第12話 立夏 後編

「ついに、結衣に対する敬意もなくなったか」果帆がそれを指摘すると、圭は涼しい顔で答えるのだ。

「これは親しみの表れだよ」

 圭と果帆の問答はそうして果てることなく続く。結衣と一緒にいる時、果帆も圭も、結衣のことを気にかけてくれた。

「親しみだってさ」結衣が果帆に目を向ける。

「どうせ、私はそんな対象じゃないでしょうよ」果帆がぷりぷりと頬を膨らませるのを、圭も結衣も面白そうに眺める。ころころと表情を変える果帆は、誰と一緒にいても変わらない。等身大という言葉の持つ本当の意味を体現するように、果帆は出会った時からずっと変わらず、結衣のそばにいてくれた。


 伝票を持って立ち上がる客を視界の隅に捉え、結衣は二人に小さく手を振り、カウンターを離れた。果帆と圭を相手にしていると、仕事をしているという感覚を忘れそうになる。すんなりと他の客の対応に移れるうちは佳奈子も見て見ぬ振りをしてくれるだろうが、あまり褒められたことではないとも思う。

 考えすぎないようにしたほうがいいのかもしれない。人間関係に垣根はないのだ。仕事中であろうと完全なプライベートであろうと、立場が人を明確に区別する力を持っているわけではない。そんな線引きができるほど器用なら、こんな風にあれこれ考えることもなく、もっと素直に自分を見せることができるだろう。

 会計を済ませ、テーブルを片付ける。閉店に向かうカフェは、うら寂しさを少しずつ放出しながら、明日の訪れを待つ準備に入る。照明が柔らかく照らすテーブルを拭いていると、不思議と明日も頑張ろうと思えてくる。


 閉店時刻が目前に迫り、店に残っているのは果帆と圭だけになっていた。

「ねえ、そろそろ閉店だから、とりあえず外で待ってて」

 結衣は二人にそう促した。佳奈子がエプロンを外した。閉店の合図だ。

 準備は整った。佳奈子も修平も、普段と変わらず片付けをした。真弓も黙々とテーブルを拭いていた。一通りの作業が終わり、結衣と真弓は店の奥のソファー席に座った。

「今日もお疲れ様でした」

 佳奈子がカップとポットを持ってやってきた。カフェインレスのコーヒーをカップに注ぐ。

「疲れました。明日は学校なのに、どうしよう」結衣がぼやく。立ち仕事はやはり堪える。足がむくんでいるような気がした。早くパンプスを脱いで楽になりたい。

「そんなこと言ったら、おばさんはもう死ぬしかないわよ」佳奈子が切腹の真似をする。


「佳奈子さんは大丈夫ですよ。若いですもん」真弓が言う。

「そうかしら」佳奈子は受け流した。真弓が幼いと感じるのは、そういうことをそのまま言ってしまうことだ。が、それもまた可愛らしいと思う。

「真弓ちゃんもすっかり一人前になったし、私も早く佳奈子さんのポジションに移りたいですよ」

「十年早いって」佳奈子が笑う。それは、佳奈子がこの店を築き上げてきた年数と等しかった。

 十年、それだけの期間店を保つのがどれだけ難しいか。隣のビルに入った飲食店が、数ヶ月単位で移り変わっていく様を目にするたび、結衣はそれを感じずにはいられなかった。今のラーメン屋が、来年まで続いている保証はない。それほど厳しい世界に身を置いているのに、佳奈子はいつも柔らかく、この店を守っていた。


「さてと。そろそろかしら」佳奈子がふと呟くと、すっと立ち上がった。それが合図になり、カフェの照明が一斉に落ちた。

「え、停電ですか?」真弓が結衣の腕にしがみついた。体を寄せてくる。可愛らしい。すぐにでも抱きしめたくなる欲求を、結衣は押しとどめた。

 暗転した店内の奥、厨房の方から光が漏れだしたのは、そのすぐ後だ。修平が、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。その動作に合わせて、ろうそくがゆらゆらと揺れていた。

「せーの」佳奈子の声に続き、結衣と修平、そして暗転したタイミングで店に入ってきていた果帆と圭が、揃ってハッピーバースデイを歌い始めた。

「本当ですか?」真弓は体を起こし、おろおろとするばかりだった。


 二週間前、果帆が佳奈子に耳打ちしたのが、真弓の誕生会を開きたい、という内容だった。それをサプライズ・パーティーにしようと提案したのは結衣だ。真弓に我慢を強いた分、結衣はここぞとばかりに真弓の頭を思い切り撫でた。

 歌が終わる頃、テーブルにケーキが届いた。その横には、あのヨーグルトが添えられていた。昨日の夜に修平が仕込んだのだ。修平にも何かサプライズを、と頼んでいたが、まさかそれがヨーグルトだったとは、休憩中に真弓と話すまでは想像もしていなかった。ドライマンゴーを入れて一日寝かせたヨールグトは、ココナッツの濃厚さを増しているはずだ。


 佳奈子の隣に修平が立ち、結衣と真弓の後ろに圭と果帆がつく。手拍子が歌と一緒にカフェに響いた。ろうそくの明かりに照らされた真弓の顔が赤く染まっていく。

「一日早いけど、誕生日おめでとう」

 真弓がろうそくを吹き消す。暗闇の中で、真弓の息遣いだけが聞こえた。嬉しさと恥ずかしさで火照った真弓の熱気は、まるで目の前に迫った夏のそれのように、結衣の二の腕を温めていた。

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