第18話 夏至 後編

「来生、大丈夫か?」

 待ち合わせの場所、『神楽坂下』の交差点にあるカフェに入った頃には、肩や足元が見てわかるほどに濡れていた。

「大丈夫、ちょっと迷っちゃって」結衣は曖昧な言葉で答えた。ハンカチを取り出し、肩についた水滴を拭う。

「東西線の駅、ちょっと離れているからな」圭はカップに入ったコーヒーに口をつけた。「出口が違うとびっくりするよな、俺もよく迷ってたよ」


 圭は神楽坂には何度も来たことがあるようだった。結衣と同じように地方から出てきても、関心の有無で行動力にも差が出てくるのだろう。圭は自分と知り合う前から積極的にこの東京と向き合い、人と向き合ってきたのだ。

 圭の声を聞いているだけで、落ち着く自分がいた。湿った肩も足元にまとわりつく湿気も気にならなくなる。圭がいるだけで、あの不快感はすっかり鳴りを潜めていた。

「じゃあ行こうか」そう言って圭が立ち上がった。

「うん」


 圭がカフェのドアを開けてくれた。遠ざかっていた雨音がまた結衣の全身を包む。傘を開き、歩道に出る。

「こっち」圭が結衣に行き先を示した。圭の指は、さっきまでずっと下ってきた坂道を指していた。結衣は心の中で再び大きなため息をついた。飯田橋まで電車で来れば、新鮮な気持ちで坂を登ることもできただろうに。

「結構急な坂だね」結衣は自分の中の嘆息を押しとどめ、圭に話しかけた。

「歩道も狭いから、気をつけてね」圭の言葉は優しい。「通り沿いにおいしそうなお店もいっぱいあるけど、今日はとりあえずまっすぐ歩こう」


 圭の後ろをついて歩く。傘を伝って滴る雫の向こうに、少し癖のある後ろ髪が覗いていた。ボディバッグを背負った背中がすぐ目の前にある。圭の後ろ姿をちゃんと見たことはなかった。触れられるほど近くに感じる背中だ。想像より大きな圭の背中が自分を導いてくれる。それを意識するだけで結衣の心臓が強く脈を打った。結衣は落ち着こうと圭の背中から目を逸らし、移ろう街の様子に視線を転じた。

 雨に濡れた神楽坂は幻想的だった。柔らかな照明の下で、着物を着た女性が足早に路地を分け入っていく。スーツ姿のサラリーマンもどこか上品に見えるから不思議だ。そうして周りの風景を眺めていると、前を歩いていた圭がふと振り向いた。


「こっち」

 圭が傘を持った右手を少し動かし、右側に伸びる路地に入っていく。結衣はその背中の向こうに続く路地を覗いた。石畳が続き、突き当たりの手前に旗がかかっているのが見えた。傘をさして並んで歩いたらそれこそつかえてしまいそうなほど、路地は狭かった。結衣は傘を持ち替え、圭の背中に近づいた。そこで圭が立ち止まった。結衣は驚き圭の肩口に手を添えた。思い出したように心臓が大きく拍動した。


「ごめん、急に止まっちゃって」圭が慌てて振り向く。

「こっちこそごめん」自分でも頬が赤くなっているのがわかった。とっさに傘で顔を隠した。

 圭が傘をたたむ気配がした。ここが目的の場所なのだ。火照った顔を圭から背けたまま、結衣も傘を降ろした。傘立てに傘を据えて、圭の隣に立つ。その足元には、小さな看板が立てかけてあった。《サン=ブリユー》と書かれた看板を前に、圭はおもむろに言った。

「ガレットって、食べたことある?」


 圭に連れてこられた店は、席数が十もない、小ぢんまりとした空間だった。テーブルは案内された壁際の場所以外、全て埋まっていた。椅子を引き、座る。

 結衣は店の中を見回した。壁には小さな絵が何枚も飾ってあった。石造りの建物からはヨーロッパの風情が感じられた。そして店の奥には玄関にあったのと同じフランス国旗が掲げられていた。そういえば、ガレットはフランスの郷土料理だったのだと思い出す。

「飲み物は、これがオススメだよ」

 席についた圭は、早速メニューを開いた。結衣の方に向ける。結衣は圭の指先を追いかけた。


「シードル?」聞きなれない単語だった。説明が書いてあった。りんごの発泡酒、シャンパンのようなもののようだ。

「そう。これがガレットによく合うんだ」圭は楽しげだった。二人きりの空間で、圭は普段と変わらない。《café the Isle of Wight》で起こったことなど、すでに忘れてしまっているかのようだ。

「これにする」

 考えないようにしていたことが頭をもたげ、結衣はそれを振り払うようにわざと大きな声を出した。数種類あるシードルの中で、結衣が選んだのは甘めで炭酸も控えめなものだった。


