第10話 穀雨 後編

 更衣室で着替え、結衣はホールに入った。一足先にホールで仕事をしていた真弓に店の状況を聞いた。一組が注文待ち、一組がコーヒーとデザートの準備中、残りが会計待ち、といったところだった。

「了解。厨房見てくるね」

 結衣はカウンターの脇にある扉を押し開けた。修平は最近、厨房に篭ることが多くなっていた。デザートの注文が増えていたのだ。メニューはプリンしか増やしていないのに、それが呼び水となったのか、他の品物にもオーダーが入るようになっていた。


「修平さん、どんな感じですか?」

「結衣ちゃん、お疲れ。《プリン・ア・ラ・モード》はもうじきできるよ。コーヒーは今、佳奈子さんが淹れてるやつで最後だ。それと、プリンはこれで十食目だから、もうオーダー取らないでね」

「わかりました。今日も忙しくなりそう」

「まあ、すでに忙しいんだけどね」

 修平が軽口を叩けるのなら安心だと思う。さすがに、一ヶ月前のような失態はしないだろう。結衣は修平からプリンを受け取り、佳奈子のコーヒーと一緒に客の元に届けた。


「ご注文は以上でお揃いでしょうか」

 カフェのこうしたやり取りが自然にできるようになるまで、かなりの時間がかかった。まるで演技をしているようだと、最初の方は意識をしすぎて恥ずかしくなったこともある。慣れたといえばそれまでなのだが、生身の人と触れ合うことが楽しかった。その緩衝材として、接客のマナーがあるだけだ。そんな基本的なことさえ、結衣は佳奈子から教わったのだ。

 果帆が店にやってきても、結衣のやることは変わらない。取り立てて果帆につきっきりになるわけにもいかず、もちろん果帆も相手をしてほしくてここに来るわけではない。結衣の友人として《カフェ・ラ・ルーチェ》に通ううちに、果帆は佳奈子たちともすっかり打ち解けていた。そんな社交性の高さに今更驚くわけでもなく、結衣は果帆が佳奈子と談笑している脇で、自分の仕事に集中した。

 外の雨はまだ降っているようで、会計を済ませてドアを開けた果帆は、空をじっと睨んだあとに傘をさして出ていった。


「果帆ちゃんって、面白いこと考えるのね」

 空いたグラスを下げ、カウンターを拭いていると、頭の上から佳奈子の声がした。

「何かあったんですか?」

 結衣はキョトンと顔を上げる。いたずらを思いついた子供のように、佳奈子は意地悪く笑った。

「真弓ちゃんのことでね——」

 がしゃん、と乾いた音がフロアに響き、佳奈子の言葉を遮った。真弓がコップを乗せたトレーごと、ひっくりかえしたようだ。

「申し訳ございません」

 真弓が頬を赤くして、お詫びをしながら俯いていた。結衣はすぐにモップとちりとりを取りに行った。真弓が手で拾おうとしているのを制し、手早く破片を集める。


「お客様、大丈夫でしたか?」水が飛散した範囲にいた客一人ひとりに声をかける。水は大して飛んでいなかった。それでも、丁寧に声をかけた。

「真弓ちゃん、もう大丈夫だから。向こうのお客さんが呼んでいるみたいだから、行ってあげて」

 結衣の言葉に、真弓は小さくうなずき、慎重にフロアを進んだ。まるで、仕事を始めた頃の自分を見ているようだった。不慣れな場所で、真弓は懸命に殻をやぶこうとしているように思えた。仕事が終わったあとにじゃれてくるのは、そうした緊張と常に戦っているからなのだろう。

 真弓のことを気遣えるくらいには、成長したということなのだろうか。自分でもわからない。果帆や佳奈子が側にいるから、そう振る舞えるだけなのかもしれない。幸い、水はそのほとんどが床にこぼれていて、ガラスもろともモップで片付けをして、結衣はホールに戻った。


 すでに佳奈子はカウンターからホールに出て、常連客に声をかけていた。佳奈子はさっき何を言いかけたのだろう。そう傾きかけた思考が、カランと鳴った扉の開閉音にかき消された。

 来客の時はいつも、ドアに付いた鈴がその訪れを告げる。床を靴底が叩く。音は佳奈子のこだわりだった。店に入ってから席に着くまで、そうやって自分の立てる音を聞くことで、自分の存在を感じることができる。そしてそれが、自分がカフェにいるのだと実感することにつながる、そう言っていたのを思い出す。

 存在を認めてほしい、そんな承認欲求が渇望するものは、安定だとも言っていた。佳奈子の言っていることは、わかるようでわからない。ただ、その音を聞くと、自分も安心するのは確かだった。来客は素直に嬉しい。それが知った顔であった時は、なおさらだ。


