第20話 小暑 後編

「お客さんに短冊を書いてもらうのはどうですか?」結衣が言う。七夕と言えば短冊、簡単な連想だった。考えてみれば、短冊に願いを書くなど、もう何年もしていない。大人になって、そういう願い事はサンタクロースにお願いをするのと同じく、現実との折り合いの中に埋もれてしまった。日本の伝統行事なのだから、大人であっても短冊に想いを託すことがあってもいいのではないか。


「短冊はいいけど、笹はどうするんです? 今から買いに行きます?」真弓が窺う視線を結衣に投げかけた。

「笹に結ぶのはさすがに難しいかもしれないわ。家族ならまだしも、みんなが来るところだし、願いは心のうちにって考える人もいるだろうし。でも、書いてもらうのはいいと思う」

 お客さんには、そういう趣旨をちゃんと説明すれば大丈夫、そんな佳奈子の助言もあって、今日の限定メニューの全貌が決まった。佳奈子は早速、メニュー表にポップをつける作業に取り掛かった。結衣と真弓は七夕限定メニューの告知を書いた黒板をカフェ入り口のイーゼルにかけた。七夕プレート、本日限定。告知はこれが精一杯だ。黒い板に映える白いチョークの文字を眺め、結衣は七夕のことを考えた。


 新暦の七月七日は梅雨の後半にあたる。改暦のために季節がずれてしまったのだから仕方がないが、雨を降らせる雲に隠れて、天の川はおろか夏の大三角形も七夕の夜に見られた試しがなかった。空の上で起こることに天候は関係ないのだが、雲に遮られていたのでは実感が湧かなかった。

 佳奈子の狙いは見事に当たった。夕方、カフェに入ってきた客は、こぞって七夕プレートを注文した。厨房の修平が悲鳴をあげるほど、好調な出足だった。結衣と真弓はオーダーを受けるたび、用意していた短冊とサインペンを持って客のところへ行き、プレートの説明と合わせて短冊への記入を勧めた。中には願いを書いた短冊を笹にかけたいと言う客もいたが、やんわりと断った。願い事はみなさんの心のうちに。それが客の本当の願いを引き出すことにも繋がったのかもしれない。短冊を受け取った客は、真剣な眼差しをその小さな紙に注いだ。


 七夕はみんなに平等にやってくる。東京が雨でも、日本を探せば晴れている場所もあるだろう。たとえ厚い雲に阻まれていても、その向こうではきっと織姫と彦星は巡り合っている。人の想像力はそうして人の想いを乗せて広がっていく。感情の橋を渡す、それが七夕の本当の姿なのかもしれない。愛する人へ想いを馳せる、そういう日なのだ。

 願いは叶うのか、それは誰にもわからない。神頼みは、結局は他力本願でしかないと考える人もいるだろう。結衣も、どちらかといえばそういう風に思ってしまう人間だった。願っただけで自分の希望が叶う人間は、本当に一握りの権力者かお金持ちの人だけだ。自分たち庶民は、そうして願いを言葉で表すことで、自分のするべきこと、できることを認識し、そしてその向こう側にある、できないことを知るのだ。

 それで十分だと思う。今の自分にしても、圭との関係を果帆に打ち明けることができたらどれだけ楽だろうと思い願う一方、それができるのは自分以外いないという現実を突きつけられている。自分も他人も傷つけずに生きていける人間はいないのだ。果帆にこのことを告げ、果帆がどういう反応をするか、それを考えるだけで尻込みをしてしまう自分を、もうひとりの自分が嗤っている気がした。


 果帆が店にやってきた。木曜日の今日は、毎週果帆が訪ねてくる。普段と変わらなくても、結衣は緊張を新たにした。七夕の今日、こうして自身の願いと現実の狭間で右往左往している自分の前にやってきた果帆は、カフェインレスのコーヒーを頼んだ。

「七夕って今日だっけ? 全然意識してなかったな」果帆がメニューを眺めながら言った。結衣はコーヒーを氷の入ったグラスに注ぎ、果帆の前にそっと差し出した。

「七夕プレート、あと少ししかないから、注文するなら早めにね」

 果帆に営業をかけても仕方がないのだが、頭をもたげる圭との関係を紛らわすので精一杯だった。果帆にこれを打ち明けるタイミングはいつなのだろう。織姫と彦星は、自分たちのことを身近な人にどうやって伝えたのだろう。カササギが想いを乗せたように、二人の関係も風に乗って広がっていったのだろうか。

「遠慮しておく。お客さんは他にもいっぱいいるだろうし」

「ありがと。修平さん、さっきからヒーヒー言っているから、助かる」


 修平が忙しいのはいつものことだが、佳奈子は容赦なく修平に仕事を振る。春の一件以来、結衣や真弓が修平のフォローに回ることが多くなった反面、佳奈子はこれまで以上に常連客の相手に時間を割くようになった。今も、佳奈子はコーヒーのドリップを修平に任せ、常連客と話し込んでいる。

「圭くんのことだけどさ」

 果帆がストローの先に指をかけ、氷をくるくるとかき混ぜた。カタッと小さな音がする。「うん」結衣はカウンターの向こう側で俯いたままの果帆をじっと見た。

「付き合ってるんでしょ、圭くんと」

「うん」こちらを見上げる果帆の視線を、今度は結衣が避ける格好になった。まさか果帆の方から話を切り出すとは思わなかった。「黙っててごめん」果帆から指摘されたら、自然と言葉が漏れた。


「いいの。なんとなく、そんな気がしてただけだし。結衣も圭くんも、こういうの苦手だしね」

「苦手だね。私は特にそう」

「私、結衣のことはだいたい分かるんだよ。幸せそうだもん、だから、私も嬉しい」

 果帆の目が潤いを増した。はにかむ顔がいつも以上に綺麗に見えた。結衣の目にも涙が浮かんでいた。心の中に詰まった澱が少しずつ溶けていく。果帆の気持ちを何も考えていなかった自分が恥ずかしく、それでもこうして自分と向き合ってくれる親友の姿が愛おしく、誇らしく感じた。何があっても、果帆は自分の味方でいてくれる。果帆は、願っても手に入れることができない存在だ。

「ありがと」結衣の言葉は音にならないほど静かに目の前の空気を震わせた。


「短冊、私も書いてみようかな」

 果帆がポツリと言った。果帆は何を願うのだろう。果帆の胸の中で、何が芽生え、形になろうとしているのだろう。考える様子の果帆を見ていると、結衣も願いを書きたくなってきた。営業が終わったら、余った短冊をもらってこよう。

 梅雨が明ければ、本格的な夏がやってくる。今年は例年以上に暑くなるらしい。圭と果帆、二人と迎える夏がどんなものになるのか、結衣は楽しみでならなかった。

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