第11話 立夏 前編

 ゴールデンウィークという言葉は、映画会社のキャンペーンが元だというのは有名な話だ。盆や正月と並び、人の往来が活発となる期間、何らかのサービスを提供することで対価を得る現代の産業構造では、その意味するところはさらに強くなっている。振替休日がこどもの日の翌日に設定される頻度が高くなり大型連休が取りやすくなったのも、そうした時代背景を映した祝日法改正という政策のためだ。

 結衣たち大学生にとって、休みが多いのは素直に嬉しい。授業はなく、好天に恵まれやすい時期、どこにいても清々しい季節は、結衣の気持ちを軽くした。それがたとえ、混雑するカフェであっても、その気持ちに嘘はなかった。


「《ブレンド》二、《プリン》一、《チョコレートケーキ》一です」

「《ブレンド》一、《カフェ・ラ・テ》一、《ミルクレープ》一、《レモンカスタードパイ》一です」

 結衣と真弓が同時にカウンターになだれ込んだ。注文の書き込まれた伝票を佳奈子に預け、二人はまたホールに戻る。幾度となく繰り返される動作は、店内の人口密度が上がるたび、その頻度を増していった。案内、注文、提供、会計、片付け、そのどれもが同時にやってくる。目の回る忙しさとはこのことだ。

 どれだけ忙しく立ち回っていても、できることはいつもと同じだ。結衣はとにかくそれを意識するようにしていた。目は二つしかなく、腕は二本しかないのだ。修平からデザート皿を受け取り、佳奈子からコーヒーの入ったカップを預かる。一歩ずつ、確実に運ぶ。


 今年の大型連休は、特に遊ぶ予定はなかった。せっかくの連休なのに、と思いながら、他にすることも思いつかなかった。公正を期すならば、果帆はサークルで忙しく、結衣は結衣で、人出の多い連休にアルバイトを休む勇気はなかったというのが本音だった。

 連休に限らず、春休みも夏休みも、結衣はそうしてアルバイトに明け暮れていた。親からの仕送りはあったし奨学金ももらっていたから、無闇に闇雲に働かなくてもいいのだが、カフェにいる時間はすでにただの小遣い稼ぎの範疇を超えていた。お金をもらう対価には余りあるほどの出会いがこの場所にはあった。佳奈子も修平も、そして真弓も、今の結衣にとってかけがえのない存在だった。


 そんな真弓の様子がおかしいと感じたのは、夜になり、客足が落ち着いた頃だ。休憩室で軽食を取っていると、続いて部屋に入ってきた真弓がとことこと近づいてきた。

「結衣さん。ちょっと聞いてくださいよ」

「どうしたの?」

「修平さんが、私にだけヨーグルト食べさせてくれないんです」


 真弓が頬を膨らませる。その仕草に結衣は穏やかな気持ちになる。小柄な真弓は、年齢こそほとんど変わらないが、まるで妹のように愛らしい。一人っ子の結衣にとって、擬似姉妹を演じることのできる唯一の存在だった。

「ヨーグルトって、あの?」結衣は、以前修平にもらったココナッツヨーグルトのことを思い出した。ココナッツの甘い香りと濃厚な味は癖になりそうだった。それ以降、試しに作るたびに、結衣と佳奈子はつまみ食いをしていた。

「試作するのって、決まって私がシフトに入ってない時みたいだし、どうして修平さんそんな意地悪するんですか?」

 修平が練習を兼ねてコヨを作るのは、修平の気分が乗った時だ。曜日で決まっているわけではない。結衣は記憶を巡らせる。確かにヨーグルトの一件については、ことごとく真弓のいない時だった。


「たまたまだよ。たまたま」結衣はそう言って、お茶を濁した。修平の魂胆はすぐにわかった。それをここで言っても、面白くないということも。

「修平さん、失敗ばかりの私のこと、嫌いなのかな」半べそをかきそうになる真弓が可愛かった。しょげた姿は小型犬を思わせる。真弓が犬だとすれば、修平は間違いなく猫だ。そのくらい、二人の性格は違う。直線的な真弓と違い、飄々と世間を受け流す修平のことを、こうして誤解している人は、きっと多いのだ。結衣は拗ねる結衣を抱きしめたい衝動をぐっと抑えた。

「今日は食べさせてもらえるかもしれないし、とりあえず、仕事に戻ろう」

 妹を諭すのも姉の務めだ。

 真弓は納得いかない顔つきで、休憩室を出ていった。肩を落としてとぼとぼと歩く真弓の背中にちくりと心が傷むのは、真弓の寂しさが痛いほど伝わってきたからだろう。とはいえ、ここまで来て、怖じ気づくわけにもいかなかった。自分で考えたことだ。真弓にはもう少しの間、辛抱してもらおう。


 休憩から戻ると、カウンターに果帆と圭の姿を見つけた。結衣はカウンターに入り、二人の前に立った。腰をかがめ、声をひそめる。

「まだ早いよ」

「大丈夫、私たちがここにいるからって、真弓ちゃんが気づくわけないし」

「そうかもしれないけど、まさか圭くんも来るとは思わなかった」結衣は圭に目を向けた。圭はあの雨の日以降、度々カフェ・ラ・ルーチェに顔を出していた。時に独りで、時に友人を連れて、そして、時に果帆を連れて。

 大学で話す圭もカフェで目にする圭も、それは全くいつも通りの圭だった。混雑していなければ、結衣は圭の相手をした。圭の出す穏やかな空気が、結衣を安心させた。いつの間にか、圭も来生と呼ぶようになり、結衣も果帆と同じように下の名前で呼ぶようになっていた。

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