 圭が店員を呼んで注文をした。透き通るほど白い肌の女性だった。翡翠の瞳を結衣と圭に向け、「merci」と言い、奥に引っ込んでいく。

 話題を探しているのか、それともタイミングを探しているのか、圭の視線が店内をさまよう。シードルを選んでいた時の輝く瞳の面影はすでになかった。圭も緊張しているのだと知れ、結衣は少しだけ落ち着きを取り戻した。圭の手元に置いたままのメニュー表を取り上げ、ガレットが並ぶページを開いた。

「ガレットはどれが美味しいの?」

「卵が入ってたり、ベーコンとか生ハムとか、の方がいいと思うよ。お腹もいっぱいになるし」

 圭がめぼしいガレットをいくつか指で指し示していく。日本語とフランス語で書かれたメニューは、そうして指南してくれる人がいなければ、それこそ目移りしてしまいそうなほど豊富だった。


「どれにしようかな」卵、ベーコン、生ハム、頭の中でその三つが交互に自らの存在を主張していた。そうしてメニューを眺めていると、ひとつのガレットが目に止まった。

「《卵とほうれん草とベーコン》のガレット、これ美味しそう」

「うん。いいんじゃない。じゃあ俺は、《卵とチーズと生ハム》」

 ちょうどそこへ、さっきのフランス人女性が陶器のカップを持ってきた。赤い花柄が鮮やかなカップの中でピンクゴールドの液体が気泡を立てていた。涼しげで甘い香りが漂ってくる。

 圭がガレットを注文した。再び「merci」と言って遠ざかる女性を視界の隅に捉えたのもわずかな時間だった。圭がカップを持ちあげ、結衣のカップに視線を送っていた。


 カップの縁と縁を合わせる。ガラスと違い、音よりも振動の方が大きく感じた。二人の気持ちがぶつかったようで、結衣の胸の底が揺れた。口をつけたシードルが喉をかき分け胃に流れ込む。りんごの甘酸っぱい味がした。

 ガレットは食べたことがなかった。以前観た映画の冒頭で、イワシのガレットを食べるシーンがあったと思いつく。その時は、不思議な食べ物もあるのだと感じた程度だった。そば粉のクレープ、それくらいの知識しかなかった。圭に勧められるまま注文したのだが、結衣にはそれがどのような形で提供されるのか、想像することさえできなかった。

「ちょっと時間かかるから、ゆっくり待とう」

 圭の優しい声がした。もっと声が聞きたい、もっとそばで触れていたい。その衝動が大きく結衣を揺さぶっていく。圭が何を想って今日という日に結衣を誘ったのか、結衣にはもとよりわかっていた。それでも安寧と過ぎていく時間を、圭が作ってくれた。気まずい空気を微塵も出さずに、結衣と一緒にいてくれる圭のことが、結衣は好きだった。


「圭くん」結衣はもう、圭が何を語るのか、それを考えるのをやめた。恥や外聞など関係なかった。圭の気持ちを知っているのは自分だけで、それに応えることができるのも自分だけだ。「この間は、嬉しかった」

 あの店で、圭に好きだと告げられた時、首を振るばかりで何も言うことができなかった自分。そんな自分を笑って許し、その日から今日まで、これまでと同じように接してくれた、本当に優しい圭。結衣は圭に甘えてばかりいた。

「私も、圭くんのこと、好きだよ」

 だから、自分も同じ気持ちだと圭に伝えたい。言いたいことが言えなかった自分に手を振って、自分の気持ちと向き合える自分になりたい。今、それがようやく叶った気がした。

 圭は驚いた顔をして、すぐに相好を崩した。嬉しさと照れと喜びがない交ぜの、圭らしい笑顔がそこにあった。




 ガレットが運ばれてきた。フランス人女性が丁寧に皿をテーブルに乗せていく。圭と結衣は同時に身を乗り出し、お互いの皿を舐めるように見て、どちらともなく、自分の方が美味しそうだと主張し、そして笑った。

「Tous mes voeux de bonheur」

 フランス女性が何やら口ずさみ、テーブルを離れた。結衣の関心がその流れるような声に傾いたのも一瞬、すぐに圭の声が結衣の心を引き寄せる。


「美味しいよ、来生も早く食べなよ」

 すでにナイフとフォークを握り、ガレットを大きくカットする圭の手を眺めながら、結衣は大きく息を吸い込んだ。喜びの感情がじわじわと結衣の胸を包んでいた。にじむ視界にガレットを捉え、結衣もナイフとフォークをとった。円形の生地の端を折り返し正方形に成形されたガレットの中央に寝転がる卵を崩し、ほうれん草に絡めてガレットを切る。大きく頬張った拍子に、涙が一筋こぼれた。

 昼の時間が一番長い日、相対的に短い夜は、結衣にとって忘れられない夜になった。

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