第5話 春分 前編

 結衣は夕方が好きだった。昼と夜の境目にあたる時間は、一日を振り返り、明日を考えるいい機会だ。春めいて、その時間が少しずつ長くなっていく。それは結衣にとって好ましいことだった。とりわけ、アルバイトが休みの日曜日は名実ともに安息日である。

 そんな午後のひと時を、結衣は果帆と過ごしていた。果帆に会うのは一週間ぶりだった。その間、果帆はサークル合宿に行っていた。合宿といっても、それはサークル仲間とスキーやスノーボードを楽しむ、という催し物だった。自称スノーボーダーの果帆は、暖冬だというのに今年も月に二回のハイペースでスキー場に出かけていた。さすがに今回が最後だろうが、春にスノーボードとは、どれだけ冬のレジャーが好きなのだろう。


「それで、合宿はどうだったの?」

「あんまりね。後半は暖か過ぎて、雪はザラメみたいだったし」

 果帆は不満そうだった。東京で生まれ育った果帆にとって、一面の銀世界というのは日常とは隔絶された空間なのだろう。それが期待通りでなければ、何のために新潟まで行ったのかわからない。果帆の言いたいことは詰まるところそのようなものだった。結衣が抱く雪への感情とは違う。たとえ東京に生活の軸足を移しても、結衣にとって雪は生活の延長線上にあった。雪が降れば雪かきをしなければいけないし、玄関を開けた時に見える景色が全て真っ白だと、嬉しいというよりは残念な気持ちになる。

 暮らす場所が違えばものの見え方は違ってくる。そういうことも、結衣が東京に出てきて実感したことだった。


「まあよかったじゃん。とりあえず、無事に帰ってこれたし」結衣は話を切り上げる。果帆のスノボ話を聞いてもいいのだが、それはもう少し期間を置いた方がいいだろう。

「この日のために帰ってきたんだもん」果帆もそんな結衣の気持ちに気づいたのか、たちまち相好を崩した。注文をしてから十分ほどが経っていた。そろそろ運ばれてくる頃だ。

 結衣と果帆は新宿に来ていた。百貨店をぶらぶらとしたあと、二人は目的の場所に向かった。駅からすぐのビルにあるフルーツパーラーだ。三連休の真ん中、しかも午後三時を回った頃とあって、店は大変な混雑だった。入り口の外にまで行列が伸びていて、近くの案内板には一時間待ちの札が掲げられていた。


 結衣と果帆は迷わずその行列に並んだ。待ち時間をなんとも思わないのは大学生の特権かもしれない。きっちり一時間後、結衣と果帆は席に案内された。窓際の席に、果帆が窓を背に座った。

 メニューの種類は少なくても、どれも美味しそうで目移りしてしまう。結衣も果帆もなかなかひとつに決めることができなかった。ちょうど結衣の斜め後ろの席にパフェが運ばれてきて、実物を見るにつけ、悩みは深まるばかりだった。

「あの席すごいね。みんな男子だ」果帆がメニューから顔を上げ、覗き見るようにして囁いた。結衣もそっと振り返る。結衣たちと同じくらいの年齢だろうが、男性客が四人テーブルに窮屈そうに座り、互いのパフェを指差しながら談笑していた。


 メニューを眺め、周りの席の様子を伺い、またメニューとにらめっこをする。そうして散々悩んで決めたものの、今度は互いの注文したパフェがどのようなものか考えて、会話は途切れがちだった。合宿の話を切り上げてしまい、結衣はどうしようかと話題を探した。

 好ましい話は思いつかなかった。嬉しそうな顔をする果帆を見ていると、それだけで結衣の気持ちは満たされる。けれど、そういう時に限って、果帆の笑顔の向こう側が急速にしぼむイメージが脳裏に浮かんでくる。暗く沈むスクリーンの向こうに、どうして自分と一緒にいてくれるのか、真剣に聞いたあの日のことが映った。それはついこの間、試験監督補佐のアルバイトをした頃のことだ。


 田舎育ちの垢抜けない自分と都会育ちの果帆。釣り合いが取れているとは言いがたく、結衣は独り悩んでいた時期があった。そこには素直になれない自分がいた。普通に友達になってくれただけなのに、果帆には何かを期待し、そして何かに恐れを感じていた。

 結衣の問いかけに対して、果帆の答えは単純だった。

「だって、楽しいでしょ」

 それは結衣個人の性格や人間性を指しているのか、一緒に過ごす時間を指しているのか、結衣はそんなことを考えてしまう自分が嫌いだった。結衣の中には二人の結衣がいた。素直で穏やかな結衣と、臆病で弱い結衣だ。二人のせめぎ合いの中で、結衣の感情は揺れ動いていた。


「楽しいって、それだけ?」

 結衣は強がり、そう言っていた。それでも、その頃から結衣と果帆の間に横たわる空気は少しずつ変わっていった。冬の空気がいつの間にか春の空気に変わるように、素直な親しみと尊敬の比重が増していった。

 一緒にいると楽しい。果帆のまっすぐな言葉を、結衣は自分の手で歪めていた。無垢な言葉を汚していたのは自分なのだ。果帆から楽しいという言葉を引き出した何かが自分にあるのならば、その自分を好きになればいい、そう考えるようになった。


 劇的な何かがあったわけではない。二人でいる時間が重なっていっただけだ。しかし、大学生になる前の自分を振り返ると、そこには今の結衣とは違う自分がいた。相手の感情がわからず、その気分を害したくないと何も言わないでついていくだけの自分。そこには相手を思いやる心も慕う気持ちもなく、ただただ嫌われたくないという独善的な感情だけが渦巻いていた。それは友情ではない。自分のことしか考えていなかった自分が、果帆と出会ったことで大きく変わり始めた。それは確かだった。

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