第7話 晴明 前編
新しい年度というのは何度迎えても新鮮だ。満開を通り過ぎた桜が花を散らせる中、結衣はキャンパスの正門からいつものように構内に入った。
大学はこの時期が一番賑わう。皮肉なものだが、授業が始まって一ヶ月もすれば、学生は大学という枠からはみ出してしまう。そんな好機を逃すまいと、正門から校舎へ続く通りには、多くの学生が机を並べ、サークルの勧誘に忙しかった。
結衣はサークルに入っていない。二年前、こうした机の前で呼び止められ、いくつかのサークルの話を聞いたものの、歓迎会と称して開かれる飲み会はどのサークルでも同じように無秩序で節操がなく、結衣の肌には合わなかった。
今頃、果帆は自身のサークル活動に勤しんでいるだろう。それも少し気になるところだったが、今日は別の用事があるのだ。結衣は机の間を入り、細い道を進んだ。文学部キャンパスにある図書館へと続く狭い通路だ。図書館のドアを開け、中に入ると、別の世界に来たように外の騒々しさがすうっと引いていった。学生証をかざし、駅の改札のような機械を通り抜ける。
図書館は昔から好きな場所だった。高校生の頃は、高校の図書室だけでは飽き足らず、休みの日に電車に乗って街の図書館に通っていたこともあった。そして向田邦子や吉本ばななの文庫本を読み漁った。文学部に進学することを決めたのも、そうした小説世界に憧れていた部分があったのは間違いなかった。
ただ、大学で様々な授業を通して「こうありたい」を意識するうち、小説世界そのものよりも、そうした文学の成り立ちやその時代背景の方に興味が出てきた。小説は今でも変わらず好きだが、結局、それは物語の集合体でしかない。ストーリーを追いかけるのとは違う魅力が文学史にはあるような気がしていた。
広々としたロビーには、雑誌や新聞の閲覧スペースに並んでパソコンの置かれた台がある。空いている一台の前に立ち、結衣はキーボードに本のタイトルを入力していく。
結衣は一冊の本を探していた。修平から頼まれた、コーヒーに関する古い本だった。コーヒーの歴史は古く、その起源は古代のエチオピアにまで遡るらしい。コーヒーに関する知識で言えば、修平も佳奈子に負けていない。毎日遅くまで働いていても、常に新しい知識を蓄えようとしている。
図書館で本を探すにも、最近は随分と簡単になった。学内のネットワークを使えば、文学部キャンパスの図書館だけでなく、本部キャンパスの図書館や学部ごとに設置されている学生読書室の蔵書も検索できる。そうして検索した書物は、それが仮に遠いキャンパスに保管されていれば取り寄せることもできる。
便利になった反面、探す楽しみは減ってしまったような気がする。大雑把に分けられた図書館の本棚から自分の思い描いた内容の書物を見つけるのも図書館通いの醍醐味だ。そこでは思いがけない出会いもある。見えない糸でつながった感覚を本に対して抱くこともあった。全ては巡り合わせだという人もいる。偶然にせよ必然にせよ、邂逅は時に引力で引き合わせたように突然やってくる。そういう感覚を抱くことも、最近は少なくなっていた。
モニターにいくつかの候補が表示される。目当ての本の収蔵場所は人文学のエリアらしい。結衣は棚の場所と、アルファベットと数字で表されたロケーションコードをメモし、壁に貼られた配置図を頼りに本の杜に足を踏み入れた。
修平の探している本は、周りを孔子や清少納言を題材にした書籍に囲まれて肩身の狭い思いをしていた。奥に引っ込んでいたものだから、見つけるのに時間がかかってしまった。
『コーヒーと文学』と書かれたその本を手に取る。表紙は黄ばんでいたが、パリッとした紙の匂いは新鮮さをはらんでいた。結衣はたまたま目に入った『世界の中の日本文学』という本と一緒に貸出コーナーへ向かった。
結衣のシフトは四月から、夕方からクローズまでの時間帯に戻っていた。とはいえ授業のないこういう時期、結衣は出勤時刻のだいぶ前からカフェに行くことがあった。修平から頼まれた本を渡し、カウンターの一番端の席に座って、自分が借りてきた『世界の中の日本文学』を読んで過ごした。
結衣はカフェの空気が好きだった。コーヒーの香りが染み付いたテーブルも、テーブルに垂れ下がるレトロな照明も、照明から漏れ出る温かで穏やかな明かりも、明かりの下で働く佳奈子や修平のことも好きだった。
本の内容はどこで読んでも変わらないはずなのに、この場所で読むと、文字の一つひとつに命が宿ったように、結衣の頭の中へまっすぐ入ってくるように感じる。その瞬間、坪内逍遥や小林多喜二の生きていた時代の風景が蘇るのだ。文学が歴史を作り、そしてそれが後世に歴史を伝える術となる。活字の中に埋め込まれたタイムカプセルを丁寧に掘り起こす様が見えるようだった。
結衣は夢中になって読んでいた。アルバイトの時間が迫っているのにも気づかなかったほどだ。
「結衣ちゃん、そろそろ用意しないと、佳奈子さんにどやされるぞ」修平がカウンターをコツコツと指で叩いた。
「あ、ごめんなさい」結衣は顔を上げ、本を閉じた。柔らかく苦笑する修平はカップを磨きながら、「そこで本を読むとそうなっちゃうのはわかるけどね」と言うと、カップを戻して厨房に引っ込んでいった。
佳奈子の作ったこの《カフェ・ラ・ルーチェ》は、結衣の求めていた場所だった。都会らしいスタイリッシュさとはまた違って、落ちついた照明も、丁寧に磨かれた一枚板のカウンターも、この空間を構成するすべての要素が結衣を包み込んでいた。ここは、その名前の通り光を灯す場所だ。
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