第15話 芒種 前編

 東京で迎える夏は今度が三回目だ。内陸都市の片田舎と違って、東京の夏は信じられないくらい暑かった。去年も一昨年も、日差しは暴力的な厳しさで結衣の顔や肩を焼き、空気は猛烈な湿気を含んだ熱風となって体にまとわりついた。アスファルトの照り返しが足を焦がし、わずかな時間外に出ただけで汗が噴き出してくる。大都市特有のヒートアイランド現象を文字どおり肌で感じる日々だった。まるでオーブンの中に放り込まれたように、日差しも風も地面も等しく熱くたぎっていて、果たして自分はこの夏を超えられるのか、毎年そんな不安がつきまとっていた。


 六月になり、夏の片鱗は徐々に空気を変えているように思えた。地球がお辞儀をしながら太陽の周りを移動するだけで、これだけはっきりとした四季ができる。春夏秋冬の中で、結衣は夏が苦手だった。

「夏になっちゃったね」結衣は浮かない顔で言った。

「明日あたり梅雨入りっぽいし。憂鬱だ」果帆の表情も似たようなものだった。下唇を突き出し、膝に肘を乗せ、前かがみの姿勢になる。


 アルバイトをしている《カフェ・ラ・ルーチェ》が休みの今日、いつものようにウインドウショッピングをして、新宿駅に隣接する商業ビルに入っているカフェで時間を持て余していた。夏物目当てに繰り出したのだが、どうも目に留まる服が見つからなかった。先週も今週も、気持ちがそぞろになっているのを感じていた。

「そうか? 夏もいいじゃんか」果帆の隣で圭が暑さを吹き飛ばさんばかりの爽快さで果帆の言葉を打ち消した。

「圭くんって仙台でしょ? 似たようなものじゃないの?」

 長野と仙台、多少の違いはあれど、育った環境には通じるところがあると思っていた。内陸性気候の傾向が強い長野は、時にフェーン現象で暑い日もあるが、東京ほど極端ではない。仙台がいくら太平洋に面しているとはいえ、東京の夏と比べたらまだ可愛い方だろう。


「俺は七月生まれだから、夏は好きなんだよ」

「そういうもんかな」

 結衣は考えるふりをした。圭と会話をしていると、ふわふわとした気持ちになる。前までは、そんな風に思ったことはなかった。買い物に集中できないのも、こうしていつからか、圭と一緒に行動することが増えたからだ。

「それよりさ、まだなのかな。早くしないと、映画始まっちゃうよ」圭が腕時計を見る。果帆と二人で過ごすのがほとんどだった週末は、圭が参戦したことで毎週何かしらイベントが発生するようになった。映画鑑賞がイベントと呼べるほどに何もなかった週末が、季節が移ろうように、確実に変化を遂げようとしていた。


「ホラー映画でしょ? なんか気が進まないな」果帆がため息をつく。

「じゃんけんで決めたんだから、文句言うなよ」

 映画にしても、三人集まれば意見が割れる。それも今回は三人とも別々の映画を観たいと言ったのだから始末におけなかった。結衣は陸上を題材にした青春映画が観たかったし、果帆は昨日封切られた恋愛映画が観たいと主張していた。圭の推した漫画を原作としたホラー映画は、映画としての評価はいいのだが、いかんせん興味がなかった。

 カフェでの待ち時間はそうして話をしているだけで過ぎていく。不満げな顔を隠そうともしない果帆と、そんな果帆をからかう圭の顔を交互に見た。


 いつかのカフェでの出来事が結衣の脳裏に浮かんだ。照れた様子で結衣を見る圭、静かに流れるユーロビート、氷がすっかり溶けてしまったアイスティー、何と答えていいのかわからず、呆然とする自分。すぐに圭がその場をとりなすように掌を振り、結衣は小さく首を振った。

 圭が悪いわけではなかった。あれから三週間と少し、結衣はずっと、その時の圭の言葉を反芻していた。それを思うたび、結衣の感情は静かに熱を帯び、大きな気球となって空に飛び立とうとする。それなのに、結衣は必死にロープで係留し、自分の心の中に引き止めようとしていた。壁を壊すことできず、かといって乗り越える勇気もなかった。


「今日のところは、ここのパンケーキ代で手を打とう」果帆が真顔で言い返す。

「おいおい、このパンケーキいくらすると思ってんだよ」

「男らしくない」

「男は財布じゃないんだけどな」

「冗談に決まってるでしょ」果帆は不機嫌そうに言った。気まずい沈黙が流れる。圭と果帆の言い合いは、時として互いの尊厳をえぐり、互いを傷つける。まるで子供の喧嘩だ。感情のやり取りは人を幸せにも、不幸せにもする。それがわからない二人ではないはずだ。

「二人ともやめてよ。ほら、来たよ」

 座席に着いて十分、ようやく、プレートを持った店員が近づいてきた。テーブルに静かに置かれた皿には、パンケーキが二枚重なって、フローズンヨーグルトが間に挟まっていた。


「噂通り、すごいね」果帆の顔に笑顔が戻った。甘いものを前にしては、誰しもこういう表情になるのだろう。人の心は所詮脳内の様々なホルモンが作り出す幻想に過ぎないという冷めた見方もあると聞いたことがあった。ホルモンの作用だとしても、そのホルモンを放出するきっかけになるのは、やはり好き、嫌いという本能的な感情なのだとも思う。


「ここにして正解だっただろ」

 その本能が、こうして揺れ動く人の心を制御する鍵にもなる。圭の声も、いつもの快活さが戻っていた。掌をすり合わせ、フォークとナイフを握る。隣の果帆もすぐにでも食べそうな勢いで、皿を覗き込んだ。

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