第16話 芒種 後編

「調子いいね、二人ともさ」結衣は思わず言った。揃って顔を上げ、首をかしげる圭と果帆の苦笑を見て、結衣は笑った。手が止まった二人をよそに、結衣はナイフをつかみ、パンケーキとヨーグルトを一思いに切る。メープルシロップの甘さとパンケーキの舌触り、そして冷たいヨールグルトの酸味が、まさに一体となって口の中で踊りだした。

 フローズンヨーグルトには、ドライマンゴーが入っていた。《カフェ・ラ・ルーチェ》で修平が振る舞っているヨーグルトと同じだった。酸味の中で甘みが引き立つ。複雑に絡み合う味の饗宴が結衣たちを包み込んでいた。


 圭と果帆は、さっきまでのギクシャクした雰囲気などまるでなかったかのように、隣り合ったまま仲良くパンケーキを食べていた。結衣は、そんな二人を羨ましく思う。

 臆病な自分を飼いならしているだけではなんにもならないことくらい、わかっているつもりだった。圭の好意に応えることができなかった自分。そのくせ、圭の仕草や表情に惹かれている自分がいることも事実だった。見栄を張らず、いつでも素直な圭。果帆に何を言われても、果帆を傷つけるようなことは言わない。結衣に対しては、いつでも優しかった。自分で作った壁を壊せないというのは、結局はそんな圭に甘えていただけなのだと、結衣は気づいた。


 ずっとずっと、そうして逃げてきた。誰かを好きになることから、誰かを愛することから、自分を遠ざけてきた。それは単に興味がなかったという一言で片付けることができるものではなかった。恋の熱が冷めてしまうのは、相手が嫌いになるからではなく、誰かに恋焦がれる自分が不安だったからだ。恋という熱情が、本当に本当に、自分の内側から溢れ出てくるものなのかわからなくなるのが怖かったのだ。


「どうしたの、結衣」唐突に発せられた果帆の声に直前の思考はすぐにかき消された。結衣ははっと視線を上げ、すぐに下げた。パンケーキが半分くらい残っていた。視線をさまよわせる。果帆と圭の前の皿も、だいたい同じくらいだった。いつの間にか、二人に追いつかれていた。「お化けに気分を害されているようですよ」果帆は芝居じみた口調で圭をなじった。

「そんなことないよ。ちょっと考え事しちゃって。ごめん」


 まっすぐ圭を見ることができなかった。結衣はすぐに視線をパンケーキに向け、フォークを突き立てる。ヨーグルトは少し溶けていた。ナイフがパンケーキを押し込み、間からヨーグルトが零れ落ちた。

「映画、来生の観たいやつにするか?」

「いいよ。時間が合わないだろうし、圭くんずっと観たいって言ってたでしょ」

 圭の視線を額に感じた。それでも結衣は、顔を上げこそすれ、圭の目を見ることはできなかった。


「やっぱり、私には聞かないんだ」果帆がいつもと同じ、尖った言葉を圭に投げかける。圭はその刃をはらりと避ける。

「佐藤、早く食べないと、溶けるぞ」

 果帆はひどく不満そうな顔をし、パンケーキを乱暴に頬張る。結衣は自分の中の張り詰めた気持ちが弛緩していくのを感じた。果帆が圭に対して常に自然体で居られるように、自分もそうしていられたら。

 どうしてだろう、今日はずっと、こんなことばかり考えている。どうしてだろう、今日なら一歩、踏み出すことができる気がした。

 三人揃ってパンケーキを食べ終えた。最後のひとかけらまで美味しさが詰まっていた。スイーツは不思議だと思う。甘みという味覚が、これほど人を惹きつけ魅了することに、一体誰が気づいたのだろう。


「お手洗い行ってくるね」果帆がナプキンをテーブルにあげ、席を立った。前にぽっかりと空いた空間をしばらく見ていると、圭が少しだけ体を前に乗り出した。

「来生、この前は、その」

 圭の顔は、冗談を言い合っていたさっきまでと違い、真剣さと悔恨を宿しているように見えた。何を言おうとしているのか、結衣にはすぐにわかった。

「いいの。気にしないで」結衣はとっさに圭の言葉を遮った。手を胸の前にあげ、首を横に振った。圭にそれ以上言わせたくなかった。自分から何かを言わなければ。その気持ちが先走っていく。「私、どうしたらいいか、わからないの」


 ずっと心の中で考えていたことが口からこぼれた。けれど、これは圭には言ってはいけない言葉だ。

「そっか」

 圭の声は遠くに聞こえた。いつもこうだ。言っていいことと悪いことの区別がつかず、自分の心もわからず、そうして人を傷つけ、知らぬ間に、身も心も離れてしまう。

 でも、今日は違う。違うと信じたい。甘味は人を幸せにし、勇気を与えてくれる。そう信じたい。

「圭くん、その……」言ってはいけないことはするすると口から零れるのに、言いたいことはまるで海に溶けてしまったように、手で掬っても指の間から滑り落ちてしまう。結衣が歩んできた道は、いつだってその繰り返しだった。圭ともそれを繰り返してしまう。その恐怖が、結衣を臆病にさせていた。


「来生、今度、また食事に行かない?」

 思いがけない言葉だった。自分が言おうとしていた言葉。今度こそ自分から言おう、そう思っていたのに。

 結衣は、圭の目を見た。まっすぐ向けられた瞳の向こう側に、自分自身の姿が見えた。笑っているのがわかった。瞳の中に映るそれは、蒔かれた種のように、まだ小さくあどけない。けれど、その色は明るかった。圭の瞳の中で大きく穂を伸ばすその時を、じっと待っているように思えた。

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