第22話 大暑 後編

「テストはどうだった?」佳奈子がカウンター越しに笑顔を寄越した。同時に首を横に振ると、一層破顔するのが佳奈子らしかった。「いいじゃないの。死ぬわけでもないでしょうに」

 佳奈子にしてみれば、学生の本分といえども所詮は義務でも権利でもないものに縛られている、くらいに思えるのだろう。授業と勉強と単位は全く別物だということくらい、結衣も果帆も心得ていた。単位を取るだけなら、授業に出なくても試験さえクリアすればいいし、授業に出なくても勉強はできる。そして単位はどれだけ授業を真面目に受けていても、取れないことがある。


 佳奈子がカウンターにグラスを置いた。氷の揺れる水面を見ていると、結衣の頭にありきたりな言葉が浮かんだ。

「でも、努力が目の前で水の泡になるのって、結構つらいんですよ」カウンターを挟んで向かい合う佳奈子に向かって結衣が言う。右に座る果帆も、結衣と同じように佳奈子をじっと見つめていた。


「それが普通でしょう? 評価されるってことはそういうことだし、だから成功した時の喜びがあるんだし」佳奈子が嘆息を吐き出す。呆れた、というものとは違う、どこか諭すような響きがあった。わずかな沈黙がカウンターの隅に座る結衣たちを覆った。佳奈子の言っていることは正しいのだろう。努力しても成功するとは限らない。よく聞く言葉だ。それまでの自分の努力を否定し、訪れた結果を甘受するしかない時に頭をよぎる諦めの言葉。それが半期の授業の単位ならば、そうして諦めることができるだろう。しかし、人生をかけた挑戦が失敗に終わった時、それでも自分はそうやって己を宥め、現実に抗おうとする心を言いくるめることができるだろうか。


「佳奈子さんは大人ですよ」果帆の声が耳を打った。果帆が水の入ったグラスを手に取り、そっと口に付ける。グラスに浮かんだ結露がゆっくりと滑り、グラスの底から零れ落ちると、カウンターに雫の跡をつけた。「私たちはまだ、そんな風には思えないっていうか、思いたくないんです」

 果帆、と言葉が漏れそうになる。佳奈子にまっすぐ向けられた瞳は、透き通った輝きを放っているように見えた。

「果帆ちゃんは素直ね」佳奈子はそう言うと、もうお終いと掌をこちらに向け、「アイスコーヒーでいい?」と一方的に言って奥へ引っ込んでいった。


「びっくりした。佳奈子さんにあんな風に言い返すなんて」言いながら、結衣は溜飲の下がる思いだった。果帆だって自分だって、挫折を知らないわけではない。失敗から学んだことも多い。ただ、失敗したらそれで終わりという局面を前に、それでも超然としていられる自信はなかった。失敗の辛酸と成功の甘美、社会に出るということはそのどちらも享受する覚悟が必要ということなのだろうか。

「何でだろ、自分でもわかんないや。子供ですいませんって、あとで謝っといて」

「そういうのは、自分で言った方がいいんじゃないの?」

「やだよ。負けたみたいじゃん」

「やっぱり勝ちたかったんだ」


 果帆は素直だ。佳奈子の言葉が果帆をけしかけたのは間違いなかった。結局は、結衣も果帆も佳奈子には敵わないのだ。佳奈子の言っていたことも、果帆が言おうとしたことも、一般論と具体的事例の間に絡みつくズレに過ぎない。一つの失敗が人生を台無しにしてしまう可能性もあるし、それでも前に進むほかないのが現代社会を生きるものの業なのだ。

 自分も果帆も、大学受験は希望が叶った。もしあの試験に落ちていたら、もう少し佳奈子の言葉が理解できたのだろうか。

「それより、夏休みのことを考えなきゃ」


 果帆がぎこちなく笑い、話題を切り替えた。業であっても、幸い自分たちは学生だ。結果が出る前に失敗した時のことを考えていても始まらないし、何が失敗かなんてその時にわかるものでもないだろう。まだ、何もかも始まったばかりだ。

「はい。アイスコーヒーお待ち」

 突然、聞き慣れた声が聞こえるはずのない場所から発せられて、結衣と果帆は向き合っていた顔を正面に向けた。

「圭くん、どうしたの?」結衣が目を丸々と広げて言うと、「お待ちって、お寿司じゃないんだから」と果帆が被せるようにツッコミを入れる。

「修平さんが体調悪いみたいでさ、今日だけ代役を頼まれたんだ」


 圭がアイスコーヒーの入ったグラスをカウンターに置く。お店で会うのはいつものことだが、これでは立場が逆転しているではないか。自分の最も身近な存在が、決して現れないと思っていたところから登場することほど心臓に負担のかかることはない。

 店に入った時の違和感の正体は修平の不在だったのだ、と気を紛らわせようとした無意識が気づかせた。その人が作る独特の雰囲気は、いつしかその場所の雰囲気を作る材料にもなる。そういう力を佳奈子も修平も持っているのだ。自分にはないその力。それがこのカフェを唯一無二の場所にしている。

「結衣、知らなかったの?」

「うん。今日は、ずっと友達と勉強だって聞いてたから」


「勉強してたら、修平さんから電話がかかってきて」ことの成り行きを話す圭は楽しそうだった。「修平さんの代わりはできないけど、コーヒー出すくらいならできるし、来生のシフトまでならってことに」

「修平さん、大丈夫そうなの?」

「一日寝てれば治るだろうってさ」

 圭の表情からして、そこまで深刻な状態でもないらしい。佳奈子、圭、修平と、立て続けに起こった変化が結衣の思考を拡散させる。


「圭くんは、努力は成功につながるって思う?」

 気づくと、結衣はそう尋ねていた。佳奈子と果帆の擦り切れるようなやり取りの中で、カウンターを挟んでぶつかっていた理想と現実、その狭間に生きている自分たちは、何にすがって毎日を生きているのだろう。大人になるということが諦めることだとしたら、そんな大人になりたくはなかった。

「さっき、そんなこと話してたな」圭は一瞬押し黙り、ひとつ、大きく息を吐いた。「思うよ。そうでなきゃ、悲しいじゃん」


 結衣は漫然と心を苛んでいた鎖が解けていくのを感じた。失敗することはあるかもしれない。けれど、成功を夢見る前にそれを考えてしまうのは悲しい。悲しさを背負って生きるよりは、希望を糧に生きていたい。圭はきっとそう言いたいのだ。

 自分たちはまだ、評価を受けている最中だ。今は最良だと思っている努力の結果がどうなるのか、その現実を知らないだけの中途半端な存在なのかもしれない。それでも、夏のまっすぐな日差しに照らされて、結衣の目の前に広がる世界は確実に広がっている。


 夏がやってきた。それは結衣にとって、かけがえのない日々の途中に過ぎず、それが何より愛おしく感じた。

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