第2章 夏

第13話 小満 前編

 五月も後半に入り、夏の空気が結衣を包囲しつつあった。春と夏の橋渡しは順調らしい。講義が終わり、三十一号館を出た結衣の頭上に降り注ぐ日差しはすでに夏のそれと大差ないように思えた。日焼け止めを塗っているとはいえ、まるで光の粒が皮膚を刺しているようだ。肩がピリピリと痛みを訴える。

「とりあえず、ラウンジ行ってみる?」果帆が結衣の肩をぽんぽんと叩く。授業のあとどうしようか、そう話しながら下まで降りてきたのを思い出す。


「うん」果帆と一緒にいられるのなら、どこでもよかった。

 学生ラウンジは、『くの字』に並ぶ講義棟に囲まれた一角にある。半分は食堂も兼ねていて、朝から夜まで学生の姿が絶えることはない。金曜日は三時限目の授業で終わりだ。結衣はアルバイトまであと二時間ほど時間があった。果帆にしても、今日はサークルの飲み会があるらしいが、夜のとばりが降りるのはまだ先だった。

 時間を持て余す大学生にあって、予定と予定の間にぽっかりと空いた時間をどう過ごすか、それが一番難しい。時間は無限に等しく、だからこそあまり無駄にしたくはなかった。ラウンジで無為な時間を過ごすくらいなら図書館に行くなり買い物に行くなりしてもいいのだが、今の結衣はそのどちらにも興味をそそられなかった。図書館なら昨日行ってしまったし、買い物は日曜日に果帆とすることになっていた。


 言い訳なのかもしれない。何に対するでもなく、自分が今ここにいる理由を探し出し、心の平穏を得るのはよくあることだ。

「ラウンジも久しぶりだね」果帆がのんびりとした口調で言う。三年生になって数週間が経ち、一週間の行動パターンが大体決まっていた。月曜日は午前中で授業が終わると《カフェ・ラ・ルーチェ》に移動し、ランチを食べてそのまま居座り、結衣の仕事が始まるまでのんびりと過ごす。火曜日は結衣が授業のない日になっている一方、果帆は午後から授業ということもあって、ランチを一緒に食べた後はお互い別行動になる。水曜日は午後の英語の時間が終わったあと、圭と果帆の三人で《カフェ・ラ・ルーチェ》に行き、結衣が接客する。木曜日は、果帆と同じ授業を受けたあと、アルバイトの時間まで図書館で時間を潰すのが日課になっていた。金曜日の今日、先週まで通っていたカフェが今週からしばらくの間改装のため閉店するらしく、当面の行く先を失ってしまった。大学から近く、ソファー席が多くてカウンターのない広々とした店の雰囲気が気に入っていたのに。果帆のサークル活動があるため駅に向かうわけにもいかず、二人で途方に暮れていたのだ。


 ラウンジの入り口を開けると、外のざわめきとは違う、より密度の濃い喧騒が溢れ出てきた。果帆はそうでもないのだが、結衣はとにかく人が多く無節操で無秩序なこのラウンジという空間が好きではなかった。できる限り静かそうな場所を求め、果帆と並んで空いている席を探す。入り口近くの席は大概埋まっていた。通路を渡り、奥まで進む。

「来生、佐藤、おいってば」

 急に横から声が飛び込んできた。

「あれ、圭くんだ」果帆がぽかんと口を開ける。「奇遇だね」

 とりあえずと果帆に連れられて、ラウンジに来てみると圭と出会った。文学部だけでも何千という学生がいるのに、こうして親しい友達と出会うことができるのは僥倖と言ってもいい。結衣は図らずもそのことにどきりとした。


「奇遇って、ここにいるってグループにメッセージ送ったろ」圭が果帆に食ってかかった。グループというのは、メッセージアプリの機能で、複数の友人と同時にメッセージのやり取りができるのだ。ゴールデンウィークが始まる前、三人でグループを作り、何気ないやり取りを繰り返していた。

 結衣はバッグの中からスマートフォンを取り出した。ホーム画面に、圭のメッセージが表示されていた。《暇だったらラウンジに集合ー》とあった。

 果帆はこのメッセージを読んでいたのだろう。メッセージが届いたのは十分前だった。そのくらいの時間といえば授業が終わった頃だ。スマートフォンをいつもカバンに入れっぱなしの結衣は、そうして大切な連絡を見ずに、タイミングを逃すことがよくあった。


