第9話 穀雨 前編

 先週から、三年生春学期の授業が本格的に始まった。水曜日の三時限目、結衣は選択必修科目の一つ、『近現代史』の講義に出席していた。前回がフランス革命で、今回が神聖ローマ帝国の崩壊である。

 当然といえば当然だが、大学の講義で語られる歴史は、高校までの歴史とは装いが違う。ナポレオンがそうしたことで、その後のハプスブルク家がどのように振る舞ったのか、その振る舞いがのちのドイツやオーストリアにどのような影響を与えたのか。縦に横に広がる歴史の糸が折り重なって今のヨーロッパ諸国を形作る様は、世界という大きなタペストリーのイメージとなって結衣の頭に映し出された。

「神聖ローマ帝国崩壊後も、ハプスブルク家はオーストリア=ハンガリー帝国の統治を続けるわけですが、そのあたりの話は次回にしましょう」

 文学部教授の廣瀬は、毎回そうして授業を締めくくる。去年履修した『古代近世史』の語り口調と同じだ。


 やれやれといった雰囲気で、講義室では学生たちが揃って立ち上がる。二回目の講義、これでもまだ学生は多いほうだ。これが三回、四回と回数を重ねていくうちに、少しずつ人口密度が減っていく。程度の差はあっても、たとえ必修でもそれは変わらない。大学とはそういった自由さがあるだけ、学生の責任も大きくなっている。それをどれほどの学生が認識しているのか、甚だ怪しいと結衣は常々思っていた。

「次は英語か。水曜日に固まっちゃったから、大変だ」果帆が机に突っ伏して言う。

「まだ四月だよ」

「七月までこの生活が続くとか、サイテーだ」果帆は頬を膨らませる。科目登録をした段階でわかっていたこととはいえ、画面上で見る予定表と実際の講義では、受け取る印象がまるで違う。時間を拘束されるのは、よほど人間にとって苦痛らしい。


「行こう。早くしないと、先週の席がなくなっちゃう」

 キャンパスは、大きく講義棟と学生ラウンジ、図書館に別けられる。講義棟は全部で五つあり、いわゆる講義型授業のための大規模教室ばかりが集まった三十一号館から、演習形式授業のための小規模教室が集中する三十五号館まで、キャンパスの手前から奥に向かって『くの字』型に並んでいる。残念ながら、教室の振り分けまで計算に入れることはできず、十五分の休み時間の間に、三十一号館から三十五号館に移動する必要があった。

「遠すぎるんだよ」果帆が泣き言を言うのもいつものことだ。


 一階まで降り、一旦外に出る。今日はあいにくの雨模様だ。肌寒い空気がカーディガンをすり抜けて肌を刺激する。傘をさし、人の流れに乗る。三十五号館はキャンパスの一番奥にある。サークル棟のすぐ脇で、地下からはオーケストラの音色が漏れ聞こえていた。

 授業の形式で言えば、英語が一番面倒くさかった。ただでさえ少人数制なのに、題材になるのは大抵アメリカやイギリスの通信社が配信した小難しい記事で、しかもそれについて英語で討論をしたりレポートを提出したりしなければいけない。グローバル資本主義、エネルギー問題、米中関係、大統領選挙、移民問題、扱う内容は様々だったが、そのどれもが、自分たちの住む社会とつながっている実感がなかった。

 だからこそ、英語の授業だけは希望の、つまるところ比較的楽そうな授業を選択したかったのだ。それがまさか、二人揃って選外になるとは思わなかった。


「これはきっと、大学側の陰謀だよ。未来ある若者に、余計な試練を与えんとする陰謀だよ」果帆は選外になった日から、ずっと陰謀説を唱えていた。

「私たちが?」

「そう。未来ある若者の烙印を押されてしまった」

「それは喜ぶところ、なのかな」

 選外になってしまったのは仕方がないとして、そうして残り物を履修しなければいけないのは、学生にとっても講師にとっても不幸だと思う。

 唯一の救いは、果帆の顔が広い、ということだ。サークル活動に留まらず学園祭の実行委員などもやっていた果帆は、とにかく知り合いが多い。積極的にならずとも、自然と友達ができる雰囲気を、果帆は作ってくれた。


「佐藤と来生さん、お疲れ」

 教室に入ると、さっそくその友達が声をかけてきた。

「菊池くん、お疲れ」結衣も同じように挨拶をする。菊池圭というのが、その新しい友達の名前だった。そうして果帆と一緒に挨拶をしているだけで、結衣もその輪の中に入ることができた。

