブレンドコーヒー作りが始まった。圭がカウンターに入り、結衣が席についてその姿を眺めるという格好になった。圭はメモを取りながら、佳奈子の話を真剣に聞いていた。
「豆の特徴はそんな感じだから、圭くんのイメージだと、〈モカ〉をベースにした方がいいかも」
「〈ブラジル〉じゃあやっぱり難しいですか?」
「〈モカ〉をベースにすると、柔らかい印象のコーヒーになるのよ。あとは圭くんの好みだけど、〈グアテマラ〉と〈コロンビア〉を脇役にして、隠し味を〈ブラジル〉と〈マンデリン〉にするといい感じになりそう」
佳奈子はすらすらとアイディアを出していく。その配合は
「分量はどうしますか?」
「それは、実際に淹れながら決めていきましょう」
圭は秤においたカップに、佳奈子が言った通りの種類の豆を入れていった。コーヒーの分量は一杯分が約十グラムだ。ベースになる〈モカ〉が一番多く、隠し味に回った〈ブラジル〉は1グラム程度でしかないが、その量でも味のバランスは大きく変わってくる。ミルで粉砕された豆をドリッパーに移すと、圭がポットを手にとった。
「一度、お手本を見せてください」
佳奈子にポットを差し出して、圭は言った。ブレンドの仕方もそうだが、圭が不安に思っているのはコーヒーを淹れる作法全般なのかもしれない。
「まずは、豆の表面を均すことからね」佳奈子はドリッパーを軽く叩き、でこぼこを取り除いていく。「そうしたら、お湯を入れるんだけど、大切なのは最初と最後だけよ」
「最初っていうのは蒸らしってやつですか?」
「あら、知ってるじゃない。お湯は細く細く、それで、まずは表面が膨らむくらいで止めて、少し待つの」
佳奈子は喋りながら丁寧にお湯を注いでいく。みるみるうちに豆の粉がお湯を含み、細かな気泡を帯びて浮かび上がってくる。耳を澄ませていると、泡が生まれるほこほこという音と、泡が弾けるぱらぱらという音が交互に聞こえた。
「そうしたら、今度はその中心めがけて、ゆっくりとお湯を置くの。『の』の字を書くようにね」ポットの注ぎ口からきらきらとしたお湯が静かに溢れ、じわりとその高まりを濡らした。しばらくするとドリッパーの底から琥珀色のコーヒーが滴り落ちてくる。
「しばらくはこのまま、淵にお湯がかからないように気をつけてればいいから、簡単よ」
結衣はその光景をじっと見ていた。佳奈子のようになれたら、そう思って仕事の合間に盗み見ることが何度もあった。手首や肘の回転、ポットの角度、どれだけイメージを膨らませても、自分でやってみるとそれ通りにならない。圭の作業がうまく行かず、でも何も手助けができない自分を見ているのが嫌になったのも、今日ここに来た理由なのかもしれない。
「難しそうですよ、やっぱり」
圭も顔をドリッパーに近づけて、じっとその様子を見ていた。
「慣れれば平気よ。そろそろいいかな」佳奈子はサーバーの目盛りを見ながら、ポットを上げると同時にドリッパーを素早くサーバーから外した。「最後まで出し切っちゃうと雑味とかも一緒に出ちゃうから、勿体ない気もするけど、ギリギリまでお湯を注いで、すぐにやめるのがコツ、かな」
サーバーから沸き立つ香りは、やはり佳奈子の淹れるコーヒーとは違い、軽やかで明るい印象だ。確かに圭のイメージに近いとも思いながら、結衣はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
匂いにさえすがりたいほどに、圭を遠くに感じた。圭がどこかに行ってしまう。そんな強迫観念に駆られている。
結衣の戸惑いや逡巡をよそに、カウンターでは圭がポットを持ち、ドリッパーに湯を注ぎ始めた。蒸らしのあと、いよいよ本番とばかりに圭の腕が上がる。「落ち着け、落ち着け」と呟きながら、ドリッパーの内側をじっと注視する。漂い始めた静寂な芳香の向こうで、圭の目が熱い輝きを放っていた。それは圭が仙台にインターンシップから帰ってきた時に見た目の色と同じだった。圭の窮地を救う手立てが他に思いつかなかったとはいえ、今日こうしてここに来なければ、圭のそんな姿も、自分の焦りも、何もかも感じずに済んだのに。
「結衣、これ飲んでみてよ」
圭が自分でドリップした一杯を結衣に差し出した。温かいカップを手にとったのにも関わらず、結衣の掌は霜が降りたように急速に冷えていった。
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