第3章 秋
第25話 処暑 前編
ドアの向こうで雨が激しくアスファルト叩く音がする。雨は強く弱くを繰り返しながら、ずっと降り続いていた。先週末に台風が三つも発生して、それが日本の周りの空気を引っ掻き回しているらしい。すっきりしない天気は結衣の気分を多少なりとも滅入らせていた。
大学が夏休みの期間になっても、さすがに春とは違い、客足がめっきり減るということはなかった。人は暑さと雨を嫌い、代わる代わるカフェにやってくる。それを迎えるのが、結衣たちの仕事だった。
「《ブレンド》お二つ、お持ちいたしました。ごゆっくりお過ごしください」
決まったセリフを言い、決まった動作でカップをテーブルに置く。そういう繰り返しの中で、季節が過ぎていく。カフェで働くようになってから、とかく結衣は季節の変化に敏感になっていた。コーヒーの注文がホットからアイスに変わるタイミング、季節のスイーツを提供するタイミング、それらはすべて気温と湿度の変化で断続的に変わる。これを見極め準備するのも、カフェを運営するためには大切なスキルだった。
「いやな天気ね」佳奈子がカウンターから身を乗り出し、ドアの向こうを見て言う。「蒸し暑いし、秋にはまだ遠いわね」
「八月だし、仕方ないですよ。私もここに来るだけで汗べとべとだったし」
季節の変化とっても、一日単位で見ればほとんど気がつかない。振り子が揺れるように、行ったり来たりをしながら移ろっていくのが気候だ。人の気持ちもそうなのだろうか、と詮なく考える結衣を尻目に、佳奈子はほうっとため息をついた。
「雨だけでもね……。でも、そういうわけにもいかないか」
よほど最近の天気に堪えているらしい。佳奈子はポットを火にかけ、ブレンドの準備を始めた。昨日から、急にホットを注文する客が増えてきた。いくら暑くてもホットを頼む客というのもいるのだが、それに加えて、先週までアイスを注文していた常連客の中にも、ホットを希望する人が何人かいた。今日のような天気に辟易しているように見えて、佳奈子はちゃんと事前にブレンド用の豆やペーペーフィルターを発注し、備えていた。
「これ、二番テーブルのお客さんに持っていって」
佳奈子が湯気の上がるカップとソーサーをトレーに乗せ、それを結衣が静かに持ち上げ、客の元へ届ける。
時間が経つにつれ、雨は少しずつ弱まっていった。台風が遠くへ過ぎていったのだろう。外が静かになり、代わりに佳奈子の調子はよくなってきた。常連客と楽しげに談笑する姿を見て、結衣はひとまず安心した。カフェの雰囲気そのもののような佳奈子の笑顔が、不快な湿気を追いやっていく。カフェの活気がそうして戻って来た頃、果帆が店に入ってきた。
「雨、上がったね」
カウンターについた果帆が微笑んだ。
「よかった。大変だったんだよ。佳奈子さん、昨日からずっと調子が悪くて」
横目で佳奈子の様子を伺った。カウンターの反対側で常連客を前に笑顔でコーヒーを淹れる姿が目に映った。ドリッパーから上がる湯気に照明が反射したように見えた。コーヒーの香りがこちらまで漂ってくる。またホットコーヒーの注文が入ったようだ。
「気圧が低いとテンション下がるもんね」
「佳奈子さんのはちょっと極端だけどね」
結衣はカップを手に取り、布巾で磨いた。ひとつずつ水気を払い、棚に戻していく。これから少しずつ出番が増えていくのだろう。大切にしなければ、と丁寧に静かに取っ手の位置を揃えた。よし、と心の中で呟き、結衣は果帆に向き直った。そのタイミングで果帆が顔を上げた。
「果帆、《アイスコーヒー》でいい?」
「今日はホットにしておく。《ブレンド》をひとつちょうだい」
迷いなく言う果帆の目を、結衣はしばらく見つめてしまった。途端に恥ずかしくなり、「うん。わかった」と慌てて視線を外すと、佳奈子にオーダーを伝えた。
提供するコーヒーの温度が違うことは、ちょっとした変化でしかないのだろう。変わったことはその程度なのだと、結衣はじっと自分に言い聞かせた。圭がそばにいなくても、それは変わったうちに入らない。圭はただ、自分のやりたいこと、それを見つけるために出かけていっただけなのだから。
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