第19話 小暑 前編

 七夕の今日も、結衣は変わらずアルバイトをしていた。梅雨の鬱陶しい雨も、湿気を帯びた風も、カフェの中までは入ってこない。織姫と彦星も、このカフェでなら逢瀬を交わすことができるかもしれない。《カフェ・ラ・ルーチェ》に流れる空気は今日もいつもと変わらず、コーヒーのふくよかな香りに満ち、穏やかに季節を過ごしていた。

「結衣さん、最近いいことありました?」

 ランチの客がひとしきり去っていった頃、カウンターでカップを磨いていた結衣に、真弓が声をかけてきた。無邪気な声色は結衣の胸に絡みつくようだった。


「いいことなんて、そうそうないんだよ、知ってた?」

「なんですかそれ?」

 真弓が怪訝な顔を向けた。結衣に倣い、カップを磨く素振りを見せつつ、体をすうっと寄せてくる。結衣が圭と付き合い始めたと勘ぐっているのだろう。下世話な話題だとはわかっていても、大学生にとってこれほどリアルな話もない。

 恋愛に興味がないと言っておきながら、誰かの心に寄り添う心地よさを感じている。胸の奥にしまっているその感情を、カフェの空気はにわかに周囲へ発散させているのかもしれない。


「私はてっきり菊池さんと何かあったと思ったのに」

 真弓の口から圭の名前が出て、結衣は体を硬くした。

「何かって、それじゃあ、自白を引き出すのは難しいよ」

「難しいですか」

 それはほとんど何かがあったことと同義だったが、真弓はそれ以上追求するのをやめてしまった。結衣が圭と付き合っていることを確信したということだろう。だとしたら、それはそれで寂しい反応だとも思う。

「もう少ししたら、ちゃんと話すよ」


 圭とのことは、誰にも話していなかった。佳奈子や真弓たちには隠すつもりはなかったが、わざわざ報告するのも自慢しているようで、そうして逡巡している間に二週間が経ってしまい、今更言うのも恥ずかしい。

 果帆に告げるのが先だということもある。圭とも友人の果帆には、本当は真っ先に報告しなければいけないのに、どうしても話すことができなかった。果帆に伝えるタイミングを脱してしまい、後ろめたい気持ちが結衣の奥の方でくすぶっていた。


 結衣の言葉に、真弓は曖昧に頷いただけで、そのまま黙り込んでしまった。グラスと布巾が擦れるかすかな音が妙に浮き立っていた。

「結衣ちゃん、真弓ちゃんも、ちょっとこっちにいらっしゃい」

 気まずい沈黙を破ったのは佳奈子だった。厨房から顔を出し、手招きをする。結衣と真弓は顔を見合わせ、それぞれ掴んでいた食器をカウンターに置いた。

 厨房では修平がじっと作業台に向き合っていた。それが春の記憶を呼び起こした。崩れたプリンを前に絶望している修平の背中が脳裏をよぎり、結衣は修平に駆け寄った。ただ、その時とは様子が違うようだった。作業台の上には皿が一枚置いてあった。何も乗っていない、真っ白な皿だった。その周りに、生クリームのチューブや果物など、デザートメニューの材料が並んでいた。


「どうしたんですか? 佳奈子さん」

 結衣が佳奈子に尋ねる。佳奈子の顔には笑顔が浮かんでいた。あの時のような緊急事態でないのは間違いなさそうだ。

「今日は七夕でしょ。何かできないかと思って」

「今日のメニューで、ですか?」真弓が驚いた声を上げる。今日の今日で、何か新しいことを始めるつもりなのだろうか。

「七夕は今日しかないじゃない」佳奈子はあっけらかんと言う。当たり前だと言わんばかりだ。

「七夕ってことは、織姫と彦星とか、短冊とかですか?」結衣は思いつくまま、言葉を並べた。


「そうそう。何か、それを表現できないかなって思って」

 佳奈子の思いつきは今に始まったことでもないが、あまりに急だった。何か。その言葉はつまり、何も決まっていないということだ。七夕を想起させる何か、結衣と圭の間に横たわる何か。何かとは何なのだろうか。形になる前のもの、知覚される前の状況、感情、それらがない交ぜになった、何か——。結衣は佳奈子の嬉々とした表情を見ながら、とりとめもなく考えを巡らせた。

「新しく材料を仕入れている時間はないから、あるもので何とかしたいとは思いますが」修平の声は暗かった。何もアイディアが出てこないのだろう。焦燥とまではいかなくても、夕方の混雑する時間までには方向を決め、形にしなければいけない。時間の制約が修平の判断を急かしているのだ。


 結衣は作業台を見回した。見る限り、冷蔵庫に入っている材料は一通り並んでいるようだった。この中から七夕を作る。頭のスクリーンに材料を並べると、圧縮するイメージが映った。けれど、それだけで何か形になるはずもない。設計図と呼べるものが必要だった。

「天の川なら、どうにかなるかもしれないです」口を開いたのは真弓だった。「生クリームとチョコレートソースで天の川を作って……」

 生クリームのチューブを掴み、白い皿の端から端へ蛇行させながら帯を作っていく。その帯を囲むようにチョコレートを伸ばせば、確かに空に浮かぶ星の爽流を表現することができるかもしれない。

「いいわね。それなら、橋をかければ」佳奈子が真弓のアイディアを引き継ぎ、ケースからミルクレープを取りだし、皿の上に乗せた。

「チョコレートソースを敷くなら、そこにベガとアルタイルを描きましょうよ。ホワイトチョコもあるし」


 結衣の意見で、形がほぼ決まった。佳奈子が「そうしましょう」と言い、修平が早速チョコレートソースを作るべく、板チョコを刻み始める。包丁とチョコレートが奏でる心地よい音色が厨房に響いた。

 修平ひとりでは形にならなかったものも、四人が集まれば実体化する。デザートプレートのイメージができたことで、本体の作成は修平に任せ、結衣たち三人はそれ以外に何かできないか、考え始めた。

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