「そうなの? 充電ヤバくて電源切ったままだから見てないや」

 圭が座っていたのはラウンジの一番奥だった。すぐ脇には食堂とのパーテーションがある。圭の向かいに揃って腰を下ろす。

「来生も見てないの?」圭が結衣に視線を向ける。結衣は頷いた。「それじゃ、俺は待ちぼうけするところだったわけか」

「いいじゃない。お望み通り会えたんだから」

 結衣は果帆の適当な返答を聞き、感じ方が違うのだな、と思った。果帆にとっての偶然が、結衣にとっては違うのだ。それが何なのか、考えがまとまらないうちに圭が話を切り出した。

「暇なら、ちょっと付き合わないか?」圭のいたずらっ子のような瞳が、結衣と果帆を代わる代わる捉えた。




「ねえ、どこに行くわけ?」果帆が尋ねても、圭は肩をすくめるだけだった。圭に連れられてラウンジを出た結衣と果帆は、そのまま文学部キャンパスの正門を抜けて横断歩道を渡った。

 その先には、先週まで持て余した金曜日の午後を果帆と過ごしたカフェがあった。《café the Isle of Wight》という名前の通り、店主はイギリスのその島のことを大変気に入っているらしい。店内にはワイト島の白亜の崖の写真が飾られていたし、メニューにしても、コーヒーよりも紅茶がメインだった。佳奈子の店で当然のようにコーヒーを飲んでいる結衣にとって、紅茶はこのカフェに通うようになるまではあまり馴染みがなかった。

「もしかして、あそこ?」果帆が《café the Isle of Wight》の看板を指した。正確には、その看板が掲げられていた跡を、だ。すでに外の装飾は剥ぎ取られ、カフェだった面影はなかった。


「いいから、ついてきなって」圭は店の前まで来ると、躊躇することなくその扉を開いた。

「圭くん、だめだって、勝手に入っちゃ」果帆が腕を伸ばす。圭の背中がすうっと遠くなり、取り残された果帆の腕が宙をさまよった。

 首をかしげ、怪訝な顔をする果帆と目が合った。結衣も首を小さく振った。とはいえ、圭を置いてこの場を立ち去るわけにもいかず、結衣と果帆は恐る恐る扉をくぐった。

「いらっしゃい」店の奥から男の声がした。「と言っても、改装中だけどね」

「すいません。ねえ、圭くんってば」果帆が呼びかけるが、圭は少し振り返っただけで、がらんとした店の中をずんずんと進んだ。


「いいんだ。呼んだのは俺の方だから」

 今は何も置かれていない空間の奥、開いたままのドアから男がひょっこりと顔を出した。顎に髭を生やした痩身の男だった。修平と同じくらいの年齢だろう。男性が放つ独特の落ち着きと飄々とした雰囲気は、修平と共通するものがあった。カフェで働く男というのは、概してそのような属性の人間なのだろうか。

「誠さん、順調ですか?」圭は誠に近づいた。親しげな視線のやり取りに結衣はひとまず安心する。

「圭くん、知り合いなの?」結衣が恐る恐る聞く。誠の顔には見覚えがあった。確かにこのカフェの店主だ。

「実はね。この人は芹沢誠さん。このカフェの経営者、でいいんだよね?」


「確認するわけ?」果帆がすかさず突っかかる。

「まあ、俺ひとりでやってるから、経営者であり店主であり従業員であり。もしかしたらそのどれでもないかもしれない」

 誠の物言いはこのぎこちない雰囲気を壊すには十分な威力を持っていた。それまで抱えていた居心地の悪さが急速に遠のき、柔らかい雰囲気が四人を包むのがわかった。


「こっちのうるさいのが佐藤果帆。んで、向こうの優しそうな彼女が来生結衣、二人とも僕の友達なんだ」

「よろしくね」誠が微笑む。「今日は、圭の意見を聞きたくて呼んだんだ。せっかくだから君達にも。ちょっと待ってて」

 誠がスルスルと店の奥に引っ込んだ。すかさず果帆が「うるさくて悪かったね」と圭の脇腹をつつく。まあまあととりなす圭の横顔を盗み見た。相変わらず仲がいい。知り合って数週間の自分とは、接し方が違うのは当然だ。

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