「あれ、菊池くん?」

 席を案内しようと近づいた結衣は、その顔を見て立ち止まった。大学で別れてから数時間、夜の八時になって店に入ってきた圭は、驚いた表情を結衣に向けた。

「来生さんこそ。バイトってここだったんだ」

 テーブル席がちょうど埋まっていたので、カウンターの一番手前の席を案内する。圭は荷物を降ろして腰掛けた。

「お水とおしぼりです」結衣はカウンター越しに圭に話しかけた。「ひとりなの?」

「うん。友達は夜からバイトなんだ。まだ帰るには早いし。ちょっと寄り道」圭がメニューを広げながら言った。


 教室で会う時は、いつも果帆が側にいた。果帆の友人として振舞っていればよかった。でも今は違う。どうしようかと思った。普段通り、普通に、そう思うたび、結衣はどういう表情をすればいいのかわからなくなった。

「この店、知ってたの?」自分の中の迷いは、世間話をするという安直な方向に流れていった。それでも、不安は消えない。こうして話していること自体、何かを意識しているように思えて、結衣はそれ以上の衝動を押し殺した。いつも通り、普段と同じように、従業員として声をかけ直した。「ご注文をどうぞ」

 圭は戸惑った表情を浮かべたが、結衣の問いかけに答えた。

「ううん。初めて入ったんだけど、いい雰囲気だね。……じゃあ、《ブレンドコーヒー》と、この《スコーン》をください」


 違う、何かが違う。受け答えをする圭のことを正面から見られなくなっていた。口から出る言葉が滑っているように感じた。距離感がつかめなかった。

「《スコーン》はプレーンでいい?」

「うん。それでいい」

 普段はこのくらいの距離感だったろうか。圭との距離はこのくらいだっただろうか。学校にいる時、自分がどれだけ果帆というフィルターを通して世界を見ていたのかがよくわかった。自分は結局、果帆と一緒にいないと駄目なのだ。そう思うと、少し寂しい気持ちになる。今は、そんなことを考えていたくなかった。

 圭の注文を佳奈子に伝える。

「《ブレンドコーヒー》と《スコーン》ね。わかった。コーヒーは修平くんに淹れてもらうから、結衣ちゃんはスコーンを用意して」


 修平は厨房にいた。佳奈子が声をかける。最近はデザートを作る方が多くなり、ドリッパーを厨房にも置くようにした。コーヒーを運ぶのは主に真弓の仕事だ。その真弓は、ホールを行ったり来たりしながら、あくせく働いている。

 結衣はちらりとカウンターを覗き、圭の姿を横目で見て、カウンターに流れそうになる自分の体を引き戻した。ホールに出て、真弓を手伝った。テーブルの片付けを済ませ、客にデザートやコーヒーを出す。

「結衣さん、ありがとうございます。すいません、失敗ばかりで仕事も遅くて」

「そんなことないって。ひとりじゃもともと回らない人数なんだし、私だってホールなんだから、二人で頑張ればいいんだよ」

 真弓は健気だと思う。抱え込んでしまうのも、自分の仕事として責任を持ちたいからだ。その気持ちは大切にしたいと思う。変な義理立てをして、恩着せがましく仕事を取るようなことはしたくなかった。


 自然に、そう、自然に。自然に振舞うということは、こういうことだ。このカフェは、果帆とはまた別のつながりだった。この場所でなら、結衣は果帆の友人として振舞うことはない。果帆は大切だが、この場所も結衣にとっては大切なのだ。そんな場所にやってきた圭のことも、大切にしたいと思った。

 結衣は頃合いを見て厨房に顔を出した。ちょうど、修平が圭のコーヒーを淹れ終わったところだった。

「ブレンド、上がったよ」

「修平さん、ありがとうございます。あ、プリン余りました?」

「二つ」

 今日は失敗をしていないということだろう。あの日以来、営業時間後にそれを食べられるかどうかでその日の修平のコンディションがわかるという、無駄なシステムが働いていた。


「私も楽しみになってきました」結衣はそう言ってカップとソーサーをトレーに乗せた。カウンターでスコーンを皿に取り、ゆっくりと圭の前に差し出した。

「《ブレンドコーヒー》と《スコーン》です」

「お。ありがとう」

 圭が早速といったようにカップに手を伸ばす。圭はどう思っているだろう。昼間の結衣と今の結衣、どちらも同じ結衣だと感じているだろうか。結衣はそんなことを思った。圭にとってこの場所がどのような場所か、圭にとって結衣自身がどのような存在か、それを知りたいと思った。

 それはもしかしたら、まだ芽さえ出していない、種なのかもしれない。それでも、その種は、雨が降ったあと、必ず大地に頭を出して、目の前に迫った新緑の季節に想いを乗せるのだ。

 果帆と佳奈子、そして自分。胸の中の種がどのような芽を出すのか、結衣は考え始めた。

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