「圭くん、どうして私は呼び捨てなわけ?」果帆が圭に食ってかかった。

「しょうがないだろ。敬意の差だ」

「私にも敬意を払いなさいよ」

 果帆はむくれ顏でバッグを机に下ろす。

「それは難問だ」

「何の問題もないでしょうに」


 果帆と圭の問答は聞いていて飽きない。結衣は、果帆がこうして友達とじゃれ合っているのを見るのが好きだった。自分にはないもの。それをすぐそばで感じることで、まるで自分もその力を持っているように錯覚する。いつか、自分もそうやって話ができるようになる練習、とも思っていた。

 果帆が立っている席の隣に腰掛ける。前の席が圭の場所だ。

「これから英語で討論しなきゃいけないんだから、そのエネルギーはとっておこうよ」結衣は仁王立ちで向き合う二人に、恐る恐る声をかけた。そろそろ、授業が始まる時間だった。

「来生さんに言われたらしょうがない」圭がすぐに矛を収める。その様子に、ますます果帆はむくれる。

「いつか、果帆様と言わせてやる」


 果帆の捨台詞を聞きながら、バッグからノートとペンケースとクリアファイル、そして電子辞書を出す。先週の授業で早速課されたレポートは、クリアファイルに入れていた。びっしりと並んだ英単語に、もしかしたら自分は英語ができるのではないかと思ってしまう。プリントアウトされた英語は、たとえどれほど稚拙でも、そんな感覚を結衣に与えた。

 北米自由貿易協定が二回目の授業の題材だった。とりあえず無難なことを議論し、それを発表したことで、一定の評価は得られた気がする。もっととんがったことを話し合っても良かったのだろうが、結衣たちにとって、アメリカ大陸の貿易がどうなろうと、あまり影響はないのではないか、と思うばかりだ。そうして授業が終わり、講師が教室を出るあたりで、「結衣はこれからバイト?」と果帆に尋ねられた。

「うん。いつも通り」結衣がそう答えると、前の席で荷物をまとめていた圭がゆるりと振り返った。

「来生さん、バイトなんだ。何やってるの?」


「カフェで働いているんだ」結衣はバッグに荷物を詰める手を休めた。

「この近く?」

「ううん。駅の方」結衣は右手で左の方を指差す。

「そっちは東だよ。駅はあっち」果帆がすかさず訂正した。

 圭が肩をすくめる。結衣は笑う。果帆は、西の方向に腕を伸ばしたまま、そんな圭と結衣の様子をむくれた表情で交互に見ていた。

「佐藤は強情だな」圭も笑い出した。「まあ、正しいことがいつも正しいとは限らないさ」

「言ってる意味がよくわかりません」果帆が棒読みで言う。

「そうか?」圭がおどけた表情でそう言ったあたりで、圭のスマートフォンに着信が入った。何度か頷き、電話を切った。友人とこの教室で合流するらしい。次の時間開き教室になるこの部屋で時間を潰すつもりだという。


 結衣と果帆は圭にさよならを言って、連れ立って教室を出た。

「それにしても、菊池くんは面白い人だね」

「面白いっていうのは、圭くんを過大評価してる」

 果帆は顔が広い。それでも、結衣の隣にいることを優先してくれていると思う。一緒にいて楽しいと、果帆は言った。それに報いることが、果たしてできているのだろうか。こればかりは自分で判断できるものではなかった。結衣は、そうして時折顔を覗かせる弱い自分をなだめることしかできない。

 今はただ、一緒にいる時間が何より愛おしかった。

「じゃあ、私はサークルに行ってくるね。夜に寄ってもいい?」

 三十五号館のドアの前で、果帆が手を振る。サークル棟は左の道を、正門は正面の通りを歩くことになる。先週もそうだったが、水曜日はここがお別れの場所だ。


「うん。いいよ。また後でね」

 果帆が結衣の言葉に大きく頷く。ビニール傘をさし、小走りでサークル棟に向かって遠ざかっていく。結衣は何気なくその後ろ姿を目で追いかける。また後で。その言葉が蘇る。時を重ねていくうちに積み重なっていくもの。結衣と果帆の関係は、光の届かない海の底に降り積もるプランクトンや砂つぶのように、少しずつ堆積し、静かに固まっていくのだ。

 雨は朝から変わらず、しとしとと執拗に降り続いていた。結衣は傘をさし、門に向かって歩き出した。

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