第27話 白露 前編
「そろそろお店開けようかしら」佳奈子は手を叩き、エプロンの端を整えた。ドアのガラス窓から差し込む光が少しだけ眩しかった。太陽の軌道が少しずつ下がっている。日差しはまだ力強くても、地球は律儀に太陽の周りを回っていて、季節を推し進めていく。普段は意識をしないことでも、ふとした瞬間にこうして感じることができるのは、やはりここが特別な場所だからなのだろうか。
「はい」
椅子の位置を直していた結衣はホールを離れ、店のドアを開けた。空気は暑くても、柔らかくなっているのがわかる。結衣は一度大きく息を吸い込んだ。それだけで元気が出てくるから不思議だった。フックに掛かっているプレートをひっくり返し、『OPEN』を見せるようにして、ドアを閉じた。
開店からしばらくは誰も来ない。結衣はカウンターの片隅に立ち、じっとしている。不意に呼吸を止め、静かにゆっくりと吐き出す。自分の呼吸をカフェの呼吸と合わせる姿をイメージする。緊張と弛緩を行き来する時間は、まるでカフェがまどろみの中にいるようだ。
上下する胸の中で、結衣は圭のことを思った。仙台から無事に帰ってきた圭を笑顔で迎えた自分に、何かを言う資格はなかった。心配も寂寞も全てはなかったことにする。その方が簡単で賢明だと、自分に言い聞かせた。そうしてあの時の「でも」の続きを封殺することで、結衣は圭と再び向き合うことができた。
夏休みの期間、結衣は春と同じく、オープンからクローズまで店で働くことにしていた。週に四日のシフトもいつもと変わらない。サークルの飲み会前に果帆が寄ることもあるし、夜には圭が迎えに来てくれる時もある。誰かがドアを開くたび、結衣はもしかしたらと想像をしてしまう。アルバイトを始めた頃は考えもしなかったことだった。いつの間にか、自分の周りには、自分のことを気にかけてくれる人ができた。自分も同じ気持ちで接することのできる人たち。個人的な感情を簡単に排除できるほど、結衣は器用ではなかった。だから、まどろみから立ち上がるようにドアの鈴が鳴ると、結衣は素早くカウンターから離れ、ドアに近づく。
ドアから覗く顔はよく知っていた。
「春菜さん、いらっしゃい」
春菜が来るのは珍しいことではない。路地裏にひっそりと佇む《カフェ・ラ・ルーチェ》からは大通りを挟んで反対側、その通りに面した場所に店を構える春菜は、休憩と称してカフェにやってくる常連だ。同業他社、どちらも個人経営のカフェにあっては、直接的なライバルであり、それ以上に二人はよい仲間だった。度々佳奈子を訪ねてきては、この学生街の未来について、カフェの将来像について、気軽に話をして帰っていく。
ただ、いつもと違うことがあるとすれば、そうして店にやってくるのは大抵ランチタイムとティータイムの間、どちらの店も比較的閑散とする時間帯だということだ。朝からやってくるのは珍しい。
「あら、今日は早いのね」カウンターから佳奈子が意外だと声をかける。事前に連絡を取り合わないのもいつものことだ。まるで井戸端会議のように、二人の間に話題は尽きない。春菜は「ちょっとね」と佳奈子の正面に座った。結衣がすかさずおしぼりと水の入ったグラスをカウンターに置く。
結衣に礼を言いながら、春菜はバッグを弄り、クリアファイルを取り出した。
「これ、やってみない?」春菜の声が一オクターブほど上がる。結衣は、佳奈子の正面に掲げられたファイルを横から覗き込んだ。鮮やかな青色に塗られたポスターに浮かぶ文字に目が留まる。
「学園祭、ですか?」
「そう。結衣ちゃんの大学」
結衣の通う大学では、例年十一月初旬に学園祭が執り行われる。学生が主体となった、比較的規模の大きいイベントだ。色々なサークルが所狭しと店を出し、ステージではアイドルや歌手が歌ったり踊ったり、芸人が漫才やコントをしたりと、二日間の行程は多彩だった。
「出店はできないわよ。日程はともかく、設営する機材とか、うち持ってないし」佳奈子が掌を力なく振った。「それに学生さんの邪魔をしちゃ悪いでしょ」
「そうじゃないの。ここ、よく見てよ」
春菜の細い指先が、ポスターの一点を差した。地域の皆様へ、と題して、実行委員会からの嘆願が書かれていた。
「店舗の提供?」
そこには確かに、学園祭期間中に店舗のスペースを提供してほしい、という旨の文章が並んでいた。
「最近は団体数が多くて、大学の教室とかだけじゃ足りないんだって」
「そうなの?」
「そういえば、果帆が言ってました。出店も展示も全部抽選で、当たらなかったら目も当てられないって」
その抽選はかなり熾烈でシビアらしく、どれだけ伝統のあるサークルでも、外れたらそれでおしまいなのだという。各団体で一票しか応募できないため、中には複数のダミー団体をでっち上げ、それでどうにか出店権を確保するようなサークルもあるらしい。
「最近の学生さんも大変なのよ。それで、例えば展示場所だったりステージだったり、そういうのを貸して欲しいってこと、みたい」
春菜の言いたいことがなんとなくわかってきた。つまり、それを一緒にやらないか、ということらしい。思案顔になった佳奈子が結論を出すまでに、あまり時間はかからなかった。
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