第17話 夏至 前編

 雨の音が静かに空気を揺らしていた。緩急を繰り返し降り続く雨が街を覆い、地面を叩く。結衣は食堂の入った校舎のドアのたもとで、さっきまで一緒に食事をしていた果帆を見送りながら、降りしきる雨を眺めていた。果帆の姿が建物の脇に隠れたのを見届けて、ゆっくりと傘を開いた。

 校舎を離れるにつれ、傘を打つ雨音が少しずつ大きくなっていく。六月の下旬に差し掛かった途端、梅雨前線はこれまでの自分の態度を改めたように、意気揚々と雨を降らせていた。義務感に苛まれた雨雲は執拗に結衣の頭上に居座り、生暖かい空気を伴って泣き続けた。


 雨は好きではなかった。片手でバッグの口元をつかみ、もう片方の手で傘を持っていると、どうしても腕に水滴が飛んでくる。両手が塞がっている状態では雨粒を拭うこともできず、そうして徐々に侵攻してくる不快感が結衣の決意を乱していく。

 自分の決意がどれほどのものか、結衣はわからなくなる。いや、決意と言っても、果たして自分から言いだすのが正しいのかどうかさえ怪しかった。圭と食事に行くだけのこと、それだけのことで、嵐の中に入ったような強い風が結衣の中で吹き荒れていた。


 普段であれば、火曜日の今日は果帆と昼食を食べ、午後の授業に出席する果帆を送り出せば、あとは一人で夜まで過ごす日だった。アルバイトのシフトも入っていない、完全な休日だ。一人で映画を観ることもあったし、喫茶店で小説を読んだり自室でネット配信のアニメをチェックしたり、そうして何も考えずぼうっとする日。一週間のうち、果帆と離れて過ごす唯一の時間と言ってもよかった。

 圭がこの日を選んだことは、きっと偶然ではないだろう。一週間単位で移りゆく大学生活を共にしてひと月以上、自身の行動パターンを圭に話したこともあったし、果帆への無用な気遣いを避けるとすれば、火曜日の今日というのはむしろ必然だった。


 今日、圭と食事に行くことを果帆には話さなかった。そもそも、五月に《café the Isle of Wight》で会ったことも話していない。果帆に隠し事をしている自分が後ろめたかった。果帆と圭の間に何があるわけでもないのだから、話したところで何が変わるでもないし、話さなかったとしても気に病むことはないのだが、どうしてもそのことを考えてしまう。

 果帆と何を話したのか、よく覚えていなかった。普段から聞き役に回ることの多い結衣であっても、胸に秘めごとを抱えているだけでこれほど果帆との会話がそぞろになるとは思わなかった。果帆には申し訳ないことをしたと反省する反面、余裕のない自分にも驚いていた。自分は何を想い、何を期待しているのだろう。


 圭との待ち合わせは夜の七時だった。ちょうど太陽が沈む時間だ。その時間まであと六時間ある。映画、読書、アニメ、そのどれも気が進まなかった。気を紛らわせたいのに、それさえも沸き起こる不安の前に霧散していった。

 結衣の足は、気づけば《カフェ・ラ・ルーチェ》に向かっていた。路地の裏手にあるカフェの扉を開ける。毎日のように通い、働いている場所なのに、今日だけはどこかよそよそしく感じた。まるでここにいてはいけないと結衣を諭しているようだった。


「あら、いらっしゃい」佳奈子が作業の手を止め、結衣を迎えた。「今日はひとりなの?」

「えっと。はい」

 結衣は開いているカウンターについた。佳奈子が水を持ってくる。その目がどうしたの、と訴えている。果帆にはできる隠しごとが、佳奈子にはできる気がしなかった。

「今日、圭くんと食事に行くんです」

「二人で? 珍しい」

「なんか、緊張しちゃって」


 口にして初めて、自分が緊張しているのだとわかった。原因と結果で言えば、それは結果だった。原因に想いを馳せようとすると、途端に体が硬くなってしまう。触れられるほど近くにいる圭を想像すると、心臓が早鐘を打つ。それだけのことで、コップを持つ手が震えてしまう。水を口に含む。頬の内側が渇いていた。

