第14話 小満 後編

 圭が結衣に遠慮していることはわかっていた。じゃれ合う二人を見ていると、不意に、いつか自分もその壁を越えてみたい、という衝動が胸を突いた。

「圭くんってさ」その気持ちの出所を探す前に、気づくとそう口に出していた。圭が振り向いた。眉毛を上げ、わずかに首を傾げている。続く言葉を探し、「どうして」と滑り降りた疑問符を飲み込む。「前からこの店知ってたの?」


「去年の十月くらいかな。なんとなく散策してたら見つけたんだ」

 圭がキョトンとした顔を結衣に向ける。結衣の心の内を知るはずもない圭の視線に結衣はたじろいだ。どうしてあんなことを言おうとしたのだろう、と自分に呆れた。思いとどまったその言葉は、今の圭に言うべき言葉ではなかった。

「この間私たちを引き連れてきた時は、全然そんな感じじゃなかったのに」

 圭に連れられてこの店に来たのは五月の最初の金曜日だった。前日に真弓の誕生日会をしたこともあって、果帆と圭にお礼を言いたかったのだ。


「だって、なんか嫌だろ。自慢みたいでさ」

 そう言う圭の表情を見て、結衣は感心する。圭には衒いがなかった。異性の前で自分を大きく見せようとする人とは根本的に違うのだろう。圭の本質のようなものを見ることができた気がした。

 圭がそうして果帆に返事をしているうちに、折りたたみの椅子を三つ抱え、誠が店の奥から再びこちらにやってきた。

「立ち話もなんだし、みんなこれに座って」

 誠が椅子を展開しながら置いていた。座面が普通のパイプ椅子よりも幾分高い。腰掛けると足が宙に浮いた。


 三人が座り終わる頃に誠が結衣たちの正面に立った。

「君達もこの店に何度か来たことがあったよね」誠が話を切り出した。その目は結衣と果帆の間を行ったり来たりする。

「はい。圭くんに連れられて。四月の終わり頃からは毎週」果帆が代表して言う。正確に言えば、一度だけ、圭と二人で来たこともあったのだが、それは言わないでおこうと思った。

「その時、何か感じなかった?」探るような言葉に結衣は視線を宙に這わせた。感じたことと言えば、ワイト島で恐竜が見つかるのだな、と思ったくらいだ。店の壁には風景写真に並んで恐竜の頭蓋骨が飾られていた。海岸線を形作る白亜の崖が、そのまま白亜紀の名前の由来になっていることくらいは知っていたが、それが恐竜の生きていた時代だとはこれまで意識したことがなかった。そういう意味では、世界はやはり広く、自分の知らないことで溢れているのだな、と感心したのを覚えている。


 ただ、それが誠の聞き出したいことではないだろう。果帆も圭もうんうんと唸っていたが、しばらくして圭がそういえば、と独りごち、言葉を続けた。

「カウンターがないよね。こういう店ならあってもいいだろうに、って思ってた」

 圭の発言に誠が満足げにうなずいた。カウンターのないカフェというのはもちろんあるのだが、それが圭には奇異に見えていたのかもしれない。

「そうなんだ。大学の側に出店することが決まって、客の大半が大学生だということは明らかだからグループ客を取り込もうって考えて、四人掛けの席ばかり配置していたんだ。でも蓋を開けてみれば」

「意外と、ひとりの客が多かったんでしょ」


「予想外だったよ。最近の学生さんは相席も敬遠するから、悩ましくて」

「それわかる気がします。大学って、結構ひとりでいる時間がなくて、かといって図書館だと静かすぎるし、こういう場所でのんびり過ごすのって憧れます」

 周りの騒々しさや煩わしさから解放される場所が欲しいのはみんな同じなのかもしれない。先週来た時も、結衣たちのように複数で過ごす客はむしろ少なかった記憶がある。ソファー席で落ち着いた空間はもしかしたら、内装うんぬんではなくその客層が作り出した空気だったのかもしれない。

「やっぱり。それを聞いて安心したよ。今回改装を決めたのも、とりあえず今までの方針を変えようって思ったんだけど、踏ん切りがつかなかったんだ。本当にそれでうまくいくのかって不安でね」


「いいと思います。いっそのこと、席も前よりゆったりと配置しても」

 誠は手を尻のポケットに突っ込んで、しきりに頷いていた。

「現役の学生さんに話を聞いてもらって助かったよ」

「絶対いいカフェになると思います」果帆が嬉しそうに笑う。その顔を見ると安心する。果帆の笑顔には不思議な力がある。どれだけ心がすさんでいても、その顔を見るだけで元気になるし、自信を与えてくれる。それはきっと、果帆に認められたという安心感が、自分を少しだけ大きくさせるのだと思う。そんな力に誠も強く背中を押されているのだ。

「せっかくだから、内装も考えたいよね。風景の写真はいいけど、どうして恐竜の化石が飾ってたのか、よくわからなかったから」

「圭くん。ワイト島は恐竜が見つかるんだよ。結構有名だと思うけどな」果帆が言う。


「恐竜って、アメリカくらいでしか見つかってないんじゃないの?」

「まあ、恐竜は少し難しかったかもしれないけど、そういうのもちゃんと説明しておいたほうがいいかもな」

 誠の頭の中では、どんどんと新しい構想が生まれているのだろう。カフェを満たす空気を作るのは、飲み物でも装飾でも客でもなく、この空間そのものだ。誠が作る世界が、こうしている間にも広がっているように思えた。

「博物館みたいに解説を書くとか?」圭の人差し指がピンと伸びる。いいアイディアが出た、とでも言いたげだった。

「それなら、栗栖先生に頼んでみようよ。そういうの研究してるみたいだし」

 果帆が圭の思いつきに乗り、圭の真似をして人差し指を立てた。その様子に、誠は人懐っこく笑い、結衣は胸の奥がざわざわと波打つ音を聞いた。三人の話し声が遠ざかり、代わりに結衣を苦い記憶が包んだ。


 人に好意を持っても、その気持ちをどうすればいいのか、結衣は昔からわからなかった。恋愛に興味が持てず、すぐに気持ちが冷めてしまう自分。そんな自分を知っているのに、圭を見るたびに、どうしても胸がざわついてしまう。

 先週圭と二人でこの店に来て、それでも、結衣は目の前に立ちはだかる壁を越えることができなかった。いや、それは違う、ともうひとりの結衣が否定する。その壁自体、結衣自身が作ったものだ。そんなこと、最初からわかっていることだった。壁を越えたいと願いながら、建造を止めることができなかった。圭が自分に遠慮していると感じるのも、その壁越しでしか圭を見ることができないからかもしれない。


 その時圭と話したことは、よく覚えていた。自分が不義理だったことも。それでも今日、遠慮がちでも普段と変わらない距離感で接してくれたことに、結衣は感謝していた。いつか、圭の気持ちに応えることができるだろうか。壁を取り払うことができるだろうか。もしかしたら、この感覚と向き合う場面を結衣は探しているのかもしれない。それがこのカフェのように暖かい場所であったならと思う。

 そうやって考えることができるようになったのも、圭と出会ったからかもしれない。

 自分自身も、この店のように、時に立ち止まりながら、時に自分を顧みながら、前に進んでいる。それが成長ということなのかもしれない。

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