第21話 大暑 前編

 例年なら梅雨明けしているはずが、今年の雨雲はまだ名残惜しそうに上空を漂い続けている。いい加減、すっきりとした空が見たいものだ。青空を見るのは好きだ。ただし、たとえ雨が降っていなくても、空が青くても、レポートとテストに追われるこの期間は三年生になっても好きにはなれなかった。


 今日から本格的に始まった試験期間は来週の金曜日まで続く。レポート課題が多いのは幸いだが、ノートをひっくり返し、果帆が入手した過去問を見せてもらいながら回答を準備するのにも時間がかかる。結衣は昨日までの補講期間中も、ひたすらレポートの作成に追われていた。今日の授業で提出するレポートは二つ、それ以外に教室で取り組まなければいけない論文試験があった。一時限目と二時限目にそれぞれレポートを提出し、昼休みの今は、三時限目に迫った論文試験の過去問を解いていた。


「去年のこの問題さ、同じの出るかな」果帆が不安そうな顔を近づける。それは『ソーシャル・ネットワーキング・サービスが私たちの実生活に関わる事象について、その問題点を記述せよ』という内容だった。ネットの世界と実生活、結び付けるものは何なのか、何が問題なのか。社会学的な問いなのだが、それが出題されているのが『映像と二十一世紀』という科目だということが厄介だった。


「私もそれが出たらどうしようって思ってた」

 出題する講師の気まぐれか、休まず授業を受けていたにもかかわらず、そんな内容の講義は最後まで成されることはなく、授業は終わってしまった。映像世界とSNSのつながりなど考えたこともなかった。これはむしろ過去問の不備、つまり偽物と解釈した方が自然なくらいだった。

「動画投稿サイトってSNSと言えるのかな」

「どうなんだろう?」


 結衣としては、できる限り触れたくないと蓋をしていた設問だった。そうやって自分を言いくるめ、よほど可能性のある『一億総クリエイター時代におけるメディアの役割』に時間を割いていた。すでに使い古された『一億総〜』という言葉の持つ曖昧さとマスメディアの作り出す虚構の大衆、その二つを結び付けるネットワーク社会の脆さや弱さ、そういう論点で考えていると、どうにも自分自身が悲観的になってしまいそうで、これはこれで集中力が散漫になる。

 果帆も結局『SNSが実生活に〜』の設問は諦め、他の設問の準備に切り替えた。「出ても捨て問だ」そう潔く言うあたりが果帆らしい。


 三時限目の『映像と二十一世紀』のテストは、結果から言えば散々だった。よりにもよって『ソーシャル・ネットワーキング・サービスが私たちの実生活に関わる事象について、その問題点を記述せよ』が出題されてしまい、しかも設問がそれを含めて三つしかないという状況に陥ってしまった。この問題を捨ててしまっては、六十六点以上の得点は望めず、加点方式にせよ減点方式にせよ、簡単に六十点を割ってしまう。それでは不可になってしまう。

 可か不可か、その当落点は時に残酷な現実を結衣たちに突きつける。大学生にとって最も恐ろしいその現実を結衣は予感した。そのくらい、うまく書けなかった。


「終わったものはしょうがない」

 テストが終わり、前に座っていた果帆が振り向いた。意外にさっぱりとした顔をしていた。

「だね。これからどうする?」結衣は天秤が可と不可の間を行き来するイメージを振り払いたくて、いそいそとバッグに荷物をしまった。

「夏休みの計画、いい加減に立てなきゃ」

 果帆のさっぱりとした顔は、それを考えていたからなのだろう。試験はまだまだあったが、それでも計画を立てる時間は必要だった。


 夏休みは二ヶ月ある。大学に入るまで、大学生の夏休みがこれほど長いとは知らなかった。八月はまだしも、九月が丸々休みだなんて、一年生の時はそれだけで大学生になってよかったと思ったものだった。

「そうだよね。どうしようか」

 夏休み、三年生の今年が、実質最後の夏休みだ。来年の今頃は、きっと就職活動でそれどころではないだろう。そして今年は、圭と過ごす最初の夏でもある。圭とはすでに、少しだけ予定を立てていた。それを考えるだけで楽しみなのだが、果帆と過ごす時間も大切で、二ヶ月もあると思っていた夏休みがこれほど短いと感じたことはなかった。


「今日はサークルも特に何もないから、お店に行こうよ」

「うちの?」

「うん」果帆が立ち上がる。「その方が、きっと楽しい」

 果帆が言うと本当にそう思えるから不思議だった。計画などどこで考えても変わらないはずなのに、果帆が楽しいと感じられる場所が、自分の一番大切な場所というのが結衣には嬉しかった。


 大学から《カフェ・ラ・ルーチェ》に移動し、最初に思ったのは、雰囲気がいつもと違う、という曖昧な感触だった。具体的にと問われれば、わからないと回答するほかないほどの些細な違和感だった。ドアをくぐった途端、結衣は捉えどころのない寂寥とした肌触りに包まれた。その正体が何かわからないまま、揃って佳奈子に挨拶をし、カウンターに座った。

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