第6話 春分 後編
「あ、来たかも」
果帆の声で現実に引き戻された結衣は、手招きする果帆の視線の先を追いかけた。大きなパフェを乗せたトレーを慎重に運ぶ店員を視界に収めた途端、胸中の雑多な想いは急激に霧散し、結衣の期待値は一気に上昇した。
「お待たせしました。《丸ごと苺パフェ》のお客様」
結衣は小さく手を挙げた。白いシャツ姿の女性が、ゆったりとした動作でパフェをテーブルに置く。円錐形の容器がすうっと結衣の前にやってきた。
「こちらが、《丸ごとマンゴーパフェ》です」
果帆は頬を目一杯上げて喜びの表情を浮かべていた。目尻にシワができるほど、にんまりと幸せそうな笑顔に結衣も幸せな気持ちになる。
ラッパの口のような形をした容器から溢れんばかりの苺を前にして、結衣は素直に嬉しいと感じた。美味しいパフェが食べられることと、大好きな果帆と一緒にいられることが嬉しかった。
「やばいね、これ」果帆はそう言って、スマートフォンで写真を撮った。結衣も同じように、どの角度がいいだろうかと悪戦苦闘する。左から見ても右から見ても、苺は同じように結衣の方に身を乗り出していた。スライスされた断面はただただみずみずしく、食欲をそそる。
折り重なるように連なった苺の塊の下には、うっすら苺色の生クリームと、苺ソースが何層にも重なっていた。
果帆の頼んだマンゴーパフェも、結衣の苺パフェに引けを取らないほど、完熟のみずみずしいマンゴーがこれでもかと並んでいて、とにかく美味しそうだった。苺のパフェと違い、クリームとソースの層にもマンゴーの果肉が入っていた。色のコントラストがはっきりしているだけ、より美味しそうに感じる。
しばらくは、二人してパフェを眺めたり写真を撮ったりしていたが、結衣は我慢ができなくなった。スプーンを手に取り、そっと苺をすくい取った。口に運ぶ。噛むそばから柔らかい酸味とふくよかな甘みが同時に結衣の舌に届いた。続けてもうひとつ、もうひとつ、みるみるうちに苺はなくなっていく。
果帆も同じように、マンゴーを小さなフォークで刺して食べ始めた。結衣も果帆も一口食べるごとに「うまー」と「やばー」を繰り返した。
「ひとつ頂戴」結衣はたまらず身を乗り出した。果帆がマンゴーを頬張ったまま「ん」と言って容器を少しだけ結衣に近づける。そっとスプーンですくい、舌に乗せる。ジュースを飲んでいるように、口の中がマンゴー色に変わった。体がとろけてしまいそうになる。
果帆が手を伸ばし、苺をひとつ摘む。赤く熟した苺がゆっくりとした動作で柔らかそうな唇に吸い込まれていく。
「この苺も甘くて美味しい。さすが、《とちおとめ》は違いますな」
スイーツは平等に、人を笑顔にする。五つある味覚の中で、甘みだけがこれほど持てはやされる時代もなかっただろう。それだけ、現代人は辛酸を舐め、苦汁を飲まされているということなのかもしれない。
スプーンでクリームをすくっていると、今日はもっとちゃんと話をしなくてはいけないことがなかっただろうか、という疑問が頭をかすめた。急速に形を露わにする思考に、結衣はしばしスプーンを持つ手を止めた。
「そうだ。科目登録はできた? 昨日までだったでしょ」
果帆に会ったらこの話をしようと思っていたのに、すっかり忘れていた。昨日までの三日間は、春学期の授業を登録する期間だった。
結衣と果帆は同じ文学部に所属しているものの、志望するコースが違っていた。結衣は西洋文学史を学んでみたかったし、一方の果帆は、前衛的な文学表現に興味があるようだった。一年生の時はそれほど鮮明でなかった自分の「こうありたい」という感情は、二年間の学生生活を経て徐々にその姿を明らかにしつつあった。秋学期から始まるゼミを踏まえた授業選択をする以上、果帆と同じ授業ばかり取っているわけにもいかない。
結局、春学期は果帆と同じ授業は四つになった。語学と選択科目、そして一般教養の授業二コマである。選択科目は果帆の趣向に合わせ、代わりに一般教養は結衣の取りたい授業を優先してもらった。
「バッチリだよ。まあ、回線がつながれば全国どこにいてもいいから、便利な時代になったよね」
「一年生の時は面食らったけど、慣れれば簡単だし」
最近はなんでもインターネットで済んでしまう時代だ。一昔前であれば、分厚いシラバスを片手に大学で専用の用紙に記入していたというから、その変化は大きい。
「ちゃんと通ればいいんだけどね、選外になったら嫌だな」
「大丈夫だよ。専門科目は余裕を持ってるって聞いたことあるし」結衣はそう言いながら、本当は心配なところがあった。語学だ。選択するコースに限らず、三年生の春学期までは高校の延長のような語学の授業がある。専攻とは無関係に選択できるからこそ、講師の人気に左右され、選外の憂き目を食らうこともしばしば、らしい。
「心配なのは語学だよ。英語のⅢは人気が偏ってるらしいからさ」果帆が珍しく難しい顔をする。マンゴーパフェはすでにほとんどなくなっていた。カップの底のマンゴーをスプーンでひっかきながら、ひとつ息を吐いた。「一緒に登録したのが、二人とも通ればいいけど」
「そうだね」
果帆も同じことを考えていたようだ。果帆と話していると、こういう場面に遭遇することが多い。果帆も同じように思うことがあるのだろうか。結衣と同じように、気持ちの共有が図れたと、嬉しく思うことがあるのだろうか。
また弱い自分が顔を出してしまった。いけない、と果帆に気づかれないように小さく頭を振った。果帆が楽しいと言ってくれる自分でいなければいけない。せっかく春になったのだ。もっと果帆と一緒に過ごしたい。今日は彼岸の中日だ。明日からは暖かい日が続く。桜が咲く。春が勢いを増す。
果帆の後ろの窓から、夕日がうっすらと差し込んでいた。夕方が近づいてきた。今日を振り返る前に、明日以降のことを考えるのもいいかもしれない。そう思うと、自然と言葉が滑り降りてきた。
「来週あたり、お花見しない?」
「いいね」親指を小さく突き出す果帆を抱きしめたいほど愛おしいと思った。
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