第26話 処暑 後編

 コーヒーを淹れている間、カフェには一時の静寂が訪れる。佳奈子の手の動きをトレースするように湯がポットの注ぎ口から細く伸び、ドリッパーに吸収されていく。九十度程度の湯が細かく挽かれた豆からエキスを吸引し、琥珀色を帯びたコーヒーとなってサーバーに滴り落ちていく。一滴のコーヒーがその香りをカフェ全体に拡散させていく。結衣の意識は佳奈子の手元に引き寄せられ、その瞬間だけは、圭のことを考えなくて済んだ。


 佳奈子はカップにコーヒーを注ぎ、結衣にバトンを渡す。結衣はソーサーをカウンターに置き、コーヒーカップを静かに果帆の前に差し出した。湯気が儚げに揺れている。盛りを過ぎた夏を揶揄するように、熱さを強調するカップを持ち、果帆がゆっくりと口をつけた。

「やっぱり美味しい」わずかに口角を上げ、果帆の口が緩く閉まる。カップを持ったまま、果帆が物憂げな視線を結衣に向けた。見透かされているようだった。そう感じるのは、単に自分が心のうちに煩悶を抱えているからかもしれない。


 圭は今、仙台にいる。七夕祭りの日に行ったばかりだというのに、先週から、地元の商工会議所が主宰するインターンシップに参加しているのだ。インターンシップそれ自体は珍しいことでもない。結衣自身、去年の夏に出版社が主宰する三週間の就業体験に参加していた。今年はどうしようか、そんなことを考えているうちに、応募の機会を逃してしまった。

 圭がインターンシップに応募したのは今年の春ころだったらしい。結衣と出会ったころには、圭はそのことを決めていたし、仙台に行ったあの日の夜、改めて説明されていた。


 圭が帰ってくるのは来週だ。今頃、商店街を走り回り、イベントなり企画なりの調整に苦心しているのかもしれない。働くということがどういうことか、それを知るきっかけとしてのインターンシップでも、ロールプレイをしているだけではないということは毎晩入ってくるメッセージで知ることができた。初めての体験を困惑しながらも楽しんでいる様子が、跳ねるような文章から滲み出ていた。

 全ては初めからわかっていたことなのに、遠くにいるというだけで、どうしてここまで胸が騒ぐのだろう。最初の頃は楽しみで仕方がなかった圭のメールが、今は疎ましくさえ感じてしまう。楽しそうな圭を想像するたびに、そこに自分がいない現実を突きつけられる。結衣は、激しく浮き沈みを繰り返す気持ちを宥めることができなかった。


 カチッという音が聞こえ、結衣は目を瞬いた。果帆が持っていたカップをソーサーに置いた音だとわかり、視線を上げた結衣の目に、果帆の熱い瞳が映った。いつもと同じ色の瞳、そこに映る自分の顔が惨めに歪んでいる。

「圭くんのこと心配?」

 果帆の声が結衣の耳に入った。すぐにはその意味がわからず、結衣は呆然と果帆の顔を見た。柔らかく微笑む瞳の茶色い虹彩にカフェの照明を反射させ、果帆は普段と変わらない姿でそこにいた。


「心配って……。別に、そんなんじゃ」

「じゃあ、寂しいんだ」

 寂しいと決めつける割に、果帆は笑顔だった。もしかしたら面白がっているのか、そう思うと恥ずかしくなる。子供っぽい感情だということくらい、果帆に言われるまでもなく、自覚していた。

 変わってしまったのは自分なのだ。恋愛には頓着しないタイプだと思っていたのに、今では圭が遠くにいるというだけで心配だし、寂しさに打ちひしがれている。


「三週間」

「長いね」

「……うん」


 付き合う前でさえ、週に何度かは顔を合わせ、同じようなペースで過ごしてきた身に、唐突に訪れたこの三週間という時間が強い喪失感を与えていた。初めからわかっていたこと。頭では理解していても、ただこの三週間を乗り切ればいいと割り切れないのは、仙台のインターンシップという現実が暗に示す未来、それを考えてしまうからだということも、結衣はわかっていた。わかっていても、ただ待っているだけの自分が歯痒かった。


「難しいね」

 果帆も、その意味に気づいているのだろう。一時の喪失感とは違う、決定的な何かが始まってしまったような気がして、それが結衣を縛り付けていた。

「うん」


 結衣は頷くしかなかった。

「でも……」果帆が何かを言いかけ、そのまま口を閉じた。

「でも?」

 果帆の言葉の続きが聞きたかった。結衣はじっと待った。果帆のコーヒーは半分くらい残っていたが、もう湯気は上がっていない。

 夏が終わろうとしていた。

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