 佳奈子は意外そうな顔を向けたのも一瞬、わずかに微笑むとカウンターの奥に下がっていった。佳奈子はきっと気づいているのだ。隠すもなにも、結衣のことはお見通しということなのかもしれない。


 佳奈子がアイスコーヒーを運んできた。「はい、これはサービス」佳奈子がふふふと温かく笑う。からんと氷が音を立てた。六月になり、アイスコーヒーが似合う季節になったとふと思った。銅製のコップはすぐに中のコーヒーによって冷やされ、細かな結露を表面に浮かべた。

 目に見えなかった水蒸気が温度の低下によって凝縮するように、圭への想いは上昇する熱を受けて結衣の心の中で確かにその姿を現すようになった。熱くなる前から、その気持ちはそこにいたのかもしれない。水蒸気と同じようにたゆたう気持ちは最初からあって、圭に誘われる前から、自分はそれを望んでいたのかもしれない。


 アイスコーヒーは冷たく、ストローで吸い込むたびに結衣の喉を潤し、食道が冷やされた。それでも、熱く脈打つ鼓動は収まる気配がなかった。

 圭との待ち合わせ場所は、『神楽坂下』という場所だった。結衣にとって、神楽坂というのは近寄りがたい街だった。大学からまっすぐ続く道を歩けば着くようなところにあるのに、結衣はこれまでそちらに足を向けたことはなかった。雑誌やテレビの中だけに存在する場所、結衣には、東京全体がそういう街の集合体だった。


 圭からのメッセージによれば、東西線の飯田橋駅で降りて、指定の出口に出ればいいということだった。神楽坂に行くのに、飯田橋とはどういうことだろう。結衣は高田馬場駅の券売機の前で、路線図を見ながら首を傾げた。飯田橋のひとつ手前には神楽坂駅がある。圭が間違えたのだろうか。

「神楽坂、神楽坂でいいよね」結衣は小さな声で自分に言い聞かす。改札を通り、ホームに出た。待ち合わせの時間まであと三十分あった。早すぎる気もしたが、これ以上どこかで時間を過ごしていたら、根が生えてしまいそうだ。


 列車はすぐに来た。大学最寄りの駅を通り過ぎ、神楽坂に着いた。長い階段を上る。途中にもうひとつホームがあった。上下線がまさに上下に重なっているのかと、結衣は感心する。長い階段も、そうして原因がわかれば納得できる。階段を一段ずつ登りながら、一日中考えていたこれからのことを再び想像する。圭と何を話そう。圭に何と話そう。圭は何を語るだろうか。自分は圭に何を望んでいるのだろう。

 とりとめなく考えているうちに改札をくぐり、出口にたどり着いた。神楽坂だ。歩道から伸びた街灯が、地面を打ち付ける雨粒を照らしていた。傘をさす。雨は昼間よりも幾分落ち着いているように思えた。

 地下鉄の出口は坂道に面していた。向かって左側が下り坂だ。神楽坂下というのだから、下った先が待ち合わせの場所だろう。結衣はバッグの持ち手を握り、歩き始めた。


 坂道はずっと続いているように見えた。途中に交差点があり、赤く灯る信号に『神楽坂上』の文字を見つけた時、結衣は己の間違いに気づいた。もちろん、下り坂はまだずっと続いていて、自分が神楽坂の最上部から降りてきているのだとわかったのだ。道の脇に寄り、スマートフォンを取り出す。地図アプリを起動させ、現在地を表示させる。飯田橋の駅を探すと、それは『神楽坂下』の交差点のすぐ近くにあった。

 圭は何も間違っていなかったのだ。はあ、とため息が漏れる。圭の言う通りにしていれば、こんなに雨に濡れることもなかっただろうに。何も知らない自分が恥ずかしい。信号が青に変わり、結衣は早足になる。待ち合わせの時間まであと十分しかなかった。

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